いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

平和の誓い 四日市空襲殉難碑  (鵜の森公園)

2013-10-30 | 四日市市内の戦争慰霊碑(データ)

平和の誓い 四日市空襲殉難碑 
1980年6月 四日市空襲殉難碑建立委員会 

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平和の誓い
四日市空襲殉難碑

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殉難碑撰文
 昭和十六年十二月八日に勃発した太平洋戦爭
は、ポツダム宣言受諾によって、同二十年八月
十五日遂に我が国の敗戦に終った。
 この間、アメリカ空軍重爆撃機B29による
日本本土への空襲は日ましに激化し 戦禍はとど
まるところを知らなかつた。海軍燃料廠をはじ
め多くの工場群を擁した四日市市も、前後六回
にわたる苛烈な爆撃により壊滅的被害を受けた。
 わけても最初の爆撃を受けた六月十八日の
災禍は悽愴の一語に尽きる。即ち午前零時四十五
分頃から約一時間にわたり、B29三十五機の、
三万発におよぶ油脂焼夷弾等の絨毯爆撃により
市街地は灼熱のるつぼと化し、退路を断たれた
多くの市民は、阿鼻叫喚の巷を彷徨した。炎の
犠牲となるもの、壕に閉され窒息死するもの、
身をかえりみず消火に一命を賭するもの、あわ
せて八百余名にのぼった。恐怖の一夜が明ける
と、一望焦土と化した焼跡に、ただ呆然とたた
ずむもの、未だ硝煙のくすぶる中を、肉親を求
めて右往左往するもの、まさに戦爭のうんだ
悲劇である。
 終戦後三十五年を経た今日、各方面の浄財に
よって、ここに新しく四日市空襲殉難碑を建立
しその霊の安らかなることを願い、後世悲惨な
る戦爭の絶滅を期し、世界永久の平和を祈念す
るものである。

四日市空襲被災記録

被爆年月日昭和二十年六月十八日、同二十二日、同二十六日
同七月九日、同二十四日、同二十八日
戦災死者八百余名
重軽傷者一、七三三人
被災人口四九、一九八人
被災戸数一〇、四七八戸

昭和五十五年六月
四日市空襲殉難碑建立委員会

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塩浜小学校

2013-10-15 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

コンビナートの見える学校

    塩浜小学校

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 四日市では、第一コンビナートの建設にともない、1962(昭和37)年頃より塩浜地区の学校にも大気汚染や騒音などの影響が問題となり始めます。

 昭和四日市石油四日市製油所の西に隣接していた塩浜中学校では、悪臭と県道の騒音で授業が中断されるほどでした。同じくコンビナートの南の塩浜小学校でも、児童の健康に影響がみられるようになります。特に被害が深刻であった塩浜中学校は、1968(昭和43)年、600mほど南西の現在地に移転しました。

 塩浜小学校は市教育委員会の研究指定を受けて、公害と児童の健康という課題と取り組み、1965(昭和40)年「公害から児童の健康をどう守るか」という実践報告をおこないました。肺機能障害の調査や、大気汚染の児童への影響を分析し、公害から児童を守るため、体力・抵抗力をつける保健実習の強化がすすめられました。
 報告書には、先行する研究や教育実践がない中で、研究指定されたことがきっかけとなり地域の課題にこたえようと公害の問題に取り組むことになった気持ちが、次のように述べられています。

   
   この汚染された空気の中に住み且つ学ぶ一千数十名の児童をそのままにしておけるものだろうか。少しでも身体への影響を防ぎたい。その為には教育として学校がしてやれることがあるのではなかろうか。このような悲願から、公害と教育とを結んで研究し実践しようと思い立ったのである。(『公害から児童の健康をどう守るか』四日市市教育委員会 四日市市立塩浜小学校 1965.10.27)

 1966(昭和41)年5月の公害認定患者のうち児童・生徒は38人で、塩浜小学校の児童は21人でした。1967(昭和42)年10月には、塩浜中学校の女生徒が、ぜんそくの発作で亡くなりました。1970(昭和45)年になると、小学生の認定患者は125人(うち塩浜小児童34人)に増加しました。

 公害対策として塩浜小学校で取り組まれたのは、空気清浄機の設置、毎日継続して行った乾布まさつとうがい、マスク、肝油の服用、防害植樹などでした。

■空気清浄機
1964(昭和39)年5月、 四日市市と三重郡楠町が、ばい煙規制法の規制地域に指定されたため空気清浄機の設置が検討されました。6月、汚染地区と非汚染地区の小学校に設置して実験を実施したところ、効果が認められたので、1965(昭和40)年4月には、汚染地区の幼稚園、小・中学校に、189台の空気清浄機が設置されました。塩浜小30台、三浜小28台、納屋小16台、東橋北小18台でした。
当初は、塩浜小学校でも、一年生は全教室、二年生以上は奇数学級のみの設置でしたが、やがて教室毎に設置されるようになりました。空気清浄機を有効に使うためには、教室を密閉しなければなりませんが、夏場冷房のない教室の窓を閉めて運転することは、たいへん難しいことでした。

■乾布まさつ
乾布まさつは、日課の中で、全校一斉、音楽に合わせておよそ10分間行われました。子どもたちが楽しく実施できるように、塩浜小学校独自の「乾布まさつの歌」が作られました。

■うがい
うがいは、授業の間の休み時間、給食前に、全校一斉に、また、体育や清掃の後には学級で行われました。水、食塩、オラドール、重曹、ハッカなど、薬剤の実験も重ねられ、うがい場も整備されました。各階に80、全校で240の蛇口が設けられました。今も、塩浜小学校のうがい場に残る「ただしいうがいのしかた」には、次のように記されています。

  頭をうしろにさげるようにして上をむき 目はてんじょうをみる
  口をあけて「がらがら」と10回ぐらい声をだしてはきだす これを3回くりかえす
  のどのおくまで水をいれてよくあらいだす
  1日に6回する(2回はくすりで)


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写真提供 澤井余志郎さん

■マスク
全児童、全職員は、活性炭の入った特殊なマスクを常時携帯し、登下校や悪臭のひどい時に使用しました。「公害マスク」「黄色のマスク」などとよばれました。汚れたマスクは、洗って使用しました。

■防害植樹
空気の清浄、防煙防塵の効果と美観、教育効果を考えて、特にコンビナートのある北側に常緑帯が設けられました。有毒ガス、ばい煙、ばい塵に強く、当該地の気候や土壌に合った樹木が選ばれ、ポプラ、くろまつ、さんごじゅ、あかまつ、くすなどが植えられました。

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塩浜小学校にやってきた煤煙測定車 1967年11月
写真提供 澤井余志郎さん

現在の塩浜小学校(2012~13年撮影)


●うがい場 塩浜小学校では、各階に設置されています。

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●郷土資料室
1994(平成 6)年3月 改装されました。
寄贈された昔の生活用具や漁具、大気汚染が激しかった時代の学校の様子を伝える写真などがあります。四日市公害裁判の原告のお一人である野田之一さんも、かつて使用していた船の艪(ろ)や魚網を寄贈されています。

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●4階展望台から隣の第一コンビナートが間近に見えます。

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グランドから、川を挟んで南にある昭和四日市石油のタンクが見えます。
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(2013年2月記)

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第二海軍燃料廠関連施設(日永) 位置図

2013-10-01 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

第二海軍燃料廠関連施設(日永) 位置図 
2013年8月作成 (C)Nakajima Hisae

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戦闘機「秋水」燃料工場(建設を担当した北川組HPで公開の地図より推定)
    現在は何も残されていません。

「秋水」燃料貯蔵用トンネルの入り口 
    北川組の資料では、当時「秘呂」と呼ばれていたようです。
    現在、入り口はコンクリートで密閉されており、中に入ることはできません。

海軍燃料廠が武器などを秘匿したと伝えられている沼
    現在は埋め立てられ、運動場になっています。

海軍燃料廠が武器などを秘匿したと伝えられている沼から、水を抜くために建設しようとしたと伝えられているポンプ設備遺構
    現在、ポンプ設備の一部と思われるコンクリート製の台が残っています。

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海軍燃料廠建設のポンプ施設と伝えられている遺構 (西日野町)

2013-10-01 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

沼に隠された武器

  海軍燃料廠建設のポンプ施設と伝えられている遺構 (西日野町)

 
 
1940年代に四日市の沿岸部に建設された第二海軍燃料廠は、空襲を恐れ、1944年10月から日永の山中に燃料工場や貯蔵庫などを建設しました。現在も山の中に貯蔵用トンネルの一部が残されていますが、入り口はコンクリートで密閉され、入ることはできません。建設した北川組の資料によると、トンネルは戦争当時「秘呂」と呼ばれていました。

 戦後、山の周辺は公園や住宅地となり、かつての山林が残っている場所はわずかとなりました。日永の山の西側にある住宅地西日野町(*註1)の中腹に、深くて大きい運動場があり、その運動場を見下ろす山頂付近に、コンクリート製の橋脚のようなものが数本残っています。

 地元の人の話によると、戦争中、この辺りは沼地で、銃などの武器が大量に隠されていたそうです。その沼から水を吸い上げるために、山頂にポンプ設備を建設しようとしたようですが、完成することなく敗戦を迎え、そのまま放置されたといいます。

 沼も戦後長く放置されていましたが、加藤寛嗣市長時代(1976~96年)に、地元の要望で埋め立てられ、住民が使える運動場に整備されたとのことです。その際、投棄されていた武器類が引き上げられることはなかったようです。

*註1 西日野町
現在残っている山の東側は日永、西側は西日野町になります。


奥が見えにくいですが、露出していて確認できたのは8柱。

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周囲に最近捨てられたと思われる廃材や金属製のレールも見えます。

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ポンプ設備(?)遺構から見える溜池跡(現在は運動場)。この写真では見えませんが、前方の山のこちら側に、海軍燃料廠の貯蔵庫だった防空壕の穴が2ヵ所残っています。

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左側の小山の前がポンプ設備(?)遺構。

(写真撮影 2012年2月)


第二海軍燃料廠関連施設(日永) 位置図はこちら

http://blog.goo.ne.jp/inorimusigib/d/20131001

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