人は必ず死ぬものだが、社会がその死に特別な意味を見出そうとする時、残された人びとは慰霊の心をかたちにしようとする。
戦争慰霊碑に言及する人は少なくないものの、多くの場合、特定の政治的主張を背景に語られるため、主張の過剰さに反して戦争慰霊碑の基礎的なデータさえ充分でないと感じるようになった。たとえば、碑のどこにも「英霊」とは刻まれていないのに、当然のごとく「英霊碑」と称されるといった具合に。「英霊」や「忠」を使うのも、そして使わないのも、そこには理由があるはずであるのに。
四日市市内の戦争慰霊碑を調べるようになり、予想以上に多様な慰霊碑が残されていることを知った。その一方で、長く後の世に伝えようとして石に刻まれたさまざまなことがらが、百年さえ耐えることができないことも珍しくはなかった。碑を存在せしめていた価値観とともに破壊され、あるいは朽ち、あるいは訪れる人もなくなって。
戦争の時代、戦争慰霊碑が戦死を賛美し戦意高揚に利用するものであったことは言うまでもないが、その戦争に負けた時、戦死を賛美してきた人びとは、どのように振る舞ったのか。
日本にとっての戦争は、思い出すには遠くなりつつあるかもしれないが、忘れ去るには、まだ「過去」になっていない。戦争の記憶がまだ生々しかった時代、人びとは、慰霊碑にどのような思いを重ねたのだろうか。現存する慰霊碑から、慰霊のかたちもまた、時代と共にその姿を変えていくことが見えてくる。