団地小説短編集を歩く

団地小説短編集の舞台を歩きながら団地や地域の魅力をお伝えします。

もう一つの多聞小唄(六甲山多聞寺)  古多聞寺異聞

2016-12-01 22:32:32 | 日記
  「団地小説短編集」には紅葉の多聞寺から始まる小説が二つ有ります。

  小説多聞小唄     神戸市垂水区の 吉祥山多聞寺 舞台は新多聞団地

  もう一つの多聞小唄  神戸市北区の  六甲山多聞寺 舞台は花山東団地

  吉祥山多聞寺は工事中のため六甲山多聞寺、花山東団地のお話から始めます。
 

 
    神戸電鉄六甲駅の北側に六甲山多聞寺が有ります。

     

       もう一つの多聞小唄(六甲山多聞寺)の引用です。
 
   雅子は愛犬のなっちゃんを抱いて登ってきた。6ヶ月に満たない子犬にはこの150段の石段を登ることはとても無理な

  話である。仮に登れたとしても、ぎっしりの落葉にまみれて巨大な蓑虫になっていたに違いない。

   ここは、神戸市北区、神戸電鉄六甲駅のすぐ北にある六甲山多聞寺である。11月も終りに近づくと、木は名残の紅葉と

  なるがその分、境内は赤と黄色のグラデーションも美しく大量の落葉に埋まっていた。

   

            羅漢さんもおられます。是非こちらもお参り下さい。

    
 
   多聞寺の歴史は古い。孝徳天皇の御代、つまり飛鳥時代は大化の改新のころのはなしである。現在の地より南東に約1,5

  kmの古寺山に創建された。

   平清盛の福原遷都により古寺山が新都の鬼門に当たることから鬼門除けの寺として壮大な伽藍が建立されたが源平の戦乱

  で焼失した。
    
   今の地に移されたのは寛正3年(1462年)つまり室町時代は応仁の乱の5年前の事であった。多聞寺は平清盛の祈願

  寺であり大河ドラマの舞台の一つでもあるわけであるが、さすがにここまで来る観光客はいない。時折,運動部の生徒が登っ

  てくるぐらいである。    まだ主役が揃いませんのでもう少しだけ引用します。

   守は雅子を見つけた。高校時代のショートカットの髪は、ロングヘアになっていたが、確かに野球部のマネージャーの

  中川雅子であった。

   「中川さん」

   「あれ、野原君」二人は10年ぶりの再会であった。 

  

   左が軒先に掲げてある多聞寺略縁起、右は有野町自治連合会の案内板である。 多聞寺略縁起には極めて控えめ平清盛

  からの歴史が書いてありますが、自治会の案内板の孝徳天皇の御代(孝徳天皇元年645年~白雉5年654年)とはどん

  な時代だったでしょうか。仏教公伝が宣化天皇3年(538年)、欽明天皇13年(552年)とする説もあります。推古

  天皇2年(594年)に仏教興隆の詔が下さたのを受けて臣連達は競って寺を作り始めました。しかし当時は飛鳥地方が中心

  で大阪の四天王寺ぐらいまで、長野の善光寺は例外的なもの、7世紀後半になると、地方の豪族にも寺院の建築を奨励したた

  めに、全国的に寺院の建築が盛んになります。

   伝承によれば、六甲山多聞寺は、大化元年(645年)法道仙人の開基と伝えられます。法道仙人はインドから紫色の

  雲に乗ってやって来られて、六甲山で修行中、毘沙門天を感得されました。修行された場所(今の六甲比命神社)を奥の院と

  して古寺山に多聞寺を創建した。古寺山の多聞寺を以後、古多聞寺と呼ぶことにします。

   それでは、古多聞寺は兵庫県最古のお寺でしょうか。しかし東播磨を中心に法道仙人の開山・開基と言われるお寺は20

  寺以上、加東市の播州清水寺は1800年以上前の景行天皇の御代、同じく加東市の光明寺は推古天皇2年(594年)他

  ほとんどが大化・白雉の時代で、紫色の雲に乗って飛び回る仙人らしくその仕事は超人的なもので有ります。

   それでは、多聞寺略縁起を見てみましょう。

  当多聞寺は往古六甲山系古寺山に在り (四十六年(註 昭和)市教育委員会の手によりその遺跡発見)‥‥

   古寺山はその後も北神地区多聞廃寺調査団六甲山麓遺跡調査会によって調査されて

     神戸市北区  古寺山遺跡調査と多聞廃寺址概要  として刊行されました。以下は極めてかいつまんだ説明です。

   現多聞寺から見ると古寺山はきれいな円錐形をした秀麗な山容、他峰から独立した山形をなし、古来山岳信仰の対象と

  崇められてきた山姿をもっている。

  

   山門から見た古寺山です。山を下りてきた多聞寺ですが古多聞寺が正面に見えるように造営されました。下りても

  なお心は古多聞寺にありたいと願ったのでしょうか。右の写真は少し西から見た古寺山です。

  

   裏六甲ドライブウェイから見た古寺山です。右の写真は山容が非常によく分かる写真ですが撮影場所を見つけられ

  ませんでしので「市民のグラフ こうべ 昭和51年3月号」より引用しました。

   「八葉蓮華の秀山」現在風に言えばパワースポット、ピラミッドパワーもありそうな山です。

   平安初期から、諸国に適地を求めて寺院の創建が起こった‥‥真言系の趣好は蓮華の形をし、とくに中心部や全容

  を金剛界、胎蔵界、その儀範で解釈できるものを最高としている。古寺山が早くからかれらに着目されたのは、その

  山容と在地信仰層の厚かったことによるものだろう。

   天安2年(858年)に、高野山の長善阿闍梨が創始したというのは信じるに足りる。長善が法道仙人の後に荒廃

  していたのを再興したしたという伝説は新しいもので、創建当時からのものであるまい。ともかく天安2年に長善阿

  闍梨が開基したというのは、その典拠を明らかにしないが確実性が高いものである。

   地方の寺院の開基は、だいたい北摂、東播地方では法道仙人とするものが多く、西摂、東摂、南摂、河内、和泉地方

  では行基菩薩とする例が多く、真実の開基者は明らかでない場合がすくなくないのである。まず古寺山のように再興、

  中興などとされている者が、真の創立者と考えてよかろう。‥‥とのお話です。

       

   裏六甲ドライブウェイの脇で見つけた石仏です。おそらくドライブウェイの工事中に見つかった石仏を集めてお祀り

  しているものと思います。もしかしたら古多聞寺に関わる仏様もいらっしゃるかしも知れません。古寺山には切開いた

  平坦地の他は見えるような遺跡は無いようです。もしかしたらパワーがあるかも知れません。

     写真は阿弥陀如来様を九体お祭りする「九体仏」と呼ばれる信仰の仏様のようです。失礼をしました。

     「もう一つの多聞小唄(六甲山多聞寺)」の次回で詳しくお詫びします。

     何度もすみません。元々は六甲山に別々にお祀りされていた仏様のようです。


     小説の本当の舞台の花山東団地の現地案内所です

     

         場  所   団地内商店街  コープミニ花山の西隣

         営業時間   10時~17時

         定 休 日   水曜日・年末年始
      
                詳しくはUR都市機構のホームページをご覧下さい


 
 
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