ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄7330

2024-11-07 22:49:30 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7330 知識人のマナー

7331 催眠術

 

知識人たちは〈マインド・コントロールは悪い〉と訴える。宗教家や法律家などの専門家は〈マインド・コントロールの定義は困難〉として訴えを退ける。

 

<程度の差、手法の巧拙はあれ、あらゆる教育が洗脳である。

(『百科事典マイペディア』「洗脳」)>

 

洗脳と適当な教育の区別は、「程度の差、手法の巧拙」によるのか。あるいは、目的の合法性によるのか。その場合、合法性は誰がどのようしにて決定するのか。政権が変ると、区別の仕方も変わってしまうのか。だったら、安心して暮らせないよね。

〈洗脳〉は「還元的感化」(N『文芸の哲学的基礎』)の「感化」と同じか。〔4510 「還元的一致」〕参照。「還元的感化」は自己暗示。夏目漱石を読むという虚栄 4510 - ヒルネボウ ただし、そのことにNは気づいていない。

 

<ヒトラーはナチス党の党首として、街頭演説を行います。それは広場を利用して行われたのです。そして洗脳したナチス党員を聴衆の外側に配置します。聴衆は、ヒトラーの演説が始まり、佳境に達してくると「そのとおり!」と叫びます。そうして党員たちはだんだん聴衆の中に入り込んでいき、「そのとおり!」と叫びだします。すると聴衆には、何となくヒトラーの演説がもっともらしく聞こえてくるわけです。一緒になって「そのとおり!」と叫ぶ聴衆が増えてくるので、頃合いを見計らい、ヒトラーは集団催眠をかけるのです。聴衆の心は、すでに群衆効果によってヒトラーの方を向いています。ですから集団催眠をかけることは、さほど困難ではなかったでしょう。ヒトラーの演説が終わる頃には「ハイル・ヒトラー」の大合唱になっていたわけですから、ヒトラーの催眠術の利用方法が、いかに効果的であったかわかるでしょう。ヒトラーの思想自体は、いわゆるファシズムですから、ヒトラーがいくら素晴らしい演説を行ったところで、自分の首を自分で絞めるような「ファシズム思想」に、一般の市民である聴衆が賛同するはずがありません。第二次大戦前の退廃した空気を敏感に察知したうえでの行動とはいえ、催眠術や洗脳といった考え方なくしては、ヒトラーがあのような短期間でドイツ国民の気持ちをまとめていったとは考えられないわけです。

(百舌鳥伶人『催眠術のかけ方』「二章 催眠術のメカニズム」)>

 

『キャバレー』(フォッシー監督)参照。『フィスト』(ジュイソン監督)は実話だろう。『ウェーブ』(ガンゼル監督)では、集団催眠の恐ろしさを教えるために教師が生徒たちに催眠をかける。ところが、それが解けなくなり、ひどいことになる。必見。

〈自分はサタンに支配されている〉という催眠にかかった人に向って、〈サタンなんか、いない〉と言っても無駄らしい。〈サタンはいる〉ということにして、エクソシストを装い、〈サタンよ、去れ!〉と逆の催眠をかける。こうするのが有効らしい。

文豪伝説の信者には『こころ』より面白い小説を読ませたらよかろう。しかし、夏目宗徒に対してエクソシストを演じることは、私にはできない。いや、できなかった。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7330 知識人のマナー

7332 危険な声

 

ヒトラーのような演説の達人でなくても洗脳はできる。党員がサクラを演じる必要もない。騙されたがる人は簡単に騙されてしまうのだ。

騙されたがる人は、愚者ではない。知識人だ。

 

<――近衛の演説の録音を聞いてみても正直あまり演説がうまいとは思えないのですが、なぜあれほどまでの人気があったのでしょうか。

竹山 やはり、天皇家と並ぶ藤原氏の五(ご)摂家(せっけ)の筆頭という名門で出であることや、陸軍の横暴により政局が不安定ななかで、近衛の「インテリ」性に国民は期待し好意を持ったのではないでしょうか。国民だけではなく、天皇も元老の西園寺公望も近衛を非常に買っていました。西園寺が近衛を首相に推薦したわけですから。政治家、軍人、そして国民全体も、近衛文麿という人物に好意を持っていたといっていいと思います。

――近衛や松岡洋右のラジオ放送を聞いてみると、論理や理屈などもあまり通っていないように感じます。それよりもむしろ、国民の心に訴えることが目的のような感じですね。

竹山 戦中の政府指導者たちの演説ではどういう語句が使われていたかを分析してみると、「天皇」に関するキー・シンボルが多く使われていました。この戦いは「聖旨」すなわち天皇の意思、天皇の命令によるものだと強調し、その大命に従うことが臣民の道であると国民に訴えました。そして、日本軍の連戦連勝は「御稜(みい)威(つ)」(天皇の威光)のゆえであると力説しています。こうした「天皇神話」への寄り掛かりが演説内容を空疎(くうそ)なものにしていたといえます。そして、皇軍の優勢や聖戦の正当性を強調しています。そうした箇所では一段と声を張り上げて訴えかけています。会場の聴衆はそうした大言壮語を歓迎しました。ラジオから流れてくる会場の聴衆たちの歓声や拍手を聞いて、茶の間の人たちの気持ちも高ぶってくる。戦意高揚という点からいえば、ラジオは大変に大きな役割を担ったメディアだったといっていいと思います。

(NHKスペシャル取材班『日本人はなぜ戦争へと向(む)かったのか―メディアと民衆・指導者編―』「第一章 メディアと民衆 “世論”と“国益”のための報道」竹山昭子)>

 

「インテリ」は危険なのだ。

「論理や理屈などもあまり通っていないよう」だからこそ、「智に働けば角が立つ」(N『草枕』)などを名文と思い込まされた知識人は「好感」を抱く。

「明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気」(下五十五)に確かな意味はない。だからこそ、「明治の精神」は「キー・シンボル」として機能する。

『こころ』が「空疎(くうそ)なもの」だからこそ、文豪伝説への「寄り掛かり」が生じる。

「声」は危険だ。「この漠然とした言葉が尊(たっ)とく響いた」(下十九)から、Sはしくじった。「漠然」としているからこそ「響いた」のだろう。『こころ』は「戦意高揚」に寄与した。

「ラジオ」が「大きな役割を担ったメディア」なのは、「ラジオの「熱い」衝撃」(マクルーハン『メディア論』)もさることながら、「茶の間」にラジオのある家の「「インテリ」性」が大きく関係していたろう。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7330 知識人のマナー

7333 中村真一郎

 

宗教的あるいは政治的信条などの相違を超えた知識人たちのマナーのようなものがあるらしい。彼らは意味不明の作文を許容するばかりか、有難がりさえする。

 

<たとえば、近代最大の作家、夏目漱石を考えてみましょう。彼の初期の『吾輩は猫である』は、ドイツ・ローマン派の、E・T・A・ホフマンの『牡猫ムルの人生観』からヒントを得て、真似したことは明らかですし、『虞美人草』の絢爛無比の文体と、女主人公の心理のソフィストケイトぶりは、明らかに当時の英国の流行作家、ジョージ・メレディスの『エゴイスト』を日本に移そうとしたのは間違いありません。

それが『彼岸過迄』の、伝奇趣味となると、例の『ジキル博士とハイド』などを書いたR・L・スティーブンスンの向うを張ったのでしょうし、一転して『道草』の平淡な日常の描写は、十九世紀はじめの女流作家、ジェイン・オースチンの『説得』などの細緻で、けれんのない筆致によって反省させられた結果でしょう。そして、最後の『明暗』の層々累々たる心理の構築は、ヘンリー・ジェイムズの難解さへの挑戦とも見られます。

このようにして、漱石は次つぎと、西洋近代文学の宝庫から、すぐれた手本を引き出し、日本の社会に適応して、西洋に負けない近代小説の建設につとめたのでした。

(中村真一郎『文学 この人生の愉(たの)しみ』「第12回 近代文学の世界性」)>

 

「近代」は〈日本「近代」〉の略。「最大」の証拠は? 「夏目漱石を考えて」は意味不明。

『吾輩は猫である』と『牡猫ムルの人生観』の関係は、「明らか」ではない。

 

<自分ではこれ程の見識家はまたとあるまいと思うていたが、先達てカーテル・ムルと云(ママ)う見ず知らずの同族が突然大気燄(たいきえん)を揚げたので、一寸(ちょっと)吃驚(びっくり)した。

(夏目漱石『吾輩は猫である』十一)>

 

『ホフマン全集』第7巻「作品解題」参照。

「絢爛」ではなく、冗漫。知識人を誑かすための美文もどき。「無比」かな、泉鏡花と比べても? 「ソフィストケイト」は呆れるばかり。「女主人公」の出典は『ヘッダ・ガブラー』(イプセン)だろう。ただし、Nの誤読に基づく皮肉で、しかも失敗した皮肉。設定は『エゴイスト』だろうが、ヒロインはエゴイストではなくて、その被害者だ。原典における男女の関係が入れ替わっている。「『エゴイスト』を日本に移そう」は意味不明。

「伝奇趣味」に困惑。原典は『ジキル博士とハイド』じゃないんだよね。じゃあ、何? 『彼岸過迄』と『道草』の間の『こころ』が抜けている。なぜだろう。『道草』が「平淡な日常」だって? 「『説得』など」の「など」は怪しい。

「層々累々」は〈層累+死屍累々〉か。「心理の構築」は意味不明。「難解さへの挑戦」は意味不明。「とも見られます」で化けの皮が剥がれたか。お疲れ様。そこらで一服してて。

「適応して」は〈適応させて〉の間違いだろう。「負けない」というが、勝ったのか? 「負けない」は〈勝てない〉の隠蔽だろう。「つとめた」から、どうなのか? 

(7330終)


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