(書評)
『考え方の論理』(講談社)
著者 沢田允茂
「講談社学術文庫ジャンル別フェア いま読みたい100冊」の一冊だが、私はお奨めしない。腑に落ちないからだ。そのわけに気づいたのは、解説を読んでからだ。
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<沢田さんの、これらの書物は、記号論理の本質をよく説明していますが、記号論理の教科書ではありません。もっともっと、人間くささに満ちた書物です。それが、これらの書物が「安心して読める」ゆえんだと、私は思っています。
(林四郎「解説」)>
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「もっともっと」は意味不明。
私の場合、「安心して読める」部分は多くなかった。「人間くささ」が災いしたのだろう。オッサンの体臭は嫌い。
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<「みなさん、進歩的知識人などという人びとは、ぜんぶ共産主義者であると、わたしはいいきってもいいと思います。なぜなら、共産主義者たちは、すべて国旗掲揚にたいして反対していますが、進歩的知識人といわれる人びとも、同じようにすべて国旗掲揚に反対しているからであります」
(同書「7 意味のあいまいさ」)>
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著者は、この発言について、「論理的なまちがいがある」と指摘する。
だが、ない。これは下手な嘘なのだ。「国旗掲揚」について、ソ連、中国、北朝鮮などの映像を見たら、まるで逆だと知れる。だから、「共産主義者」は〈日本の「共産主義者」〉などでないと、嘘になる。「国旗」は〈日の丸の旗〉限定だ。
本当の問題は「ぜんぶ」というのが正しいか、どうかだが、この問題は誰にも解けまい。つまり、真偽を確かめられない。「ぜんぶ」は〈私の知る限り「ぜんぶ」〉の略と見なそう。すると、問題は消える。
さて、「共産主義者」の定義は何か。「国旗掲揚に反対している」ことか。そうだとすれば、この発言に「論理的なまちがい」はなかろう。
続き。
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<同じように、「みなさん、A氏はまさに極右の危険思想家であるといわねばなりません。なぜなら極右の危険思想家たちはすべて国旗掲揚に賛成していますが、A氏もまた国旗掲揚に賛成してからであります」という反対の意見もでてくるでしょう。
(同前)>
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この「意見」についても、前と「同じように」考えられる。つまり、これにも「論理的なまちがい」はない。二つの「意見」に足りないのは、論理ではなく、知識だ。
「極右」って何?
どうでもいいが、「極右の危険思想家」と対置すべきなのは「共産主義者」ではなく、〈極左の「危険思想家」〉だろう。
この「反対の意見」は何に対する「反対の意見」なのだろう。〈「反対」の立場の人の「意見」〉などの不当な略らしい。しっかりしてね。
続き。
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<このような調子の高い演説を力いっぱいぶたれると、ふだんからそれぞれの立場が大きらいな人たちは、おおいに心を動かされ、賛成してしまうかもしれません。しかし、これらの演説の中には論理的なまちがいがあるのです。
わかりますか? それではこれと同じ考えかたをしているほかの例をもってきてお話してみましょう。
「みなさん、すべての人間はウマであります。なぜなら、ウマは生物でありますし、人間もまたすべて生物だからであります」
と、だれかがいったとしますと、みなさんのうち、ほとんどの人が、「これはおかしい、へんなことをいう」と頭をひねることでしょう。けれども前の演説ですと、すっかりごまかされてしまいます。
(同前)>
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「ほとんどの人」には参ったよ。論理は輿論か? 多数決で真偽を判別できるのなら、論理は不要だろう。
「ほとんどの人」が真実だとしても、少数派は存在しうる。彼らは、「ウマ」が大好きなんだな。人馬一体なんちゃって、人間同士で〈馬が合う〉という。
〈みなさん、すべての人間はサルであります。なぜなら、サルは霊長目でありますし、人間もまたすべて霊長目だからです〉
「ずるく、模倣の小才ある者」(『広辞苑』「猿」)という解釈もできる。
『猿の惑星』に「合理的なまちがい」があるか?
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<じつはこの二つの語り方は論理の型としてはまったく同じで、両方とも論理としては成り立ちません。そのような点からみますと、これら二つの論理はどちらも非論理的な考えかたなのです。しかし、だれもあとのばあいのようなバカなことは言わないのに、なぜ、前のばあいには、それが非論理的であると気づかないのでしょうが。それはだれも人間とウマとが同じであることをのぞんでいないのですけれど、世の中のある種の人たちは、きらいな進歩的知識人と共産主義者とを気持ちの上からどうしても結びつけたがったり、また反対に、A氏をきらいな右翼的思想の持ち主といっしょにしてしまいたいという感情をもっているのです。そして感情的なものが、正しい論理的思考をゆがめてしまい、非論理的なものをおおいかくしてしまうからだといえます。
(同前)>
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「二つ」って? 〈三つ〉じゃないの?
「まったく同じ」ではない。なぜなら、「共産主義者」や「極右の思想家」の意味は「あいまい」だが、「ウマ」の意味は「あいまい」ではないからだ。ただし、「ウマ」に関する科学的な定義を「ほとんどの人」は知らないはずだ。私は知らない。
「ほとんどの人」が「だれも」に変わったぞ。怪しい人だなあ。
「気づかないのでしょうか?」って、答えはもう出ているよね。「バカ」だからだよ。
また、「だれも」だ。本当に困った人だね。
「結びつけたがったり」の「たり」が一個しかないよ。ワードの校正が青い波線を引いてくれているよ。「たり」が一個は「非論理的」じゃないのかな。
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<同様のことが他にあるのを暗示しつつ、例示する。「泣い―たりしては駄目」
(『広辞苑』「たり」②)>
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著者は何を暗示しているのか。何も暗示していない。「いっしょにしてしまいたい」に「たり」を付けられなかっただけだ。日本語が下手ってこと。
「感情」は、ありきたりの逃げ口上。
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<たしかに人間というものは、理性の働きだけで生きているものではありません。感情的なものや、パッと頭にうかんだものは、理性の働きではどうにもならない力となって人間を動かしていきます。しかしこのような行動を、人間がそれぞれ持っている目的を実現させるために役立つような行動に変えていくには、目的とそれをなしとげる手だてとの間のつながりを冷静に判断して、より広く正しい行動をするための案内図をつくりあげていくために、考えかたが論理的にきちんと働くことが必要です。
(同前)>
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オッサンのお説教だぜ。「バカ」みたい。「論理的なまちがい」が「もっともっと」ありそう。お暇なら検討してね。
公理主義者が功利主義者に変身かな。
(終)