夏目漱石を読むという虚栄
6000 『それから』から『道草』まで
6500 近道の『道草』
6550 男の「理窟」と女の「発作」
6551 「忌(い)み嫌う念」
幼児の健三は、養母を実母と信じていた。だから、彼女に対する違和感などは第一反抗期の気分と区別できない。一方、Nは小説で「母」に執着する男を何度も小説に登場させてきた。依存と忌避が混交している。〈どちらがNの本音か〉というような問題を解くことはできない。いや、解く必要がない。混交こそ実情なのだ。
お常は再婚する。その後の消息は知れない。健三には、養母と和解する機会が与えられなかった。逆に、彼女を憎み続けることもなかった。
<彼は御常の世話を受けた昔を忘れる訳には行(ゆ)かなかった。同時に彼女を忌み嫌(きら)う念は昔の通り変らなかった。要するに彼の御常に対する態度は、彼の島田に対する態度と同じ事であった。そうして島田に対するよりも一層嫌悪(けんお)の念が劇(はげ)しかった。
(夏目漱石『道草』四十五)>
「昔」は〈「昔」の恩〉などの不当な略。健三が言葉にしたくないことを、語り手は言葉にしない。非力な語り手だ。
「同じ事」ではない。異質なのだ。
「一層」ではない。異質なのだ。
<彼は退屈のうちに細いながら可なり鋭ど(ママ)い緊張を感じた。その所為(せい)か、島田の自分を見る眼が、さっき擦(すり)硝子(ガラス)の蓋(かさ)を通して油煙に燻(くす)ぶった洋燈(ランプ)の灯(ひ)を眺(なが)めていた時とは全く変っていた。
「隙(すき)があったら飛び込もう」
落ち込んだ彼の眼は鈍い癖に明らかにこの意味を物語っていた。自然健三はそれに抵抗して身構えなければならなくなった。然し時によると、その身構えをさらりと投げ出して、飢えたような相手の眼に、落付を与えて遣(や)りたくなる場合もあった。
その時突然奥の間で細君の唸(うな)るような声がした。健三の神経はこの声に対して普通の人以上の敏感を有(も)っていた。彼はすぐ耳を峙(そば)だてた。
(夏目漱石『道草』四十九)>
「彼」は健三。〈「細い」~「緊張」〉や「鋭どい緊張」は意味不明。
島田は金をせびりに来た。「さっき」健三は島田を「気の毒な人として眺めた」(『道草』四十八)のだった。健三が御常に対して島田に対するのと同種の同情をしたとは考えられない。
「意味を物語って」は困る。妄想と推量がごっちゃになっていることの露呈だろう。
「その時」は前文の「場合」とそぐわない。話の順序が通常と逆。
「細君」は男たちの様子を隣室から窺っていた。夫が金を出しそうになったので怒りや惑いなどのせいで発作が起きそうになった。何とか耐えて「奥の間」に来て、「声」を上げたのだろう。だが、作者は不思議なことを暗示しているつもりだ。
〈「神経は」~「敏感をもって」〉は意味不明。
6000 『それから』から『道草』まで
6500 近道の『道草』
6550 男の「理窟」と女の「発作」
6552 「同じ道」
Sの「覚悟」表明の前、Pは「恋」に関してSを詰問する。Pは静の意を受けている気だったらしい。彼は、少年健三のように、「母」の代わりに「父」の心境を探偵している。
<「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答を避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり、自分が信用出来ないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪(のろ)うより仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。遣(や)ったんです。遣った後で驚ろ(ママ)いたんです。そうして非常に怖くなったんです」
私はもう少し先まで同じ道を辿(たど)って行きたかった。すると襖(ふすま)の陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十四)>
健三がSで、島田がPで、静が御住に対応する。
「奥さんも」は〈「奥さん」のこと「も」〉の略。
「不安な顔」は、〈静が盗聴しているから言えない〉という暗示だろう。ただし、Pに対する意図的な表現にはなっていない。盗聴を、作者は妄想的なものと誤解しているらしい。
「直接」は〈直截〉と解釈する。「避けた」のは、静の耳を慮ったからだ。
「信用」は意味不明。真意は〈信頼〉だろう。その場合でも、「私自身さえ信用」は意味不明。ちなみに、近頃の〈自分に自信〉も意味不明。
自分を信用しないのなら、〈自分を信用しない自分〉も信用しないはずだ。〈自分を信用しない自分〉を自分が信用し過ぎているのだろう。「なっている」は意味不明。「運命」(下四十九)のせいか。「出来」と「でき」の違いは何か。ないか。
「自分を呪う」は意味不明。したがって、その「仕方」の〈あり/なし〉も不明。
「むずかしく」は意味不明。「確かなもの」という話は唐突。
Pの質問の眼目は「むずかしく」だった。ところが、Sは重要ではない「考えれば」に引っ掛けて「考えた」と論点をすらし、さらにそれを自分で却下して、「遣った」という話を始める。かなり焦っているようだ。
さて、Sは何を「遣った」のだろう。〈SはKを殺した〉という事件が暗示されているとすれば、殺人事件と「信用」問題と、どういう関係にあるのだろう。
「同じ道」は意味不明。この「道」を語り手Pは明示していない。
「すると」は、具合が悪い。語られるPは幽体離脱をし、「襖の陰(かげ)」に移動した。「あなた」が「二度」か。「あなた、あなた」が「二度」か。静は、SがKの話をしかけたのに気づいて、止めたのだろう。Kの話をすると、Sの精神状態がおかしくなるからだ。しかし、こんな解釈をしてしまうと、静を視点にした『こころ』の異本が必要になる。この異本は、『藪の中』の「清水寺(きよみずでら)に来れる女の懺悔(ざんげ)」の段に相当する。
6000 『それから』から『道草』まで
6500 近道の『道草』
6550 男の「理窟」と女の「発作」
6553 「緩和剤」
健三は「母」から精神的に自立することができなかった。だから、妻を「母」のダミーとして利用した。妻は虐待され、精神に異常をきたす。
<細君の発作は健三に取(ママ)っての大いなる不安であった。然し大抵の場合にはその不安の上に、より大いなる慈愛の雲が靉靆(たなび)いていた。彼は心配よりも可哀相(かわいそう)になった。弱い憐(あわ)れなものの前に頭を下げて、出来得る限り機嫌(きげん)を取った。細君も嬉しそうな顔をした。
(夏目漱石『道草』七十八)>
「慈愛」の真意は〈自愛〉だろう。作者は「妻に対するいたわりの情が、やはり高い見地から発せられていて、この作品の救いともなっている」(紅野敏郎『道草』新潮文庫注解)といった誤読を誘っているのだ。ただし、「救い」は意味不明。
<不幸にして細君の父と健三との間にはこういう重宝な緩和剤が存在していなかった。従って細君が本(もと)で出来た両者の疎隔は、たとい夫婦関係が常に復した後(あと)でも、一寸埋める訳に行(ゆ)かなかった。それは不思議な現象であった。けれども事実に相違なかった。
(夏目漱石『道草』七十八)>
「細君の父と健三との間」に作用する「緩和剤」とは、どのようなものか。舅にも「発作」を起こさせたいのか。
健三の性格の悪さが「本(もと)」のはずだ。「むき」(『道草』七十九)だから失敗する。
まったく「不思議な現象」などではない。語り手は変だ。
健三は母子関係においてのみ通用する駄々が「夫婦関係」でも通用すると勘違いしていた。さらには、一般の対人関係でも通用することを期待していた。
<「そう頭からがみがみ云わないで、もっと解るように云って聞かして下すったら好(い)いでしょう」
「解るように云おうとすれば、理窟(りくつ)ばかり捏(こ)ね返すっていうじゃないか」
「だからもっと解り易(やす)い様に。私(わたくし)に解らないような小むずかしい理窟は已(や)めにして」
「それじゃ、どうしたって説明のしようがない。数字を使わずに筭術(さんじゅつ)を遣(や)れと注文するのと同じ事だ」
「だって貴夫(あなた)の理窟は、他(ひと)を捻(ね)じ伏せるために用いられるとより外(ほか)に考えようのない事があるんですもの」
(夏目漱石『道草』九十二)>
「緩和剤」を欲する彼は「理窟」を尊ばない。男の「理窟」は女の「発作」と同じ。
「算術(さんじゅつ)」は話が違う。「数字を使わずに」算盤や算木を使えばよかろう。
健三の「理窟」は自他を「捻じ伏せるために用いられる」のだった。
(6000終)