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夏目漱石を読むという虚栄 7340 『トカトントン』

2024-11-13 22:30:28 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7340 『トカトントン』

7341 「一億総懺悔」

 

大東亜戦争あるいは太平洋戦争の後、日本国民は戦中と同様、洗脳され続ける。

 

<東久邇宮は8月28日の記者会見で「全国民総懺悔(ざんげ)をすることが我が国再建の第一歩」と「一億総懺悔」を呼びかけたが、これは敗戦責任、ひいては戦争責任についての議論を呼び起こした。

(『日本歴史大辞典』「東久邇宮稔彦内閣」)>

 

「一億総懺悔」は戦中のスローガンのスタイル。〔6144 威張って使へ代用品〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 6140 - ヒルネボウ

 

<死去の前後から戦争責任問題が内外で再燃したが、あいまいに終わった。

(『日本歴史大辞典』「昭和天皇」)>

 

「戦争責任」について問われた昭和天皇は〈「戦争責任」という言葉は理解できない〉という趣旨の回答をした。正しい。

「戦争責任」という言葉が「あいまい」だったから、「敗戦責任」問題さえ「あいまいに終わった」のだ。

 

<国際紛争の解決はすべて平和的手段によるものとし、一切の武力使用禁止を約した。しかし理念的・抽象的にすぎたため、1930年代以降の非常事態には対処し得なかった。

(『百科事典マイペディア』「不戦条約」)>

 

で、第二次大戦が始まり、そして、終る。

 

<その結果、1945年8月に連合国が合意したロンドン協定では国際軍事裁判によって枢軸国の戦争犯罪人を、通常の戦時国際法違反のみならず、侵略戦争を計画し実行した「平和に対する罪」や、民間人の大量虐殺を実行した「人道に対する罪」でも処罰することにした。

(『日本歴史事典』「戦争責任」)>

 

「戦争責任」は戦争の何に対する責任なのか。不明。

 

<「戦争犯罪」は定義がむずかしいが、第2次世界大戦以降、国際法に反する以下の3つのカテゴリーが一般に戦争犯罪として認知されている。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「戦争犯罪」)>

 

要するに、「むずがしい」のだ。一方、「一億総懺悔」は、わかりやすい。いや、日本人にとって、わかりやすいような気がする。だから、洗脳されてしまった。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7340 『トカトントン』

7342 「朕は国家なり」

 

知識人は、「一億総懺悔」に参加するのでもなく、反対するのでもなく、偉ぶる。

 

<ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、誰やら金槌(かなづち)で釘(くぎ)を打つ音が、幽(かす)かに、トカトントンと聞えました。それを聞いたとたんに、眼から鱗(うろこ)が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑(つ)きものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。

(太宰治『トカトントン』)>

 

「その時」は、「終戦の詔勅」つまり玉音放送を聞いた直後だ。

語られる「私」が「白々しい気持」になったのは、昭和天皇のせいか。そうではないのか。そうではないという証拠はない。

 

<ある知識人がある特定の社会集団の政党に入党すると、その知識人は当の社会集団の有機的知識人たちと交じり合い、その社会集団に緊密に結びつくことになるのだが、このようなことは国家生活への参加をつうじてはごく凡庸なしかたでしか起こらないか、まったく起こらない。それどころか、多くの知識人が自分自身が国家であると考えるというようなことが起こるのだ。この信念は、この職業部類の途方もない巨大さからして、しばしば重大な結果をもたらし、現実に国家を体現している基本的な経済的集団にとって不愉快な事態を生みだすにいたる。

(A・グラムシ『知識人と権力 歴史的・地政学的考察』「第二章 知識人の形成と機能」)>

 

知識人は「朕は国家なり」(ルイ14世)といった妄想を抱きがちだ。

 

<もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁(ひんぱん)に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮かんでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだの部落に火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。

(太宰治『トカトントン』)>

 

「気が狂ってしまっている」のに違いない。

〔1232 鶏と卵〕夏目漱石を読むという虚栄 1230 - ヒルネボウ・〔1243 「解釈は頭のある貴方に任せる」夏目漱石を読むという虚栄 1240 - ヒルネボウ〕・〔1420 作家ファーストで何四天王夏目漱石を読むという虚栄 1420 - ヒルネボウ〕・〔2342 『罪と罰』夏目漱石を読むという虚栄 2340 - ヒルネボウ〕・〔3252 パシリ・メロス夏目漱石を読むという虚栄 3240 3250 - ヒルネボウ〕・〔4133 「家族的生活」と父権夏目漱石を読むという虚栄 4130 - ヒルネボウ〕参照。

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7340 『トカトントン』

7343 軍楽と爆音

 

「トカトントン」の幻聴に悩まされる自分について語る「私」は、明るい知識人だ。なぜなら、その言葉の意味はわからなくもないからだ。ただし、「憲法」や「人事」や「火事」や「伯父」や「自殺」などが話題になる理由は不明。

「私」は「某作家」に問う。

 

<教えて下さい。この音はなんでしょう。そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。

(太宰治『トカトントン』)>

 

「この音」は『とことんやれ節』に始まる戦前の軍楽の虚勢と戦中の爆音の恐怖に戦後の再建の夢が入り混じったものだろう。ただし、作者にも「トカトントン」の正体は不明であるはずだ。だから、読者にもわからない。作者は何をしているのだろう。

 

<打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。(昭和改元の第一日)

(芥川龍之介『侏儒の言葉(遺稿)』「又」)>

 

「又」は「民衆」の続き。

 

<十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智(えいち)よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼(おそ)るな、身と霊魂(たましい)とをゲヘナにて滅(ほろぼ)し得る者をおそれよ。」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂(へきれき)を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽(ふじん)。

(太宰治『トカトントン』)>

 

「いかなる弁明も成立しない」の真意は〈どんな言い逃れもできない〉だろう。「醜態」がどんな態度か、不明。〈「醜態を」~「避けて」〉は〈「醜態を」演じる・晒すことを「避けて」〉のつもりか。「某作家」は〈演じる・晒す〉系の言葉の使用を「避けて」いる。ただし、その自覚はない。では、『トカトントン』の作者は、作中の作家を揶揄しているのだろうか。違う。作者も〈演じる・晒す〉系の語句の隠蔽に気づいていない。

「真の思想」は意味不明。「叡智(えいち)」は唐突。「叡智(えいち)よりも」とあるから〈「君」に「叡智(えいち)」はある〉という前提があるのか。そうではなかろう。では、〈「叡智(えいち)」を求める「よりも」〉の不当な略記か。とにかく、意味不明。

「「懼る」は「畏敬(いけい)」の意にちかいようです」は滑稽。知識人は聖典を歪曲して憚らない。

「不尽(ふじん)」で手紙が終わる。同時に作品も終わる。『トカトントン』は落ちのない『紀州』みたいなものだ。テンカントン、天下取る。

(7340終)

 


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