ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

夏目漱石を読むという虚栄 1430

2021-02-14 23:13:36 | 評論

    夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1430 慢語三兄弟

1431 小林秀雄

 

『こころ』は誰にとっても意味不明であるはずなのに、〈『こころ』は意味不明だ〉と公言する人は少ない。なぜだろう。理由は三つ考えられる。

第一の理由は単純なものだ。著名な評論家たちが文豪伝説を流布してくれたせいだ。

 

<鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである。彼等の洞察は最も正しく芥川龍之介によつて継承されたが、彼の肉体がこの洞察に堪へなかつた事は悲しむべき事である。

(小林秀雄『私小説論』)>

 

「鷗外と漱石と」他に誰もいないのか。二人しか並べないのは怪しい。「私小説運動」および「運動と運命をともに」は意味不明。「教養」と〈表現〉の関係はどうなっているのか。『道草』は「わが国の自然主義小説」の一種ではないのか。「洞察」は意味不明。

第二の理由は深刻なものだ。小林の文章みたいな意味不明なのが流通しているからだ。

巷には、「頗(すこぶ)る不得要領」(上七)で、「意味は朦朧(もうろう)」(上十三)とした「空(から)っぽな理窟(りくつ)」(上十六)や「感傷(センチメント)を弄(もてあそ)ぶ」(上二十)ような「感傷的な文句」(上三十六)や「囈(うわ)言(ごと)」(中十六)同然の「論理(ロジック)」(下九)や「漠然とした言葉」(下十九)や「空虚な言葉」(下二十二)や「小理窟(こりくつ)」(下三十一)や「曖昧(あいまい)な返事」(下五十四)などが大量に出回っている。これらにいちいち突っ込んでいたら、疲れる。だから、棚上げにする。

第三の理由は滑稽かつ悲惨なものだ。わかったふりをしないと恥ずかしいからだ。

童話の世界の裸の王様が着ているふりをした着物は、「だれが利口かばかか、区別する」(アンデルセン『皇帝の新しい着物』)ための小道具だった。『こころ』も同様の小道具として悪用されているようだ。〈『こころ』がわからないものは向上心のない馬鹿だ〉みたいな風潮がありはしないか。

童話の世界では、「だけど、なんにも着てやしないじゃないの!」(『皇帝の新しい着物』)という子どもの声で化けの皮が剥がれた。そんなふうに記憶している人が多そうだ。

 

<「なんにも着ていらっしゃらない!」とうとうしまいに、ひとり残らずこう叫びました。これには皇帝もお困りになりました。なぜなら、みんなの言うことがほんとうのように思われたからです。けれども、「いまさら行列をやめるわけにはいかんわい。」とお考えになりました。そこでなおさらもったいぶってお歩きになりました。そして、侍従たちは、ありもしない裳(も)裾(すそ)をささげて進みましたとさ。

(ハンス‐クリスチャン・アンデルセン『皇帝の新しい着物』)>

 

結局、「みんな」の声は無視されたのだ。王家は揺るがない。

日本でも「行列」は続くことだろう。私の仕事が成功したとしても、「侍従たち」は粛々と「ありもしない」意味を「ささげて進み」続けることだろう。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1430 慢語三兄弟

1432 江藤淳

 

Nの作品は、文豪伝説のスピンオフみたいなものだ。ネタの使いまわし。マンネリ。Sには完成できない「自叙伝」の異本が「遺書」であるように、Nにはうまく語れない文豪伝説の異本が『こころ』を含む全作品だ。

Nは文豪伝説の主人公になるために小説を書いたようだ。

 

<ところで夏目漱石として知られる小説家は、漱石的「作品」に自分をなぞらえることのできたほとんど例外的な存在であり、それ故にこそ「作家」と呼ばるるにふさわしい人間なのだ。この際、たまたま彼が夏目漱石の名で幾篇かの小説を書いていたという事実は、ほとんど無視するにたる些細な条件にすぎない。だから、文学的な贖罪の物語が漱石によって書かれなかったのは当然というべきだろう。物語は、彼が「作品」を模倣し反復する過程で消費されつくしてしまったのだ。その意味で、夏目漱石は、漱石的「作品」の特権的な読み手だというべきかもしれない。「作品」に似ることができるのは、小説家ではなく、読者だからである。それ故、漱石的「作品」が夏目漱石に似ていないのは、いささかも驚くべきことがらではない。「則天去私」だの「自己本位」だのがほどよく漱石に似ていたというような意味でなら、漱石的「作品」は漱石にほとんど似ていないとすらいえるだろう。だが逆に、夏目漱石は漱石的「作品」に恥しいまでに酷似しているのだ。

(蓮實重彦『夏目漱石論』「終章 漱石的「作品」」)>

 

『こころ』を理解するには、どこにもないNの〈自分の物語〉を想像する必要がある。Nの小説は陰画であり、特定できない文豪伝説が陽画なのだ。逆ではない。夏目宗徒はNの〈自分の物語〉を捏造するためにその作品を利用する。

蓮實の論は、次の江藤の論を裏返そうとしたものだろう。

 

<ぼくらは「高慢と偏見」や「マンスフィールド・パーク」を思い浮かべることなしに、ジェイン・オーステンを考えることは出来ない。しかし、「猫」や「それから」や「明暗」は喪章をつけてうなだれた漱石の影にかくされていて、ぼくらは作品より、むしろ明治の時代を生きた代表的な日本の知識人としての彼自身に興味を感ずるのだ。漱石のような大作家をこのようにしか見ることの出来ないのは不幸なことである。しかし、ぼくらと芸術の関係はそれ程不幸なものなのだ。仮りに百年の後に漱石が残るとしても、彼は「草枕」や「坊つちやん」の作家として残るのではさらにない。彼は、作家でもあった文明批評家として残るのであって、偽物でない文学を志す日本人はこのことを肝に銘じておかなければならない。

(江藤淳『決定版 夏目漱石』「第五章 漱石の深淵(しんえん)」)>

 

「作家でもあった」江藤は、〈N的でない「知識人」=「偽物」〉と宣言するために文豪伝説を利用し、自らも捏造した。「ぼくら」は「不幸」なのだそうだ。しかし、私は、Nや江藤やその仲間たちの悪文のせいで「不幸」なのだ。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1430 慢語三兄弟

1433 吉本隆明

 

意味不明であることを知りつつ、ありもしない意味を読み取ってくれる人がいる。

 

<『こころ』という作品は、今でもいちばん読まれているそうですが、この作品を読んだ印象を一言でいえば、何か先生という人物の罪の意識だけがまっ暗闇のなかでちょっと光っているという画像が強烈にのこります。それ以外の具象性は、あまり造形的に成功しているとはおもえないのです。それほどの具象性がある作品とはおもえないんですが、ただ人間の罪の意識みたいなものがぼー(ママ)っと闇のなかに浮かびあがっているイメージが読後の印象としてのこります。

(吉本隆明『夏目漱石を読む』「資質をめぐる漱石」)>

 

「光っている」のに「まっ暗闇」なんて変。「罪」とは、「じぶんと親友のあいだで一人の女性をめぐって葛藤を演じ、その親友を出し抜いてしまったという、まったく私的なこと」(『夏目漱石を読む』)だそうだが、吉本は自身の「私的なこと」をSのそれに重ねたらしい。〈「意識」が「光って」〉は意味不明。「具象性」云々は「抽象的な言葉」(下三十一)だらけということか。「先生という人物の罪の意識」が「人間の罪の意識みたいなもの」に変わっている。本文でも「私の罪」(下五十二)が「人間の罪というもの」(下五十四)に変わる。〈「イメージが」~「印象として」〉はナンセンス。

 

<もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫ぬ(ママ)いて、一瞬間に私の前に横(よこた)わる全生涯を物凄(ものすご)く照らしました。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十八)>

 

「取り返しが付かない」のは「世間体」だろう。「黒い光」は〈ブラック・ライト〉の直訳か。「暗くなる電球」(藤子・F・不二雄『ドラえもん最新ひみつ道具大事典』)の光か。「輝く光は深い闇よ、深い闇は輝く光よ」(シェイクスピア『マクベス』)を連想すべきか。〈「光が」~「未来を貫ぬいて」〉は意味不明。「一瞬間に」の被修飾語が不明。「私の前に横(よこた)わる全生涯」が〈「私の」「全生涯」〉なら、幽体離脱が起きている。「物凄(ものすご)く」は意味不明。

 

<神秘体験を当事者が自覚的に反省して、ことばによって表現し、解釈説明しようとする努力から「神秘思想」が形成されてくる。これはもともと言語を絶する体験であるが、これをなんとか言い表そうとするために、神秘主義に特徴的な表現形式が用いられることになる。古代インドの聖典『ウパニシャッド』の「然(しか)らず、然らず」に代表されるような否定的表現、「光り輝く闇(やみ)」「いっさいを含んだ無」などの矛盾逆説による表現、「魂の火花」「霊の水晶宮」といった詩的象徴的表現などである。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「神秘主義」脇本平也)>

 

「光輝く闇(やみ)」と「もう取り返しが付かないという黒い光」は、関係ないよな。

(1430終)


夏目漱石を読むという虚栄 1420

2021-02-13 17:37:36 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1420 作家ファーストで何四天王

1421 何四天王を紹介しよう

 

Nの小説だけが私に理解できないのではない。ある種の日本の小説が理解できない。

『ドラえもんの小学校の勉強おもしろ攻略 必ず身につく学習法』(浜学園)に、「日本の名作」として、『坊っちゃん』、『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)、『セロ弾きのゴーシュ』(宮沢賢治)、『走れメロス』の四作が紹介されている。これらの作者が創作によって何をしているつもりなのか、私には推量できない。以下、これら四作の作家を〈何四天王〉と呼ぶ。

彼らは、〈自分の物語〉を隠蔽したまま、その異本のような作品をものし、その雰囲気のみを伝達しようと頑張っている。彼らが頑張れば頑張るほど、作品の表面的な意味はわかりにくくなる。ただし、同種の〈自分の物語〉を演じる人々は有難がるらしい。

私が批判したいのは、何四天王とその亜流の作品だ。作家の人生観などとは無関係。

芥川の『蜘蛛の糸』を読んだ小学生が〈お釈迦様は意地悪だ〉と書いてきたそうだ。仏の顔は一度きりか。三度目があれば、亡者だって学習しよう。必死の上昇志向で下を見ず、極楽へ亡者の大移動。釈迦が地獄に落とされる。そんなパロディーを読んだ。〈地獄で仏〉の語源か。衣食足って礼節を知った元亡者が仏心を起し、地獄に糸を垂らしてやると釈迦は上りだすが……。実話かな。『羅生門』では、泥棒から泥棒する理屈が理屈になっていない。『薮の中』は薮の中。『蜜柑』は未完。『ガリヴァー旅行記』(スウィフト)からかっぱらったのが『河童』だ。『ライネケ狐』(ゲーテ)ではない。「巧緻で洗練された文体」(『日本史事典』「芥川龍之介」)というのは伝説。作品ごとに変化する「文体」は「ゴム印」(『玄鶴山房』)のようなもので、パクッたが亜流之介。『歯車』は『夢奇譚』(シュニッツラー)からか。これは『アイズ・ワイド・シャット』(キューブリック監督)の原作だが、映画は失敗だ。

宮沢の『セロ弾きのゴーシュ』のゴーシュは動物たちと仲直りをしないのか。『雨ニモマケズ』は、一億総かつかつ社会の正当化にもってこい。『よだかの星』ってさ、〈ブスは死ななきゃ治らない〉って話だよね。『みにくいアヒルの子』(アンデルセン)と『人魚姫』(アンデルセン)の読みにくい綯い交ぜ。『グスコーブドリの伝説』は環境破壊の美化。「なめとこ山の熊」たちは絶滅だな。『銀河鉄道の夜』のジョバンニは、素敵なパパのいるカンパネルラが妬ましくて死なせた。隠された主題はBLだ。元彼への呪詛。ミーハー逃亡者を個人攻撃したい人には『宮澤賢治殺人事件』(吉田司)がお奨め。

太宰はダサいおっさん。『ヴィヨンの妻』は羊頭狗肉。『富嶽百景』や『女生徒』や『津軽』などの見え透いた嘘には舌打ちしながらも苦笑してしまったが、『人間失格』には白けるばかり。太宰ファン込みで、グッドバイだよ。

比較のための比較をしてみよう。

 

夏目漱石『明暗』×有島武郎『或る女』

芥川龍之介『地獄変』×菊池寛『藤十郎の恋』

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』×武井武雄『ラムラム王』

太宰治『人間失格』×三島由紀夫『仮面の告白』

 

軍配は対抗馬に上がる。ただし、推奨しているのではない。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1420 作家ファーストで何四天王

1422 太宰治

 

何四天王の作品は、作家論に収束するような作家ファーストの読み方がされてきた。

 

<私が一番びっくりしたのは、中学生が書いた太宰治の『人間失格』の読書感想文です。それは、「だから私も主人公のように頑張ろうと思います」と結んでありました。本当にこの本を読んだのでしょうか? どう考えても違うと思います。

これでは国際競争力がつくわけもありません。

(有元秀文『文部科学省は解体せよ』)>

 

いや、この「中学生」は「本当にこの本を読んだ」のだろう。そして、〈「主人公のように頑張ろう」と書かないと、先生に叱られる〉と「本当に」思ったのだろう。

 

<葉蔵は人間の生活の営みが理解できず、逆に互いに欺き合って少しも傷つかずに生きている人間を恐怖する。道化によってかろうじて人間と交わっている葉蔵は、世間とは個人のことだとわかりかけて少し自信をもつが、疑いを知らぬ純心(ママ)な妻が犯されて決定的な打撃を受け、ついに人間失格者となる。太宰自身の体験を大胆にデフォルメして使いながら世俗への反感を表出し、大人の世界の入口でためらう年齢の若者を魅了した。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「人間失格」鳥居邦朗)>

 

ほとんど、意味不明。太宰ファンこそ「少しも傷つかずに生きて」いたくて仲間内で「欺き合って」いるのだろう。彼らは「世俗」の中核をなす。

 

<「あの人のお父さんが悪いのですよ」

 何気なさそうに、そう言った。

(太宰治『人間失格』「あとがき」)>

 

「あの人」は葉蔵。「お父さん」のどこがどう「悪い」のか、不明。

「言った」とされるのは「美人というよりは、美青年といったほうがいいくらいの固い感じのひと」(『人間失格』「あとがき」)だ。彼女は女装した作者、つまり作者の代弁者だ。この「手記」が「お父さん」にとって無効だったから、彼女が登場したわけだ。「何気なさそうに」だから、何らかの「気」があるらしいが、「気」が知れない。

葉蔵の〈自分の物語〉の原典は、『ルカによる福音書』の「「放蕩(ほうとう)息子(むすこ)」のたとえ」だ。語り手の葉蔵は、これを和風に「デフォルメして」使っている。『人間失格』は、〈父親のせいで息子が駄目になった〉という話ではない。〈「あの人」が「人間失格」になってやったのに、愛してやらない「お父さんが悪いのですよ」〉という話だ。葉蔵は、父親を恐れるあまり、父親に愛されようと企み、混乱してしまった。滑稽なことに、作者はそのことを知らない。

葉蔵は他人の悪口を書きまくる。強気の人なら、面と向って非難するものだ。弱気の人なら、仲間内で陰口をきくものだ。彼はどちらでもない。だから、「人間失格」なのだ。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1420 作家ファーストで何四天王

1423 芥川龍之介

 

太宰は芥川に憧れた。その芥川は、パクリ屋であり、彼の苦悩もパクリだ。

『蜘蛛の糸』は不合理。この原典は、『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)に出ている「一本の葱(ねぎ)」とされる。類似の民話はヨーロッパに数あるようだ。何が原典であれ、葱に摑まることはできる。一方、蜘蛛の糸のように細いものに摑まるのは不可能だろう。作家に独創性が足りないのは、欠点ではない。重要なのは、原典より出来が良いかどうかだ。キリスト教の神が人を試みに会わせるのは納得できる。だが、『蜘蛛の糸』で主人公を試すのは釈迦だ。違和感がある。また、「一本の葱(ねぎ)」が原典だとすれば、この主人公は「意地の悪いお婆(ばあ)さん」だが、芥川はこれを男に変えてしまった。怪しい操作だ。

芥川は処女作の『鼻』がNに褒められて、デビューしたそうだ。Nは、原典を読んでいなかったのだろう。原典は説話だが、これはただの笑い話であり、弄る必要のないものだ。〈偉い坊さんでもドジを踏むよ〉ということで、笑える。一方、『鼻』の主人公は、ちっとも偉くない。虚栄心が強いばかりか、彼を導く善知識にも出会えない。偽坊主みたいだから、彼に同情できない。勿論、作品に感動しもしない。作者は何をしているのだろう。

『杜子春』の主人公が「仙人」になりたがる動機は薄弱だ。動機が弱いから、結局、失敗した。ただし、そこまでは、いいとしよう。驚くべきことに、彼が失敗することを「老人」は期待していたようなのだ。「老人」は、何がしてみたかったのだろう。

 

<六朝時代末の杜子春が家財を使い果して道士からしばしば金を与えられ、その恩返しに山中に入って仙薬を練る手伝いをする。そのためにさまざまな試練にあうが、最後に女に生れ変わり、自分の産んだ子が頭を石にたたきつけられるのを見て禁じられていた声を立て、ついに仙人になれずに終わった物語。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「杜子春伝」)>

 

原典の「道士」が杜子春を引き込む目的は明白だ。また、子春がしくじる理由も明白だ。原典の主題は〈主人公である母は子を愛する〉だが、芥川版は〈母は主人公である子を愛する〉というものだ。つまり、芥川版の主題は被愛妄想だ。

芥川の子春は幻の母を本物と思い込み、修行にしくじり、普通の人になろうとする。しかし、彼が怠けものに戻らない保証はなかろう。なぜなら、慈母は彼の妄想の産物だからだ。そうでないのなら、〈子春は死んだ母を救うために努力する〉といった物語が必要だ。

 

<ふ〰〰っ だめだ すっかり忘れてる どうすればいいんだ 

むしろこのまま一緒に死んだ方が あの子は幸福かな? 

(花輪和一『天水 完全版』)>

 

「忘れてる」のは「あの子」だ。「一緒に」は〈母と誤認した化け物と「一緒に」〉の略。

『白』(芥川)の主人公は友を見捨てる。原典と思われる『星の童子』(ワイルド)の主人公は母を見捨てる。芥川は、原典の記憶を自分の頭の中から消去したかったのだろう。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1420 作家ファーストで何四天王

1424 宮沢賢治

 

何四天王に共通するのは、理屈っぽいが意味不明の言葉と負け惜しみの強さだ。

 

負け惜しみが強く、自分の誤りに屁理屈(へりくつ)をこねて言い逃れることのたとえ。 漱石枕流(そうせきちんりゅう)。

<語源「石に枕し流れに漱ぐ(=俗世間を離れて山林などで自由に暮らす。枕石漱流)」というべきところを逆に言ってからかわれた晋の孫楚(そんそ)が、「流れに枕するのは耳を洗うためで、石に漱ぐのは歯を磨くためである」とすかさず言い返したという『晋書』の故事に基づく。

(『明鏡国語辞典』「石に漱(くちすす)ぎ流れに枕(まくら)す」)>

 

孫楚は、かくれんぼがしたかったらしい。本当に俗世を厭うたのではなく、また、エコ派だったのでもなく、見いだされるために隠れた。隠者ハッタリ君だ。その取り巻きは信者ウッカリさんで、そのリーダーを気取るのが宗徒ウットリ先生。

 

<都人(とじん)よ 来(きた)ってわれらに交(まじわ)れ 世界よ 他意(たい)なきわれらを容(い)れよ 

(宮沢賢治『農民芸術概論綱要』)>

 

田舎で浮いていたKYが都会に出てみたが、やはり「都人(とじん)」と「交(まじわ)れ」なくて仲間に「容れ」てもらえなかったので、帰省してロマンチストを気取り、「都人(とじん)」に注目されようと企む。うまくいって上京できたのが『ポラーノの広場』のキューストだ。

「世界」は〈父〉の美称だろう。勧誘なら、「われらを容(い)れよ」は〈「われら」はきみら「を容(い)れ」てやる「よ」〉などでないと意味がない。「他意(たい)」はあるのさ。〈都会では埋没するから、とりあえず地方で目立って父に褒められよう〉という魂胆だ。

 

<裕福な質屋の長男に生まれ、盛岡高等農林に学んだ。在学中から日蓮宗の熱烈な信者となり、真宗信者の父母にも改宗を迫ったが拒絶され、1921年(大正10)上京して自活。布教に従事し、童話の創作にも励んだが、妹トシの病気により帰郷。

(『山川 日本史小辞典』「宮沢賢治」)>

 

「日蓮宗」は当時の流行。「父母」を操りたくて、宮沢は「熱烈な信者」を装ったのだろう。Kも、似たり寄ったりのことを企んでいたはずだ。

ちなみに、『オッぺルと象』は、〈オッペルが資本家で、「白象」は労働者の象徴〉というふうに誤読できる。だが、オッペルは父親で、「白象」は息子だろう。『オッペルと象』の隠蔽された主題は、〈父親と息子の葛藤〉なのだ。この父親は、息子のために良かれと思って教育を施しているのだが、息子は自分が家畜扱いされているように思いたがる。息子は、父殺しの罪を回避するために、Dの力を借りる。他の象は、労働者の象徴ではなく、自由人の象徴だ。したがって、労使関係の主題は適用できない。

(1420終)


夏目漱石を読むという虚栄 1410

2021-02-12 22:56:38 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1410 支離滅裂

1411 統合失調症あるいは精神分裂病

 

Sは、Pの「兄」のような普通の人に尊敬されない。だからこそ素敵らしい。〈超人だから凡人に嫌われる〉じゃなくて、〈凡人に嫌われるから超人だ〉という暗示らしい。

 

<天才というものはこのような異常性の上に生まれる。漱石が精神病であったことを否定して、英国へ留学して「神経衰弱」になったり、妻のヒステリーのため「神経衰弱」になったりするなら、そのへんにざらにある気の弱いいくじのない男性とちがうところはなくなってしまう。我々から見ると、そんなことをいって漱石を弁解する人の方が漱石をけなしていることになる。漱石は分裂病の傾向のある躁つう(ママ)病であったのだ。大ざっぱにいうと、むしろ躁うつ病的・循環的である。

(西丸四方『異常性格の世界』)>

 

Nは「そのへんにざらにある気の弱いいくじのない男性」のアイドルだろう。

 

<精神分裂病、そしてその他の精神病は、ただの病気にすぎない。だから侮(あなど)りの対象にも、その神秘化の対象にもするべきではない。卑しむべきでも崇めるべきでもない。これは当然のことだ。まして、この病気を扱う医者が人間の精神活動について何か特別の知識や指導性を持つかのように錯覚するのは大いなる過ちである。

(計見一雄『統合失調症あるいは精神分裂病』)>

 

「統合失調症」あるいは「精神分裂病」のどちらも意味不明。

 

<2002年、日本精神神経学会は1937年以来使ってきた精神分裂病のことばには人格否定的なニュアンスがあるとして「統合失調症」に名称を変更した。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「統合失調症」)>

 

「人格否定的」は意味不明。名称の変更に関しては〈分裂が多重人格と混同されるから〉という説を読んだか聞いたかした記憶がある。「ニュアンス」のせいで「名称」を変更するのなら、「統合失調症」が差別的に使われるようになったら、また変更するの? 『精神科は今日も、やりたい放題』(内海聡)参照。〈スキゾ〉じゃ、駄目かな。

 

<本書には、今日では差別表現として好ましくない用語が使用されています。しかし作品が書かれた時代背景やその文学的価値、著者が差別の助長を意図していないことを考慮し、当時の表現のまま収録いたしました。その点をご理解いただきますよう、お願い申しあげます。

(フレドリック・ブラウン著・星新一訳『さあ、気ちがいになりなさい』編集部)>

 

「著者」は〈訳者〉が適当。この小説を読んで、中学生だったか、私はびっくりした。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1410 支離滅裂

1412 二種の隠喩

 

PやSの言葉の意味は、普通のとは違う。

 

<「感じは言葉で説明できないんです」彼女は〈Yr(イア)〉語の隠喩(メタフオ)のことを考えながらそう言った。自分の心で考える時、また〈Yr(イア)〉の住人に望みを打明ける時はいつも〈Yr(イア)〉語の隠喩(メタフオ)でするのだった。最近はことにいろいろなできごとや考えがおこったが、それはこの地上世界の住人とはまるで関係のないことだったので、自然〈Yr(イア)〉の平原や穴や頂上は、〈Yr(イア)〉特有の苦悩と壮大さをとらえることのできる一つの言語の語彙(い)がだんだんふえていくのをこだまさせていた。

「何か言葉があるはずよ、なんとかその言葉を探してくださいな、そうすればお互いに理解しあえるわ」

「隠喩(メタフオ)だから、とてもわからないと思うけど……」

「解説してもらえないかしら?」

「一つの言葉があるの、その意味は『鍵のかかった眼』だけど、本当はもっと別の意味もあるの」

「どんな?」

「石棺をあらわしてるの」それは彼女にとって、自分の視界は石棺の蓋のところまでしか届かないことがある、という意味だった。棺の中の死体と同様、彼女にとってもその住む世界は自分自身の棺の内部のサイズだった。

「その“鍵のかかった眼”で、私が見えますか?」

「一枚の絵のようにみえるわ。本物を描いた絵のようよ」

しかしこの問答はとても彼女をこわがらせた。彼女の住む世界の壁は、まるで大きな心臓が鼓動するように、震動しはじめた。〈アンテラピー〉は〈Yr(イア)〉語で呪文を誦えはじめたが、デボラにはその意味がわからなかった。

「ひとのこと、そんなふうに詮(せん)索して、さぞうれしいでしょうね」とデボラは、だんだんうすれていく博士に言った。

(ハナ・グリーン『デボラの世界』)

 

Nの用いる意味不明の語句は、「鍵のかかった眼」のような「隠喩(メタフオ)」と思われる。Nは「〈Yr(イア)〉」のような「世界」を隠蔽していたはずなのだ。だから、生きているNに彼の用いた語句などの意味を質問しても「解説して」もらえなかったろう。

 

この件について、話し易くするために、それらが密かな見知らぬ意味を仄めかしていることから、われわれの間ではそれを埋葬語(cryptonyme)(隠す語)と呼んでいた。

(ニコラ・アブラハム/マリア・トローク『狼男の言語標本 埋葬語法の精神分析』)>

 

夏目語は「埋葬語」かもしれない。「埋葬語」は、ありふれた隠語とは違う。発語する本人にさえ、その意味を説明することはできない。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1410 支離滅裂

1413 「矛盾な人間」

 

 Sは「矛盾な人間」と自己紹介する。「矛盾な」は、問題な日本語。

 

<思考行動に矛盾の多い人間。漱石の作品にしばしば出てくる表現で、漱石の基本的な人間観のひとつ。

(夏目漱石『こころ』ちくま文庫・解説「矛盾な人間」)>

 

「人間観」は意味不明。

 

<然し俗人の考うる全智全能は、時によると無智無能とも解釈が出来る。こう云(ママ)うのは明かにパラドックスである、(ママ)

(夏目漱石『吾輩は猫である』五)>

 

普通の意味の〈矛盾〉は「現実のうちにある両立しがたい、相互に排斥しあうような事物・傾向・力などの関係」(『広辞苑』「矛盾」)だろう。普通の人は、二者択一で判断に窮したら、思考を停止し、運を天に任せ、賭ける。どれにしようかな、天の神様の言うとおり。さらには、祈る。「矛盾な人間」は、こうした賭けができない。祈れもしない。

 

<アントナン・アルトーは、子どもを、身体的受動と身体的能動とい深層での二つの言葉に合わせて、極端に暴力的な二者択一に追い込む。すなわち、子どもは生まれ出ない、言いかえるなら、子どもは、両親が姦淫する場所の下にとどまり、やがて脊柱になる箱から出て来ない(逆向きの自殺)か、あるいは、子どもは、器官も両親もない、燃え上がる栄光の流動体的身体へと自己を作る(アルトーの言う、自分の生まれるべき「娘たち」)かという二者択一である。反対に、キャロルは、自分の非物体的な意味の言葉に相応しく、子どもを待ち望む。キャロルが待ち望むのは、母の身体の深層を離れて、まだ自己自身の身体の深層を発見してはいない時点と時期の子ども、また、自分自身の涙の池の中のアリスのように、水面にちらっと現われる短い時期の少女である。両者は、別の国、何の関係もない別の次元である。

(Gドゥルーズ『意味の論理学』「第13セリー 分裂病者と少女」)>

 

『吾輩は猫である』は、「キャロル」的な作品のように誤読されている。しかし、これは『こころ』と同様、「アルトー」的表出なのだ。

なぜ、このことに多くの日本人は思い当たらないのだろう。日本では「分裂病者」的表現が英知や雅趣の表現と区別されてこなかったからだ。支離滅裂の表出を全知全能の表現に偽装しやすい。たとえば、〈矛盾〉という言葉は、言うまでもなく、中国の故事に由来する。しかし、〈パラドックス〉の訳語としても用いられる。〈パラドックス〉は〈逆説〉が適当だが、〈逆説〉は「真理に反対しているようであるが、よく吟味すれば真理である説」(『広辞苑』「逆説」)でもある。

 

(1410終)


夏目漱石を読むという虚栄 1350

2021-02-11 09:57:10 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1350 不図系

1351 「思い出した序(ついで)に」

 

『こころ』に、どういうことがどういう順番で書いてあったか、なかなか思い出せない。ある出来事とその前後で語られる出来事に合理的な関係がないからだ。

記憶は、語ることによって変化する。一方、物語は、事件や事故が過去から現在に向かって数珠繋ぎに起きたように語られる。『こころ』の語り手たちは、物語の語り手とは異なり、語ることによって出来事を思い出す。記憶を偽造しているみたいだ。

 

<然しこれはただ思い出した序(ついで)に書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただ其所にどうでも可(よ)くない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければ御嬢さんの室(へや)で(ママ)、突然男の声が聞こえるのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十六)>

 

「これ」の指すものは、不明。この前には、いくつかの物語が羅列してある。

 

1 静母子の家は「人出(ひとで)入(いり)の少ない家(うち)」だった。

2 静の「学校友達」が「ときたま遊びに来る事」があった。

3 静の「学校友達」は「極めて小さな声」で話した。

4 Sにとって、静の「学校友達」は「居るのだか居ないのだか分らない」ようだった。

5 静の「学校友達」は、いつの間にか「帰ってしまうのが常」だった。

6 静の「学校友達」がSに「遠慮」をしているということに、Sは気が付かなかった。

7 Sの学友が「宅(うち)の人に気兼ねをする」ことはなかった。

8 学友の態度の違いが原因で、Sは「主人(あるじ)」のように、静は「食客(いそうろう)」のようになった。

9 「突然男の声」がSに聞こえる。

 

ばらばら。1の情報の価値は不明。2の少女たちは登場しない。3の情報は疑わしい。「極めて小さな声」は聞こえまい。4の情報の価値は不明。「居ない」としたら、5はなかったことになる。6は変。Sは他人の「遠慮」に、いつ、どうやって、気が付いたのか。7も同じく怪しい。学友の気持ちが、Sにどうしてわかるのか。8は無茶。冗談にもならない。9になると、「突然」どころではない。

下宿では、襖を隔てた合コンが催されていた。「主人(あるじ)」は、Sでも静でもない。静の母だ。彼女がホステスとなり、若いカップルを次々に誕生させる。静とSは未来の夫婦になった。学友たちは、二人の仲を認めると同時に、黙って帰る。ところが、得体の知れない「男」が「突然」飛びこんで来て、異議を唱える。「男の声」に対して、Sは無力だ。なぜだろう。

『冬ソナ』で、ユジンとミニョンの二人きりの結婚式にサンヒョクが「突然」飛びこんで来て、いやがるユジンを連れ出す。ミニョンは抗わない。なぜだろう。

「遺書」を含む「自叙伝」は、「どうでも構わない点」と「どうでも可(よ)くない事」を「一つ」に結ぶ物語だったろう。その物語では、正体不明の「男」がSを苦しめ続けている。「突然男」は「一種の魔物」(下三十七)であり、SのDだ。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1350 不図系

1352 複数の〈自分の物語〉

 

Sの人生における最重要人物はDだったはずだ。ところが、「遺書」では、Dは「黒い影」(下五十五)のような比喩によってその存在が暗示されているのにすぎない。

「黒い影」を〈Kの亡霊〉と誤読する人がいそうだ。しかし、作中に亡霊が実在するのなら、『こころ』は怪談ということになる。勿論、『こころ』は怪談ではない。

「遺書」を語るにつれ、Sの記憶が蘇り、物語の異本が生まれる。勿論、こんなことはありふれている。だが、ありふれた呟きを〈作品〉と呼ぶことはできない。

「遺書」は「この長い自叙伝の一節」(下五十六)だ。ところが、「自叙伝」は未完だから、語り手Sが「遺書」を語ることによって、「自叙伝」が変化することになる。この場合、語り手Sは継続中の「自叙伝」の登場人物でもあり、「遺書」において語られつつあるSと区別できない。ただし、こんなことは、ありふれた混乱だ。

ありふれた混乱のないものを〈作品〉と呼ぶとすれば、作者はSの混乱を補整できていないから、『こころ』を〈作品〉と呼ぶことはできない。

「自叙伝」を一般化して〈自分の物語〉と呼ぶ。〈自分の物語〉の語り手は自分であり、主人公も自分だ。その聞き手は特定できない。〈もう一人の自分〉とでも呼ぶしかない。これがDだ。Dは、〈自分の物語〉の登場人物でもある。〈自分の物語〉は物語として不安定だからだ。自分は、語り手になったり、主人公になったり、Dになったりする。

普通、記憶は上書き保存される。つまり、書き換え前の原本は廃棄される。重要でない情報や恥ずべき体験などを、本人は都合よく忘れてしまうものだ。

ところが、Sは、「自叙伝」の語り手として限界を感じると、上書きされていない過去の原本を「突然」呼び出してしまうらしい。そして、そこから語句を引用する。原本における自分の考えを、正体不明の「男の声」として引用してしまうわけだ。

自分の考えであっても、過去の考えは、現在の自分が置かれている状況では有効に機能しない。たとえば、ある文書における「虚栄」という言葉の意味は、別の文書では意味が違ってしまう。ずれが生じる。ただし、そうしたずれを、普通は自覚しない。自覚したら、言い換える。ところが、Sは言い換えない。「意味は、普通のとは少し違います」と押し切ってしまう。実際に違っているのは、「意味」ではなく、文脈なのだ。

 

<ある単語や句や文に対して、その前後の単語や句や文が及ぼす意味的規定力。「チョウをこわして入院した」と「チョウが飛んで行く」とを聞いたとき、腸と蝶とがまちがいなく理解されるのは文脈の力による。具体的レファレントをもたない単語ほど、その意味が決る(ママ)ために文脈に依存する度合いが大きい。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「文脈」)>

 

「レファレント」は「指示物」(『ブリタニカ』「レファレント」)と訳される。

Sの言葉の意味を規定する文脈つまり〈自分の物語〉は複数ある。それらのどれも作品として完成していない。だから、Sの頭の中では、不十分な複数の文脈が錯綜してしまう。たとえば、語られるSは、Dを他人のように感じたり、他人をDのように感じたりする。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1350 不図系

1353 「不図(ふと)した機会(はずみ)」

 

普通の小説なら、「突然」何かが起きたとしても、後から〈実は~〉と理由付けなどがなされるものだ。ところが、『こころ』ではそうした展開にならない。問答無用という感じだ。

 

<私は不図(ふと)した機会(はずみ)からその一軒の方に行き慣れていた。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」一)>

 

Nは、「不図(ふと)した機会(はずみ)」に「慣れて」いたようだ。

 

<私は時折、私の友達やら色々の知人から、私の父に就いての感想を聞かれる事があるが、私はそんな時、よく妙に淋しい気のする事がある。それは恐らく、私が父に対して殆ど愛情らしい愛情も抱いていなかった――今も同様依然として抱いていない――そうした気持から来る感情かも知(ママ)れない。

(夏目伸六『父夏目漱石』)>

 

伸六がNを疎んだのは、Nの「不図(ふと)した機会(はずみ)」に対応できなかったからだろう。

 

<この純一君と話をしてゐるうちに、漱石の話が度々出たが、純一君は漱石を癇癪持ちの気ちがひじみた男としてしか記憶してゐなかつた。いくら私が、さうではない、漱石は良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であつたと説明しても、純一君は承知しなかつた。子供の頃、まるで理由なしになぐられたり、怒鳴られたりした話を、いくつでも持ち出して、反駁するばかりであつた。そこにはむしろ父親に対する憎悪さへも感じられた。そこで私ははつと気づいたのである。十歳にならない子供に、創作家たる父親の癇癪の起るわけが解る筈はない。創作家でなくとも父親は、しば〳〵子供に折檻を加へる。子供のしつけの上で折檻は必要だと考へてゐる人さへある。それは愛の行為であるから、子供の心に憎悪を植ゑつける筈のものではない。創作家の場合には、精神的疲労のために、さういふ折檻が癇癪の爆発の形で現はれ易いであらう。しかしその欠点は母親が適当に補ふことが出来る。純一君の場合は、母親がこの緩和につとめないで、むしろ父親の癇癪に対する反感を煽つたのではなからうか。そのために、年と共に消えて行く筈の折檻の記憶が、逆に固まつて、憎悪の形をとるに至つたのではなかろうか。

(和辻哲郎『漱石の人物』)>

 

『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(ミラー)参照。特に「闇教育」関連。

和辻は、父親から精神的に遺棄されて育ったのだろう。彼は見捨てられた自分を恥じて、〈自分は父親に愛されていた〉という記憶を偽造して生きてきたようだ。だから、純一にも、記憶を偽造するよう、勧めた。ところが、無礼にも純一は拒んだ。和辻は、むっとする。思考が途切れる。「はつと」は、不図系の言葉だ。和辻の妄想が始まる。

むっとして、はっとして、ぺらぺらとまくしたてる人には要注意! 

(1350終)

(1300終)


言葉の物語

2021-02-10 11:48:13 | ジョーク

   言葉の物語

長いお話の落ちない森の

逆切れの謝罪は済んでいるのです

ジョークに包んだ傷のお手当て

口惜しげな眼差しが忘れられません

君らが隠した男の秘密をばらしおくれよ

長い 長い女の物語

ああ ああ

(終)