ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

腐った林檎の匂いのする異星人と一緒 26 架空戦争

2021-11-19 09:27:40 | 小説

   腐った林檎の匂いのする異星人と一緒

       26 架空戦争

松葉杖の先が敷石の同じ個所を突いた。こつこつ。曲がっていた脚が伸びて、粗末な作業着の男の泥のように暗かった表情が解れた。喜び。だが、すぐに眦が裂け、怒りが浮かぶ。怒りが悲しみに変わり、諦めかけ、それから、怒りを拵える。今度のそれは硬い。

「兄貴?」

うだるような暑さだ。

杖を銃に擬して構える。だが、すぐに息切れ。杖は脇に挟み、片足を引きずりながらベンチに近寄る。ベンチには、彼に似ていなくもない男が掛けていた。前を向いている。身じろぎひとつしない。「兄貴?」という声が聞こえなかったのか。では、「兄貴」ではないのか。あるいは、無視か。

傷病兵は「兄貴」の前に立ちはだかった。だが、「兄貴」は彫像のように動かない。彫像か? 「兄貴」にとって、この元兵士は存在していないみたいだった。その視線は、眼前に立つ男の胴体をぶち抜いて遠い所にある何かに届いているみたいだった。「兄貴」の放った否認の弾丸をまともに食らったような気がして涙ぐみ、ぐっと堪えながら、彼はその痩せた上半身を捩じりつつ、「兄貴」に見えている何かを探した。だが、これといって、何も見当たらない。

「兄貴……」

図書館が休館になって久しい。知事は、休館の理由を明らかにしなかった。だから、開館のタイミングについて語ることもなかった。

「書物とは、そもそも、何なのでありましょう。それはヒステリーなのではありませんか。デザルグの架空戦争のようなものと申しましても過言ではありますまい。無限遠点への誤謬回帰であり、それはあると思えばあるし、ないと思えばないものなのです。真理と書物との間に因果関係を見出すことは易しいようで難しいのかもしれませんが、逆に言えば、かもしれなくもないのかもしれないのですからね。だって、ねえ、だって、そうでしょう?」

彼女の演説のこの部分だけを引用した記者は、元記者になった。

「書物を開くとき、心の小箱は閉じられます。心を開くには、書物を閉じなければなりません。開くは閉じる。閉じるは開く。閉じるは開く。開くは閉じる」

喘ぎながらも、彼女は唱え続けた。

あの日、近くて遠い場所にいた聴衆の数人は冷笑した。十数人は奇声を発した。数十人は静かに俯き、唇を噛んだ。大多数はぼんやりとしていた。社長たちは眠っていた。あるいは、眠ったふりをしていた。演説の途中から、三々五々、聴衆たちは帰還し、元聴衆に成り下がった。最後の一人が娘たちのいない部屋に戻ったとき、夜はまだ更けていなかった。だが、夕食には間に合わなかった。

元司書が見ていたのは、いや、見ているつもりでいたのは、図書館だ。ただし、それは実在しない。爆破されたからだ。図書館のあった場所は更地になり、棘のある雑草がぼさぼさと生えているばかりだ。生きている鉄条網。

元工兵は、身を屈めて元司書の背後に移動し、杖に縋って目の高さを同じくした。そうすることによって「兄貴」に見えている何かが自分にも見えるかと考えたのだ。

やはり、何も見えない。その代り、戦場の記憶が生々しく蘇った。新兵は、古参兵を「兄貴」と呼ばされていた。ある夜、敵地に侵入した「兄貴」の何人かが捕虜になり、やがて元戦友に銃口を向けるようになった。「兄貴」の銃弾がこの脚を傷つけたのだ。きっと、そうだ。しかし、どの「兄貴」だろう。

糸操りのように元司書の腕がゆるゆると上がった。図書館の跡地のその向うを指している。美しい青空に黒い点が現われた。飛蚊症か。いや、それは見る見るうちに拡大した。ああ、懐かしくも狂おしい、悔しい空飛ぶ円盤! 機銃掃射を始めた。ところが、元市民らは驚かない。逃げ惑わない。五月雨のように思ってか、軒下を借りる程度だ。

この区画は今週の戦場だった。忘れていた。「兄貴」もか? 

(終)

 


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聞き違い ~羊羹

2021-11-18 10:41:53 | ジョーク

   聞き違い

     ~羊羹

四日目 よう噛め

羊羹だ よう噛んだ

月光仮面 結構噛めん

神頼み 噛んだ飲み

(終)


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夏目漱石を読むという虚栄 5450

2021-11-17 14:22:11 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

5000 一も二もない『三四郎』

5400 「ストレイ シープ」

5450 原典『眼医者の女』

5451 井上メイサ

 

Nは幼児的な被愛願望を死ぬまで持ち続けた。普通の少年なら、〈女に好かれたい〉とは思わない。〈女を専有したい〉とさえ思わない。ひととき、女を人形のように弄って遊びたいだけだ。相手の気持ちを気遣うようになるのは、弄った女子に叱られてからだろう。

大学を出た頃、Nは、ある女性との結婚を望んだ。彼女が母性的に思えたかららしい。

 

<その寺から、トラホームをやんでいて、毎日のように駿河(するが)台(だい)の井上眼科にかよっていたそうです。すると始終そこの待合で落ちあう美しい若い女の方がありました。背のすらっとした細面(ほそおもて)の美しい女(ひと)で――そういうふうの女が好きだとはいつも口癖に申しておりました――そのひとが見るからに気立てが優しくて、そうしてしんから深切でして、見ず知らずの不案内なお婆さんなんかが入って来ますと、手を引いて診察室へ連れて行ったり、いろんなめんどうを見てあげるというふうで、そばで見ていても本当に気持ちがよかったと後(あと)でも申していたくらいでした。いずれ大学を出て、当時は珍しい学士のことですから、縁談なんぞもちらほらあったことでしょう。そんなことからあの女ならもらってもいいと、こう思いつめて独(ひと)りぎめをしていたものと見(ママ)えます。

(夏目鏡子・松岡譲『漱石の思い出』「一 松山行」)>

 

「その寺」はNの下宿。「やんで」いたのはNだ。

「落ちあう」はNの言葉か。

「そういうふうの」は〈母性的な〉だろう。

「独(ひと)りぎめ」をしたのは、Nが被愛妄想を抱いたからだろう。

 

<ところがそのひとの母というのが芸者あがりの性悪(しょうわる)の見栄坊(みえぼう)で、――どうしてそれがわかったのか、そのところは私にはわかりませんが――始終お寺の尼さんなどを回し者に使って一挙一動をさぐらせた上で、娘をやるのはいいが、そんなに欲(ほ)しいんなら、頭を下げてもらいに来るがいいというふうに言わせます。

(夏目鏡子・松岡譲『漱石の思い出』「一 松山行」)>

 

「芸者あがり」は女夜叉の比喩。「性悪(しょうわる)の見栄坊(みえぼう)」は、Nの養母の性格。母性的な女を見て被愛願望が生じると、反射的にママゴンの記憶が蘇り、被害妄想的になるわけだ。そして、加害者を妄想的に捏造する。「私」は夏目鏡子。「わかりませんが」は、Nの妄想である可能性の示唆。「尼さん」は女菩薩の比喩であり、「美しい若い方」の別人格だ。「回し者」はNのDだろう。「一挙一動をさぐらせた」事実は誰にも確認できまい。この頃のNは「追跡狂という精神病の一種」(『漱石の思い出』一)に罹っていたとされる。

「娘をやるのはいいが」という台詞は怪しい。「頭を下げて」は、男としての自信のなさを自覚したくなくて、Nが他人の言葉として想像したものだ。

青年Nのこの妄想は〈小説〉と呼べる。この小説はNのほとんどの小説の原典だ。タイトルは『眼医者の女』としよう。ヒロインの名は、〈井上メイサ〉でどうだ。

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5400 「ストレイ シープ」

5450 原典『眼医者の女』

5452 被愛願望と自惚れ

 

メイサの母は、どうやってNのことを知ったのだろう。メイサが母にNのことを告げたとしか考えられない。ただし、〈メイサとNは交際していた〉とは考えられない。だから、考えられるのは、一つだけだ。〈メイサはNに片思いをしていた〉という物語だ。では、Nは、自分に対するメイサの片思いを、どうやって知ったのだろう。知れるわけがない。

〈好きな人に好かれたい〉とは、誰しも思うことだろう。〈好きな猫に好かれたい〉とも思う。だが、〈愛車に好かれたい〉とは思うまい。いや、思いようがない。無生物に欲情する人はいる。だが、〈無生物に欲情してもらえる〉とは思うまい。思うのかな。

好きな人には好かれたいものだが、逆は常に真ではない。〈好かれたい人のことが好き〉とは限らない。〈好かれたい〉という思いは、〈嫌われたくない〉という思いと裏表の関係にある。嫌われると何をされるか、わからない。怖い。だから、とりあえず、好かれたい。ある種の被愛願望は、被害妄想的気分と裏表の関係にある。〈自分の好きな人には自分は好かれるものだ〉といった自惚れとは違う。自惚れられないからこそ、被愛願望を抱くのだ。

『眼医者の女』の場合、Nはメイサに好感を抱いたが、そのことを自覚できない。彼は、愛する主体として自分を想像することができないのだ。〈Nは彼女を愛する〉という物語を作れない。突然、ロマンスが生まれる。つまり、〈メイサとNは愛しあう〉という物語が浮ぶ。この物語の前段階には、当然、〈メイサはNを愛する〉という物語がある。

 

Ⅰa Nはメイサを愛する。

Ⅰb メイサはNの愛を受け入れる。

Ⅰc メイサとNは愛しあう。

Ⅰd メイサの母はNに試練を与える。

Ⅰe Nは試練を乗り越える。

 

ほとんどのロマンスは、このように作られている。ところが、Nの場合、aとbが入れ替わる。すると、次のようになる。

 

Ⅱa メイサはNを愛する。

Ⅱb Nはメイサの愛を受け入れる。

Ⅱc メイサとNは愛しあう。

Ⅱd Nの母はメイサに試練を与える。

Ⅱe メイサは試練を乗り越える。

 

Nは、この物語を作れなかった。その理由は簡単だ。Nがメイサを愛しているのなら、Nは自分の母と戦わなければならなくなるからだ。自分の母との対決を、Nは恐れた。この恐れがメイサの母を妄想的に作り出したのだ。

言うまでもなく、Ⅰ系の物語とⅡ系の物語は、同時に進行しうる。Nは、二種の物語の世界の綯い交ぜに失敗し続けた。

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5400 「ストレイ シープ」

5450 原典『眼医者の女』

5453 メイサと再会

 

後年、Nは井上メイサを見かける。いや、見かけたと思い込んだ。

 

<たしか亡くなる四、五年前のこと、高浜虚子(きょし)さんに誘われて九段にお能を観(み)にまいりますと、その昔の女が来ていたそうです。二十年ぶりに偶然顔を見たわけですが、帰ってまいりましてから、

「今日会って来たよ」とそのことを私に話しますので、

「どんなでした」とたずねますと、

「あまり変わっていなかった」と申しまして、それから、

「こんなことを俺が言っているのを亭主が聞いたら、いやな気がするだろうな」と穏やかに笑っておりました。私にはこの話は実在のようでもあり架空のようでもあって、まことにつかまえどころのない妙な話に響くのですが、兄さんはその女の方の名前を御存知のはずです。私も伺ったのですが忘れてしまいました。とにかく得体(えたい)の知れない変な話でございます。

そんなわけからか急に東京を捨てて松山へゆくことにしたらしいのですが、そうした出しぬけの話をもちだされて、加納(かのう)治五郎(じごろう)さんあたりが引き止め役で、東京に口がないじゃなし、現にその時は高等師範で月給四十円とかもらって教師をしながら大学院で勉強していたことではあり、なにも物好きに松山くんだりまで落ちのびなくともと骨折ってくだすったそうですが、まったくめちゃくちゃな駄々(だだ)っ児(こ)ぶりで、手がつけられなかったとか申すことです。

松山へ行っても、先ほど申しましたとおり、宿の神さんや何かが廻し者にみえていて、あまり愉快ではなかったようです。

この発作はその後数年たってからひどく起こってまいりましたが、いったいにずいぶんと病気の昂(こう)じている時でも、遠い人には案外よくって、近い人ほどいけないのですから、始末におえません。だもんでそれで私が困り話なんかをしましても、知らない方は、あの謹厳な夏目がと本気になさいませんのです。

(夏目鏡子・松岡譲『漱石の思い出』「一 松山行」)>

 

「亡くなる四、五年前」のNは「強度の神経衰弱」(新潮文庫『こころ』年譜 大正二年)に悩まされていたという。

「顔を見た」程度で「会って来たよ」は、おかしい。〈パンダに「会って来たよ」〉と同じ用法か。Pが「何処かで先生を見たように思うけれども」(上三)と言ったとき、Sは「どうも君の顔には見覚(みおぼえ)がありませんね」(上三)と答えている。〈見られた人は見た人を見る〉と、Nは信じていたのかもしれない。夏目語の〈会う〉は〈目と目が合う〉の〈合う〉と同じ意味かもしれない。で、〈お見合い〉になる。〈雨に遭う〉の〈遭う〉とも同じか。

「亭主が聞いたら、いやな気がする」というのは、変。Nは、〈メイサに未練があるのはメイサに愛され続けているせいだ〉と勘違いしていたか。ただし、Nが実際に見たのは、記憶の中の若いメイサに似た別人だろう。あるいは、まったくの幻覚だったかもしれない。

(5450終)

(5400終)


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回文 ~家事

2021-11-14 11:54:57 | ジョーク

   回文

      ~家事

エロと衰え

(えろとおとろえ)

君も買うか揉み器

(きみもかうかもみき)

手短に家事見て

(てみじかにかじみて)

葱好き過ぎね

(ねぎすきすぎね)

(終)


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腐った林檎の匂いのする異星人と一緒 25 五月雨館

2021-11-13 16:57:14 | 小説

   腐った林檎の匂いのする異星人と一緒

               25 五月雨館

孤独を愛する男女だけが五月雨館の会員になれる。会員たちは話をしない。顔見知りでも挨拶をしない。目が合わせることもない。目が合えば、反射的に逸らす。足音は厚い絨毯が吸い込んでくれる。咳をしただけでロボットに連れ出される。

椅子と椅子の間には、どかっと物が置いてある。鉢植えの観葉植物、難破船の船首、等身大の人魚の彫像、錆びた榴弾砲、抱いて乗ると楽しい浮き袋の鰐、レコード抜きのジュークボックス、摩耗したタイヤなど。

孤立と孤独は違う。孤立者には厳しい義務が課される。あるいは、異星人が憑依する。孤独者は自由だ。五月雨館の人々は、自分が自由であることを確かめるために、ここで憩う。

元刑事は会員になれない。館に入ることはおろか、門前に佇むことさえできない。その理由を、彼は知らない。知りたいとも思わない。彼は館の向かいに部屋を借り、出入りする人々を観察してきた、何日も、何か月も。やがて一人の男に関心を抱くようになる。そいつが箱のような本を携えていたからだ。あるいは、本のような箱。彼を、元刑事は容疑者と呼んだ。誰かを容疑者と呼びたくてならなかった。

箱の中に何が入っているのか。刃物か。拳銃か。毒薬か。本の中に何が書かれているのか。社会秩序を軽んじる哲学か。現生人類を減らす技術か。受験勉強を怠る物語か。

容疑者は生き抜くために必要不可欠だ。容疑者、あるいは餌食。

元刑事は、ときどき、古い夢を思い出す。黒い沼があり、そこに彼は浸かっていた。何かが沼を跳び越える。彼はそこから出られない。泥が水飴のように粘る。怒りと苦しみと恐れなどがごっちゃになって、彼を動けなくさせている。鰐は自分の上を越えて行く物体に向って跳ねた。餌食があるから跳ねることができた。鰐は何かに噛みついた。その瞬間、たとえようもない心地よさを覚えた。最初で最後の体験。その未明の屈辱と快楽を、彼は忘れられない。最高の快楽と最低の屈辱。

再び跳ねるために、元刑事は容疑者を尾行し続けた。何日も、何か月も。容疑者に不審な点はなかった。だが、そのせいで元刑事の好奇心は燃え上がった。誰にだって不審な点はあるものだ。ところが、あいつにはそれがない。おかしい。後ろめたいことがなくても秘密めかすのが紳士淑女のマナーだろう。

夏が終わろうとする頃、元刑事は容疑者が女と歩いているのを目撃した。驚くべきことだ。孤独を愛するはずの男が人と歩くとは。しかも、相手は女だ。

容疑者は彼女と別れた後、裏通りに入った。高い部屋の窓に明かりが点いたとき、彼は小さく呻いた。元刑事だからこそ聞き取れたのだ。その声は言葉のようであり、名前のようでもあった。その名前には聞き覚えがあった、何となく。名前ならば、だが。

容疑者を睨みながら街路樹に凭れ、元刑事は懐の手帳を探った。金曜日の夜のことだ。下風が襟を立てた。

(終)

 


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