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書評 岸本裕史『ドラえもんの学習シリーズ ドラえもんの算数おもしろ攻略 改訂版 算数まるわかり辞典 4~6年生』(小学館)

2024-09-25 01:06:02 | 評論

   書評

  岸本裕史『ドラえもんの学習シリーズ ドラえもんの算数おもしろ攻略 改訂版 算数まるわかり辞典 4~6年生』(小学館)

(18) 対角線(補)

乗りかかった舟だ。

どんな四角形にも、対角線は2本ある。そして、対角線が必ず垂直に交わる四角形は、ひし形と正方形なんだ。

(p195)

凧形は? 

縦の対角線に関して対照で縦長の四角形。

(『ジーニアス英和大辞典』「kite」)

〈凧形〉という言葉は使われなくなったらしい。なぜだろう。

〈一般的な四角形→(凧形→菱形)あるいは台形→菱形あるいは平行四辺形→長方形→正方形〉

これでは分りにくいかな。

〈一般的な台形→等脚台形→平行四辺形→菱形〉という経路と〈一般的な四角形→凧形→菱形〉という経路がある。これでいいかな。

作図して確かめてください。

(18補・終)


報告 『ヘロシです。』をHPに掲載しました。

2024-09-24 00:07:24 | ジョーク

報告

『ヘロシです。』をHPに掲載しました。

目次

       1自粛

  2独居

  3変顔

  4眠れない夜

  5雨垂れ

  6コロシアム

  7鏡

  8退屈

  9皮算用

  10梯子

       11ヘロヘロ

       12差別者の烙印

       13フロシだぞ。

       14ヘラシ? 

       15ハロシだよ。

       16虚栄心と向上心

       17ヘボシかも。

       18人減らし

       19クレーマー

       20散歩

       21蚊取り線香

       22白滝

       23迷路

       24人間の天敵は人間

       25ゴロシさ。

       26ヨロシワロシや。

       27ベロシなのさ。

       28ブラシだけど、何か? 

(終)

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『夏目漱石を読むという虚栄』7250

2024-09-22 23:01:05 | 評論

   『夏目漱石を読むという虚栄』

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7250 独り笑い

7251 『ピーナッツ』

 

語り手Sは「気が狂ったと思われても満足なのです」(下五十六)と書く。〔2543 「不安」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 2540 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)

普通人なら、〈Sは少年の頃から狂っていた〉と思うはずだ。こうした印象を覆すのに十分な表現は『こころ』のどこにも見出せない。作者は、〈普通人にはSが狂人に見える。だが、Sは天才なのだ。そのことはPのような秀才にはわかる〉といった暗示を試みているのだろう。知識人は、こうした根拠のない暗示を真実のように受け取ってしまう。なぜか。彼らは、自分とSを混同したいからだ。

 

どうしたいいのか、わからない…… ぼくたち、どうしてこんな苦しみを味わわなきゃならないんだ? 

「人間は生まれれば必ず苦しむ 火花が必ず上に 向かって飛ぶように」

えっ?

旧約聖書の「ヨブ記」からの引用だよ 第5章第7節…… 

確かに苦しみというものは とても深遠な問題で…… 

誰かがひどい目にあったとしたら、それはその人が何か悪いことをしたからよ わたしはそう思うわ! 

それはヨブの友人たちが言ったことだけど、ぼくはそれは正しくないと…… 

ヨブの妻はどうなの? あの人のこともきちんと評価すべきじゃない? 

ぼくが思うに、苦しみを経験しない人間は、ほんとうの意味でおとなになることはできないよ…… 苦しむというのは実はとても大事なことなんだ

自分から苦しみたいなんて思う人がいる? 馬鹿なこと言わないでよ! 

だけど苦痛も人生の一部なのであって…… 

ヨブの「忍耐心」だけを取り上げる人は、聖書の意味をほんとうに理解しているとは言えないと思う 僕の考えでは…… 

これじゃ野球のチームじゃないよ 神学セミナーだ! 

(チャールズ・M・シュルツ『ピーナッツ』60年代)

 

この子らは知識人だ。

ちなみに、『こころ』の「思想問題」(下二)は、この程度の展開もなされていない。

 

乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一(いつ)刹那(せつな)が苦しいか、何方(どっち)が苦しいだろうと考えました。

そうして二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十六)

 

精神的苦痛と肉体的苦痛を比べるなんて、漫画にもならない。そう思わない人は知識人だ。

 

*『スヌーピーの50年 世界中が愛したコミック『ピーナッツ』』所収。

 

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7250 独り笑い

7252 『リア王』

 

『ピーナッツ』に登場する人間や動物は、みんな、ちょっとずつ狂っている。まともなのは出てこない。そんなことぐらい、わかりきっている。だから、笑える。

Nの小説に出てくる人物の精神状態は、猫も含めてだが、不明だ。本文が意味不明だからだ。そもそも、意味不明の文言を並べる作者の意図が不明だ。だから、登場人物たちのことを笑えないし、逆に〈かわいそうな人たち〉と思ってやることもできない。

〈熱狂・狂喜・狂言・狂乱〉などに含まれる〈狂〉の意味は異なる。また、ある人のある時点での言動をどのように判断するかは、判断する人によって異なる。不治の狂人か。一時的な狂いか。薬物などのせいで脳の働きがおかしくなっているのか。文化や習慣などが異なるせいで異郷の人が気違いのように見えるだけか。

 

リア 千百の鬼共が真赤に焼けた鉄の串(くし)を振りかざし、あの娘等の咽喉もと目がけて蛇(へび)のように襲(おそい)掛(かか)ればいい! 

エドガー 悪い鬼めが俺の背中に噛(かみ)附(つ)きやがった。

道化 気違いに決っているよ、大人しい狼、病気の無い馬、初恋の永続き、女郎の誓文(せいもん)などを本気に考えるような奴は。

リア それに限る、今、直ぐ奴等を呼出してくれよう。(エドガーに)そこにお坐(すわ)り頂きたい、学識高き裁判官殿。(道化に)こちらは賢者か、ここへ(ママ)坐って貰おう。さあ、この女狐(めぎつね)共―― 

エドガー それ、鬼めが、立って、こっちを睨(にら)んでいる! 裁判されるというのに、傍聴人が欲しくないのかい、奥さん? (笑う)

(ウイリアム・シェイクスピア『リア王』第三幕第六場)

 

Sは「初恋の永続き」を「本気に考えるような奴」だから、「道化」に言わせれば「気違い」だろう。

 

王に従う道化の活躍は世界の根源的不条理に対する悲劇的問いかけをきわだたせている。

(『百科事典マイペディア』「リア王」)

 

Sはリアの同類だろう。被害妄想的。たとえば、「従妹(いとこ)」(下六)は、リアの三女のコーデリアのように純真だったのかもしれない。ところが、そうした可能性を、Sは、いや、作者は考慮しない。おかしい。おかしいと思わない読者もおかしい。

 

私が従妹を愛していない如く、従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」六)

 

「よく知れて」いる理由は不明。

 

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7250 独り笑い

7253 「神経衰弱と狂気」

 

道化は狂人の真似をする。道化の真似をする狂人もいる。両者の判別は困難だ。普通人は判別などしない。どっちも一緒。『気違いピエロ』(ゴダール監督)参照。

 

英国人は余を目して神経衰弱といへり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりといへる由(よし)賢明なる人々の言ふ所には偽(いつわ)りなかるべし。ただ不敏にして、これらの人々に対して感謝の意を表する能はざるを遺憾とするのみ。

帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼(けん)狂人のよしなり。親戚のものすら、これを是認するに似たり。親戚のものすら、これを是認する以上は本人たる余の弁解を竟やす余地なきを知る。ただ神経衰弱にして狂人なるがため、「猫」を草し「漾(よう)虚集(きょしゅう)」を出し、また「鶉(うずら)籠(かご)」を公け(ママ)にするを得たりと思へば、余はこの神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表するの至当なるを信ず。

余が身辺の状況にして(ママ)変化せざる限りは、余の神経衰弱と狂気とは命のあらんほど永続すべし。永続する以上は幾多の「猫」と、幾多の「漾虚集」と、幾多の「鶉籠」を出版するの希望を有するがために、余は長(とこ)しへにこの神経衰弱と狂気の余を見棄てざるを祈念す。

(夏目漱石『文学論』「序」)

                                                            

この『文学論』も「神経衰弱と狂気」の症状だろう。これを解読するには、当時の英語と日本語の両方に熟達していなければならない。でも、その程度の知識では解読できまい。

「賢明なる人々」は普通人だろう。ただし、「賢明なる」は〈悪意のない〉などが適当。Nは、「賢明なる」によって〈悪意のある〉を暗示しているわけだ。では、なぜ、堂々と〈悪意のある〉といった言葉を明示しないのか。悪意の証拠がないからだ。〈悪意のある人々〉は実在せず、この「人々」は彼の被害妄想の産物であり、そのことをNは自覚しているからだ。だから、彼は完全に狂っているわけではない。彼は、自分のことを愛してくれない人々に対して「悪人」(上二十八)のレッテルを貼りたいのだが、無理だとわかっている。彼は正気と「狂気」の間をふらついているわけだ。そうした中途半端の状態を「神経衰弱」と呼ぼう。「不敏にして」は自虐が過ぎて意味をなさない。

「親戚のものすら、これを是認する以上は本人たる余の弁解を竟やす余地なきを知る」も、「神経衰弱にして狂人なるがため、「猫」を草し「漾(よう)虚集(きょしゅう)」を出し、また「鶉(うずら)籠(かご)」を公け(ママ)にするを得たり」も意味不明。「神経衰弱」の患者は、本音を冗談に偽装し、独りで笑う。こうした中途半端な悪文は「神経衰弱」の暴露。「この神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表する」に至ると、奇妙な冗談は「狂気」の産物と区別できなくなる。「神経衰弱と狂気」は擬人化されているわけだが、彼らがどのような人格なのか、さっぱりわからない。

「身辺の状況」とは、〈「賢明なる人々」や「親戚のもの」がNの精神状態について誤解を続ける「状況」〉らしい。彼が期待している「変化」とは、世界中の人がNを愛することだ。Nは「親戚のもの」に「見棄て」られた。彼らの代理が「この神経衰弱と狂気」だ。たとえば、「神経衰弱」は母の代理で、「狂気」は父の代理。

(7250終)


『夏目漱石を読むという虚栄』 7240

2024-09-20 23:01:57 | 評論

『夏目漱石を読むという虚栄』

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7240 知識人汚染

7241 曲学阿世の徒

 

知識人は無定見だ。〔5540 個人の主義〕参照。二股膏薬をリアルと勘違いしている。自分にとっての普通を守ろうと足掻く。「右も左もぶっ飛ばせ」とか怪しげな気炎を吐いていた野坂昭如の座右の銘は「昨日勤王、明日は佐幕」だった。知識人は平気で掌を返す。イソップの蝙蝠。『男組』((雁屋哲+池上遼一)の生徒会長。『おそ松くん』(赤塚不二夫)のイヤミ。〔4413 イヤミの同類〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 4410 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)

私の用いる〈知識人〉の意味は〈学者や思想家を気取る人物〉だ。

 

学問の真理を曲げて、世間や権力者におもねること。

(『明鏡国語辞典』「曲学阿世」)

 

曲学阿世の徒とは、知識人に成り下がった学者のことだ。

 

1950(昭和25)年、首相吉田茂は、サンフランシスコ条約に反対して全面講和を主張した東大総長南原(なんばら)繁を「曲学阿世の徒」と非難したが、使い方を誤れば、非難するほうが「曲学阿世の徒」となりかねない。

(『明鏡ことわざ成句使い方辞典』「曲学阿世」)

 

「が、使い方を」以下はおかしい。吉田の非難が不当だったとしても、彼は言葉の「使い方」を誤っているわけではない。また、吉田は学者ではないから「曲学」はできない。この場合、〈吉田は政治家から知識人に成り下がった〉とは言える。

二股膏薬の右往左往が限界を超えると、知識人は苦悩に逃避して見せる。〔6110 『君たちはどう生きるか』〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 第六章 6110 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)

 

死んだ積りで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟(しげき)で躍り上がりました。然し私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否(いな)や、恐ろしい力が何処からか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私に御前は何をする資格もない男だと抑え付けるように云って聞かせます。すると私のその一言(いちげん)で直(す)ぐぐたりと萎(しお)れてしまいます。しばらくして又立ち上がろうとすると、又締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他(ひと)の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷(ひやや)かな声で笑います。自分で能く知っている癖にと云います。私は又ぐたりとなります。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十五)

 

〔4552 恐れなど〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 4550 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)「外界の刺戟(しげき)」の具体例は不明。知識人の目的は頭角を現すことだろう。「一言(いちげん)」は〈一言居士〉の露呈。「恐ろしい力」氏が一言居士なのは、S自身が一言居士だからだ。「能く知っている癖に」と言われたら、〈いや、「能く」は知らない。だから「能く」教えてください〉と返しなさい。知識人は議論が嫌いだ。

 

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7240 知識人汚染

7242 エッグヘッド

 

知識人は、自分の意見について反省しない。

 

<君の言うように、証人たちは荒々しい声については意見が一致している。この点では全員一致だ。ところが鋭い声についての特異な点は……彼らの意見が一致しなかったという点じゃなく……イタリア人、イギリス人、スペイン人、オランダ人、フランス人がその声を説明するに当って、めいめいがそれを外国人の声だと言っていることなんだ。自分の同国人じゃない、ということには、めいめいが確信を持っている。

(エドガー・アラン・ポオ『モルグ街の殺人』)>

 

犯人の放った「鋭い声」について、「証人たち」は素直に〈わからない〉と言わない。言語の専門家ではないのに、「鋭い声」について妙な「確信」を持っている。この「確信」は思い込みだ。自分の思い込みを正当化するために知識を利用するのが知識人だ。

彼らは、〈犯人は自分ではない。自分の「同国人」ですらない。自分の嫌いな「外国人」だろう。きっとそうだ〉と考えているのだろう。ところが、その経緯を反省できない。

 

<〈エッグヘッド〉ということばは急に怪し気なニュアンスを帯びるようになり、それまでもちいられていた〈ハイブロウ〉よりもとげとげしい意味あいを含むことばになった。選挙運動が終わってまもなく、右翼的な政治信条をもった大衆小説家ルイス・ブロムフィールドは、この語はいつかつぎのように、辞書に載るだろうとほのめかした。

 

〈エッグヘッド〉 見せかけの知的振る舞いをする人、しばしば大学教授あるいはその子分が該当する。なによりもまず浅薄。あらゆる問題に対して感情過多で女性的な反応をする。高慢。みずからを過信し、より健全で有能な人物の経験に対する猜疑心にみちている。思想が根本的に混乱しており、感傷と混同した熱烈な福音主義に埋没している。民主主義と自由主義というギリシア的・フランス的・アメリカ的理念に対立する、中世ヨーロッパの社会主義を支持する机上の理論家。ニーチェをしばしば獄につながせ、恥辱に追いやった、かの旧式の哲学的道徳にしたがう。自意識過剰の気取り屋。あまりにもひとつの問題をすべての側面から検討したがるために、おなじ場所にとどまるうちに完全に頭が混乱してしまう。無気力な憂国の士。

 

プロムフィールドはいう。「このたびの選挙で多くのことが判明した。とくに「エッグヘッド」が大衆の思想や感情から極端にへだたっていることが歴然とした」。

(リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』「第一章 現代の反知性主義」)>

 

「エッグヘッド」について〔7223 ハンプティー・ダンプティ〕参照。『夏目漱石を読むという虚栄』 7220 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)「ハイブロウ」は「知識や教養を鼻にかける人・インテリぶる人」(『ランダムハウス英和大辞典』「highbrow」)のこと。気障なだけ。「右翼的な政治信条」云々は無視。プロムフィールドのことは知らない。

 

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7240 知識人汚染

7243 『死刑台のメロディー』

 

ホフスタッターは知識人であり、そのことを誇りに思っているのだろう。

 

<知識人はアンガジュマン、すなわち誓約し、責任を引き受け、参加する。他のだれもがすすんで認めようとすること、つまり知識や抽象的観念は人間生活のなかでとくに重要であるということを、知識人は至上命令のように感じる。

もちろんここで問題となるのは、純粋な個人的規律や観想・理解の生活それ自体にとどまらない。思考する生活が人間活動中最高のものと見なされたとしても、それは媒介手段のひとつでもあり、他の諸価値はそれを通じて洗練され、言明され、人間社会で実現されていくからだ。全体として、知識人たちは何度も人類の道徳上の道しるべになろうとしてきた。根本的な道徳的諸問題を大衆が意識する以前に、それらを予期し、できるならば明確にしようと努めてきたのである。思想家というものは、自分自身の真理の探究に関係のある道理や正義といった価値の特別な管理者になるべきだと感じている。そして時折、自分のアイデンティティが粗野な悪弊に脅やかされそうになると、公人としての存在を強く印象づけようとする。ここで思い起こされるのは、カラス家を弁護したヴォルテールであり、ドレフュスのために熱弁をふるったゾラであり、サッコ・ヴァンゼッティ裁判に激怒したアメリカの知識人たちだろう。

(リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』「第二章 知性の不人気」)>

 

彼は原因と結果を混同しているようだ。「媒介手段のひとつ」とか「人間社会で実現されていく」といった表現はかなり怪しい。「道徳的諸問題」は、思想家あるいは宗教家によって発信されたものでない限り、ある知識人の妄想と区別できない。知識人が「予期し」たのではなく、知識人の妄想が「大衆」に感染したのだろう。

「カラス」も「ドレフュス」も「サッコ・ヴァンゼッティ」も冤罪事件。

 

<《知識人》の運動としてはじまったドレーフュス事件は《知識人》の敗北によっておわったというよりほかあるまい。しかし『真実』におけるゾラの破産は、まさしく一九一三年に、かつての《ドレーフュス主義者》の手で雪辱されるのである。《犠牲にされた世代》の文学者たちは、一九一三年にいっせいに開花したしたその遅咲きの作品によって、新しい時代の新しい文学の方向をはっきりと打ちだしたという意味で、忘れさられたドレーフュス事件の栄光をまったく別のかたちで永遠のものとするわけだ。

(渡部一民『ドレーフュス事件』「エピローグ」)>

 

『死刑台のメロディー』(モンタルド監督)で描かれたサッコとヴァンゼッティは、知識人が騒いだせいで死刑になる。知識人が騒がなければ、特赦になった可能性が大きい。サッコは知識人に対して激しい憎悪を抱き、沈黙を守る。その姿はヨブを思わせる。一方、ヴァンゼッティは死への恐怖を紛らわすために、知識人に成り上がり、受難者を演じる。雄弁な彼を、知識人は称賛し、権力者は嘲笑するのだろう。大衆は沈黙する。

(7240終)