ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

『夏目漱石を読むという虚栄』7250

2024-09-22 23:01:05 | 評論

   『夏目漱石を読むという虚栄』

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7250 独り笑い

7251 『ピーナッツ』

 

語り手Sは「気が狂ったと思われても満足なのです」(下五十六)と書く。〔2543 「不安」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 2540 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)

普通人なら、〈Sは少年の頃から狂っていた〉と思うはずだ。こうした印象を覆すのに十分な表現は『こころ』のどこにも見出せない。作者は、〈普通人にはSが狂人に見える。だが、Sは天才なのだ。そのことはPのような秀才にはわかる〉といった暗示を試みているのだろう。知識人は、こうした根拠のない暗示を真実のように受け取ってしまう。なぜか。彼らは、自分とSを混同したいからだ。

 

どうしたいいのか、わからない…… ぼくたち、どうしてこんな苦しみを味わわなきゃならないんだ? 

「人間は生まれれば必ず苦しむ 火花が必ず上に 向かって飛ぶように」

えっ?

旧約聖書の「ヨブ記」からの引用だよ 第5章第7節…… 

確かに苦しみというものは とても深遠な問題で…… 

誰かがひどい目にあったとしたら、それはその人が何か悪いことをしたからよ わたしはそう思うわ! 

それはヨブの友人たちが言ったことだけど、ぼくはそれは正しくないと…… 

ヨブの妻はどうなの? あの人のこともきちんと評価すべきじゃない? 

ぼくが思うに、苦しみを経験しない人間は、ほんとうの意味でおとなになることはできないよ…… 苦しむというのは実はとても大事なことなんだ

自分から苦しみたいなんて思う人がいる? 馬鹿なこと言わないでよ! 

だけど苦痛も人生の一部なのであって…… 

ヨブの「忍耐心」だけを取り上げる人は、聖書の意味をほんとうに理解しているとは言えないと思う 僕の考えでは…… 

これじゃ野球のチームじゃないよ 神学セミナーだ! 

(チャールズ・M・シュルツ『ピーナッツ』60年代)

 

この子らは知識人だ。

ちなみに、『こころ』の「思想問題」(下二)は、この程度の展開もなされていない。

 

乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一(いつ)刹那(せつな)が苦しいか、何方(どっち)が苦しいだろうと考えました。

そうして二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十六)

 

精神的苦痛と肉体的苦痛を比べるなんて、漫画にもならない。そう思わない人は知識人だ。

 

*『スヌーピーの50年 世界中が愛したコミック『ピーナッツ』』所収。

 

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7250 独り笑い

7252 『リア王』

 

『ピーナッツ』に登場する人間や動物は、みんな、ちょっとずつ狂っている。まともなのは出てこない。そんなことぐらい、わかりきっている。だから、笑える。

Nの小説に出てくる人物の精神状態は、猫も含めてだが、不明だ。本文が意味不明だからだ。そもそも、意味不明の文言を並べる作者の意図が不明だ。だから、登場人物たちのことを笑えないし、逆に〈かわいそうな人たち〉と思ってやることもできない。

〈熱狂・狂喜・狂言・狂乱〉などに含まれる〈狂〉の意味は異なる。また、ある人のある時点での言動をどのように判断するかは、判断する人によって異なる。不治の狂人か。一時的な狂いか。薬物などのせいで脳の働きがおかしくなっているのか。文化や習慣などが異なるせいで異郷の人が気違いのように見えるだけか。

 

リア 千百の鬼共が真赤に焼けた鉄の串(くし)を振りかざし、あの娘等の咽喉もと目がけて蛇(へび)のように襲(おそい)掛(かか)ればいい! 

エドガー 悪い鬼めが俺の背中に噛(かみ)附(つ)きやがった。

道化 気違いに決っているよ、大人しい狼、病気の無い馬、初恋の永続き、女郎の誓文(せいもん)などを本気に考えるような奴は。

リア それに限る、今、直ぐ奴等を呼出してくれよう。(エドガーに)そこにお坐(すわ)り頂きたい、学識高き裁判官殿。(道化に)こちらは賢者か、ここへ(ママ)坐って貰おう。さあ、この女狐(めぎつね)共―― 

エドガー それ、鬼めが、立って、こっちを睨(にら)んでいる! 裁判されるというのに、傍聴人が欲しくないのかい、奥さん? (笑う)

(ウイリアム・シェイクスピア『リア王』第三幕第六場)

 

Sは「初恋の永続き」を「本気に考えるような奴」だから、「道化」に言わせれば「気違い」だろう。

 

王に従う道化の活躍は世界の根源的不条理に対する悲劇的問いかけをきわだたせている。

(『百科事典マイペディア』「リア王」)

 

Sはリアの同類だろう。被害妄想的。たとえば、「従妹(いとこ)」(下六)は、リアの三女のコーデリアのように純真だったのかもしれない。ところが、そうした可能性を、Sは、いや、作者は考慮しない。おかしい。おかしいと思わない読者もおかしい。

 

私が従妹を愛していない如く、従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」六)

 

「よく知れて」いる理由は不明。

 

7000 「貧弱な思想家」

7200 「思想問題」 

7250 独り笑い

7253 「神経衰弱と狂気」

 

道化は狂人の真似をする。道化の真似をする狂人もいる。両者の判別は困難だ。普通人は判別などしない。どっちも一緒。『気違いピエロ』(ゴダール監督)参照。

 

英国人は余を目して神経衰弱といへり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりといへる由(よし)賢明なる人々の言ふ所には偽(いつわ)りなかるべし。ただ不敏にして、これらの人々に対して感謝の意を表する能はざるを遺憾とするのみ。

帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼(けん)狂人のよしなり。親戚のものすら、これを是認するに似たり。親戚のものすら、これを是認する以上は本人たる余の弁解を竟やす余地なきを知る。ただ神経衰弱にして狂人なるがため、「猫」を草し「漾(よう)虚集(きょしゅう)」を出し、また「鶉(うずら)籠(かご)」を公け(ママ)にするを得たりと思へば、余はこの神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表するの至当なるを信ず。

余が身辺の状況にして(ママ)変化せざる限りは、余の神経衰弱と狂気とは命のあらんほど永続すべし。永続する以上は幾多の「猫」と、幾多の「漾虚集」と、幾多の「鶉籠」を出版するの希望を有するがために、余は長(とこ)しへにこの神経衰弱と狂気の余を見棄てざるを祈念す。

(夏目漱石『文学論』「序」)

                                                            

この『文学論』も「神経衰弱と狂気」の症状だろう。これを解読するには、当時の英語と日本語の両方に熟達していなければならない。でも、その程度の知識では解読できまい。

「賢明なる人々」は普通人だろう。ただし、「賢明なる」は〈悪意のない〉などが適当。Nは、「賢明なる」によって〈悪意のある〉を暗示しているわけだ。では、なぜ、堂々と〈悪意のある〉といった言葉を明示しないのか。悪意の証拠がないからだ。〈悪意のある人々〉は実在せず、この「人々」は彼の被害妄想の産物であり、そのことをNは自覚しているからだ。だから、彼は完全に狂っているわけではない。彼は、自分のことを愛してくれない人々に対して「悪人」(上二十八)のレッテルを貼りたいのだが、無理だとわかっている。彼は正気と「狂気」の間をふらついているわけだ。そうした中途半端の状態を「神経衰弱」と呼ぼう。「不敏にして」は自虐が過ぎて意味をなさない。

「親戚のものすら、これを是認する以上は本人たる余の弁解を竟やす余地なきを知る」も、「神経衰弱にして狂人なるがため、「猫」を草し「漾(よう)虚集(きょしゅう)」を出し、また「鶉(うずら)籠(かご)」を公け(ママ)にするを得たり」も意味不明。「神経衰弱」の患者は、本音を冗談に偽装し、独りで笑う。こうした中途半端な悪文は「神経衰弱」の暴露。「この神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表する」に至ると、奇妙な冗談は「狂気」の産物と区別できなくなる。「神経衰弱と狂気」は擬人化されているわけだが、彼らがどのような人格なのか、さっぱりわからない。

「身辺の状況」とは、〈「賢明なる人々」や「親戚のもの」がNの精神状態について誤解を続ける「状況」〉らしい。彼が期待している「変化」とは、世界中の人がNを愛することだ。Nは「親戚のもの」に「見棄て」られた。彼らの代理が「この神経衰弱と狂気」だ。たとえば、「神経衰弱」は母の代理で、「狂気」は父の代理。

(7250終)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする