答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

道は無窮なり

2022年01月18日 | オヤジの情報発信修業

 

『礒部組現場情報』の最重要コンテンツとなりつつある(とわたしだけが勝手に思っている)『トシ子さんの疑問に答える』。礒部組事務員の「トシ子さん」と、ブログ管理人(わたし)との土木用語に関する問答集である。

といっても、「トシ子さん」なる女性が実在の人物であるとも、また、彼女とわたしのあいだで繰り広げられる珍妙な会話が本当にあったものかどうかも、ひと言も書いていない。ブログ読者約500人のうち、いったいどれぐらいの人があの会話を現実のものととらえているのかはわからないが、実際のところは、虚実脚色がないまぜになったようなものである。それ以上のネタバラシは、するだけ野暮というものだ。

きのう、その「トシ子さん」が、「いったい私をいくつだと思ってるんですか?」と口をとがらせクレームをつけてきた。つづいた言葉は「言っときますけど、私、”松竹梅”のCMなんか見たことないですから。あの3人ともリアルで知りませんから」。

経緯はこうだ。

「林道とは?」という「トシ子さん」の質問に答えるなか、わたしの脳裏に少年時代に見たあるテレビコマーシャルがひらめいた。

******

「しからば問う、裕次郎、男とは?」

「子どもよ」

「女とは?」

「宝よ」

「喜びとは?」

「のむことよ」

♪よろこび~のさーけ~しょーちくーばい~♪

******

という、石原裕次郎と宇野重吉の宝酒造「松竹梅」のCMだ。

調べてみると1970年放映だという。一世を風靡した(はずだ)そのコマーシャルは、渡哲也によってひきつがれ、50周年となる2020年にデジタル編集による裕次郎と渡の共演で幕を閉じた。

それをふまえて、「林道とは?」というごくごくマジメなネタのあいまに挟むオチャラケの小ネタとして、これをちりばめた。

とはいえ、ちゃらんぽらんのように見えて、情報発信における「裏とり」の必要性は重々承知しているわたしのことだ。その年代については調査済み、渡哲也と石原裕次郎のデジタル共演がいつ放映されたかは、調べてからアップロードしている。その上で、さすがに宇野・石原の原典は知らないだろうが、石原・渡のそれは知っているだろうとアタリをつけて書いた。

だが、あにはからんや、肝心の「トシ子さん」本人はご存知なく、「失礼しちゃうわ」的反応、つまりクレームをあびせてきた。

そして・・・

 

という展開を思いついたが、『現場情報』のネタとして投稿するのは思いとどまった。

さしたる理由はない。ちょっとばかりしつこいかな、と感じただけだ。

ことほど左様、なにが本当でなにが虚構なのか、どこまでが事実でどこからが脚色なのか。

虚実がないまぜとなった情報発信ってどうなんだ?

と思いつつ、それも時と場合次第、「現場」に関する事実さえ曲げなければあんなのもアリだろうと、おやじの情報発信修業は、あらたなバリエーションを加えながらつづいていく。あてはない。道は無窮なりだ。

 

(ちなみに最後の言葉、単に使ってみたかっただけで、それほど大層なことでもないのだけれど)

 

 

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「トシ子さん」への葉書

2021年12月25日 | オヤジの情報発信修業

 

ニコニコしながら部屋に入ってきた事務員さんが手にしていたのは一枚の葉書。

「はい」と手渡されて宛名書きを見てみると「礒部組 トシ子様」とあった。

なんじゃこりゃ、と思わず笑い、その下に記された差出人の住所と名前を目で追う。住所は県外だ。名前に心当たりはない。

裏を返すと、葉書一面に手書きの文字が並んでいた。

「トシ子様 礒部組宮内様のブログを拝読して楽しんでいます」ではじまるその文には、便りの主さん(仮にAさんとする)が、どうやら『土木のしごと~(有)礒部組現場情報』を以前から目にしてくれていたらしいこと、あたらしくはじまった「トシ子さんの疑問に答える」シリーズでの、わたしと「トシ子」さんのやりとりを楽しんでくれているらしいこと、近隣の出身で県外に出て、実家には今誰も住んでいないこと、同級生は誰それたち、などが書かれており、「質問のネタがなくなったらこれを」と前置きして、ごていねいに質問(ネタ)を3つ。ふむふむそうかそうかと読み終わったあと、再度表書きの名前を見直すと、なるほど、Aさん自体は知らないが、なんとなくあのあたりの人なのだろうという見当はついた。

WebにはWebで。インターネットで見聞きしたものへの反応は、それがそのサイトであれ自分の土俵であれ、インターネット上でするのが当たり前の世の中だ。にもかかわらずAさんは、それを葉書で、しかも自筆で返してくれた。ありがたいことこの上ない。

とはいえそれは、その宛名書きが示すように、「トシ子さん」へ宛てたものであり、表面上はわたしに向けたものではないが、「これはまぎれもなくオレに宛てたものだ」とわたしは受けとった。

「Webで書く」という行為をはじめてから13年半。

ブログへの感想を自筆の葉書でいただいたのは、これがはじめてではなく2度目である。

長くつづけていれば、時おりよいことがある。

このうれしさとありがたさを糧に、またしばらくはつづけられる。

思いもかけないプレゼントを肴に、ニヤニヤしつつ飲む晩酌の旨いことといったら。

いやあ、なにもかにもないのであったのだよ。

 

 

 

ちなみに

↓↓

トシ子さんの疑問に答える

 

気が向いたらご笑覧あれ。

 

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好きでやってますから

2021年12月24日 | オヤジの情報発信修業

 

「忙しいですか?」

というのは、いわばあいさつ代わりの言葉だ。口に出す当の本人もさしたる意味を込めて言ってはいない。そういう場合が多々あるのではないか。

しかしそれが、

「忙しいでしょう」

となると少々ニュアンスが変わってくる。答えるほうも、いささか心して応じる必要があるだろう。

わたしに対しては、その言葉を発する人がどう考えているのか、後者が多い。

それに対する返答として、以前は、けっして「はい」だとか「忙しいです」とかの肯定語を用いることはなく、「忙しくない」だとか「ぼちぼち」だとか、そのような類の言葉を返していた。しかし近ごろでは、「会社は忙しいですけど」と肯定しておいて、「わたしは忙しくない」とか「わたしは暇」だとかの言葉を付け加えるようにしている。

もちろんそんなわたしとて、こりゃチトたまらんね、というほど忙しいことがないではない。しかし、ぽろっと心情が出てしまうときを除いては、それに類する語彙は、めったなことでは使わないようにしている。なぜならば、言葉は身と心を束縛してしまうからだ。「忙しい」という言葉を口に出しつづけていると、その「忙しい」が心身を拘束し、自分自身の内なる余裕をうばってしまう。

とはいえそれは、あくまでもわたし自身の心の持ちようだ。実際に忙しく立ち働いている人たちが存在しているにもかかわらず、「忙しくない」と表現するのは失礼だろう。だから、「会社は忙しいですけど」と肯定しておいて、「わたしは忙しくない」とか「わたしは暇」だとかの言葉を付け加えるようにしている。

 

先日、初対面の方とオンラインで打合せをした。フェイスブックでつながっていた人である。SNSでつながっていた人とオンラインで話をしたのを「対面」と呼ぶのが適切な言い回しなのかどうかよくわからないが、なんとなく「はじめまして」という感じではあった。

で、その方が言ったのである。

「忙しいでしょう?」

もちろん、わたしの答えは上述のとおり。

すると先方はこう返してきた。

「忙しくないはずないでしょう。ブログとかインスタとか、毎日あれほどやってらっしゃるのに」

ほぉ・・・

想定外だった。

そうかぁ・・あれを忙しいととらえるのか・・・

少しだけ考え(といっても約1秒ほどだ)、

「あれは仕事と思ってないですからね、だいたい出社前とか昼休みとか夜とかにやってるし」

と答えると、相手は驚き、

「え?仕事じゃないんですか?」

と目を丸くした。

「あ、好きでやってますから」

ついつい口をついて出たその文句に、心の内で思わず笑った。

 

「あんたも好きやねー」

この13年半のあいだ、Webでのわたしの行為に対して、そういった言葉を何度投げかけられただろう。さすがに周りに認知されてきた近ごろでは少なくなったが、この道を歩きはじめたころの数年間は、よく言われた。

そのたびに、よくは思わなかった。好きでやっているという感じが、わたしの内にはなかったからだ。ではその行為をつづける原動力がどんなものだったかというと、大げさにいえばそれは、「使命」とでもいうようなものであり、内発的動機づけとしては「意地」の存在も大きかった。

けっ、こっちはなにも好きでやってるわけじゃないんだよ。「あんたも好きやねー」と言われるたび、心の内で面と向かった相手にそう毒づいていた。

 

ということで、ここで今日の行動をふりかえってみることにする。

5時起床。起き抜けにインスタグラムのストーリーズを更新しようとしたが、近ごろ覚えた音楽を挿入する作業にかなり手間どってしまう。この写真にはどの曲がよいか、なかなかイメージどおりにハマる曲がなく、約30分かかってしまう。やっとこさそれが決まったと思うと、今度は、インスタグラム本編に投稿する写真につけるキャプションが決まらず、うんうん唸る。結局、たった4行をひねり出すのに5分以上かかる。その途中、ブログのネタを思いつき(つまりコレ)、一気呵成に書きかけたが20分ほどで時間切れ。支度をして出社。朝会が終わったあと、7時20分ごろから現場情報ブログの更新にとりかかり、8時すぎに終わる。デスクワークをこなし、昼餉を食ったあと、コレを仕上げている(←今ココ、12時44分)。

 

どうだろう。この現状をして「忙しいでしょう」とたずねられても、やはりわたしは「忙しくない」と答えるにちがいない。

しかし、「好きやなー」という言葉には、以前とは異なる返事をするはずだ。

たとえばそれは、

「うん、好きですね」

であり、もっと踏み込んで、

「そう、好きでやってますから」

であるかもしれない。

他人さまがどう見ても、そしてどう考えても、「好き」であるとしか思えないのなら、「そうだ」という方に乗り換えよう。

結局のところなによりそれは、自分自身にも「好きでやっている」としか見えないのだし。

 

 

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援軍来る

2021年11月26日 | オヤジの情報発信修業

 

『三方良しの公共事業カンファレンス2021福島』が終わってひと月余り。来年度は地元高知開催に決まり、はやその準備に動き出している。今日も今日とて、わたしを含めた数名がオンライン会議で企画を練る予定だ。

そんなところに、福島大会をオンラインで視聴してくれていた方から「感想」と題したメールが届いた。いや正しくは、わたしの友人のすすめで視聴したという人が、その友人に「感想」を送ってくれたものを、「こんなんきたよ」とその友人がわたしにフィードバックしてくれたものだ。

そこに書かれていたのは、『みじかい身の上話』と題したわたしの自己紹介兼事例発表にあった「工事だより」についての感想である。その方は、いわゆる「工事だより」(をつくって配る)という行為を、「土木事業PRチラシの近隣ポスティング」と表現していた。

ナルホド。上手に表現するもんだなあ。

そう感心するわたしが、「じつは紙は最強なんです」という前置き(ひょっとしたら後置きだったかもしれない)で紹介したのは、こんな事例だった。

 

 

 

 

 

 

もちろん、「紙は最強」という文句は意図して使っている。

たとえばそれは、その前段で提示した「ちいさな土木」や「反”土木のこころ”」が、土木業界界隈で広がる「大きいことはよいことだ」的発想や「公共事業の大義」への意図的なアンチテーゼであると同じように、「電子>紙」という一面的な序列付けへの抵抗である。とはいっても、そういうわたし自身は積極的ペーパーレス派であり、それをもって仕事効率化を図ることを是とする人間だ。しかし、世の中の大きな流れがそうだからこそ、「紙」のよさも認識し、それを活用しようという意味で「紙は最強」と主張した。

当日、それがどれほど視聴してくれている人に届いたかはわからない。『みじかい身の上話』において、肝心要とも言えるその部分に対して、わたしがていねいな説明をしなかったからだ。したがって、それについては忸怩たる思いがあったが、済んだことをぐじぐじ考えても仕方がないと心の内でケリをつけていた。

そんなところへ突然出現したその「感想」だ。そこには、「斬新」という文字が踊っていた。「土木事業PRチラシの近隣ポスティング策」は「斬新」で、「ターゲット地域の実情に合わせたPR」として有効であると。

わからないものだ。

この十数年、ずっとおなじことを言いつづけてきた。

「情報発信はアナログとデジタルの併用で」

「”顔が見える人たち”に対しては、むしろアナログの方が効果的だ」

直接的な反応は少ない。なかには、「こんなんつくったんですけど」と、わざわざ実物を送ってくれた人も数名いた。また、後日それらしきものを目にしたりすると、「ああ、ひょっとしたらこれはオレの・・」影響かもしれないと思うこともあった。しかしそれは、大海原をたった独り小さなボートで漂いながら大声で叫んでいるような行為だ。それに、内心「こんなちいさな試み、皆に披露するほどのことかね」と思わないでもない。しかし、そう思いながらもつづけるのは、これがわたしを含めた「ちいさな土木」に従事する者が「顔が見える人たち」に対してしなければならない情報発信を象徴していると信じるからだ。

そんなところへもってきての「感想」だ。

「斬新」という文字がぴかぴかと輝いて見えた。

思いがけず援軍来りて、勇気凛りん瑠璃の色。なんだかホントに「斬新」なのだという気分がふつふつとわきあがり、俄然やる気がわいてきた。

 

このオヤジ、あいかわらず単純ではある。

 

 

 

 

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ストーリーズをはじめてみた

2021年09月04日 | オヤジの情報発信修業

ストーリーズをはじめた。

インスタグラムのストーリーズを、である。

ふと思ったのだ。

もっとくだけた情報発信をしなければダメなのではないかと。

そう思ったのは、今にはじまったことではない。

そのひとつの実践として、『土木のしごと〜(有)礒部組現場情報』の内容を意識して変えたのはいつごろからだったろうか。それほど以前ではない。たぶん、昨年あたりからだったのではないかと検討をつけ、バックナンバーを紐解いてみると、一年前にはすでに、今のスタイルになっている。どうやらもっと前のことだったようだ。

で、ストーリーズである。

「土木の現場」ではたらく「生身のひと」たちの姿を発信するという、インスタグラム"isobegumi"におけるわたしのスタンスは変えないが、それとは別の、「くだけた」スタイルを試行するには、「24時間が経過すると消えてしまう」というストーリーズの限定性が適していると思ったのである。

それほど深く考えたわけではない。

いつもと相変わらず、思いつきに毛が生えたようなものである。

 

そのストーリーズ開始から1週間が過ぎた。

近しい人の反応のなかには、「ちょっとおちゃらけ過ぎですよ」というものもないではない。

ことほど左様に、感想は人それぞれだ。

ともあれ、試み自体はそれほどわるくないと思っている。

なによりそれは、過去からの惰性に陥りがちな自分に刺激を与えることになるのだし、今に居着こうとする自分自身を排除することにつながるからだ。

 

と、たかだかストーリーズをはじめたぐらいのことに、もっともそうな理屈を並べてみたが、アレを一見したならば、たぶんどこからどう見てもタダのおもしろがりにしか見えないし、それはそれでマチガイナイ。

ということで、「オヤジの情報発信修業」は、マイナーチェンジを繰り返しながら、まだまだつづくよどこまでも(たぶん)。

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画面の向こうの女性に救われたこと

2021年08月28日 | オヤジの情報発信修業

 

きのうは約200人を前にしてセミナー講師。といっても、直接的な意味で前にあるのはPCのディスプレイだけであり、聴講者とはオンラインで結ばれている。いわゆる「リモート」というやつである。

これが何度目になるのだろう。まだまだ両手の指で足るほどの経験しかしていないはずだ。その少ない経験からでも、そして「わたしなりに」という限定および括弧付きではあるが、「心がまえ」と「進め方」はアタマのなかに入っている。

とにもかくにも自分のパフォーマンスに集中する、というのがそれだ。

最初は、生身の人がいないこと、それゆえ生じる生身の人間の反応がないことにかなり戸惑った。

「アレはアンタには向いてないからヤメといたほうがいいんじゃないか」

そう忠告してくれた人も複数いた。

しかし、数回こなしてみると、ライブとオンラインでは、そもそも構え方を変えなければならないことに気づいた。

たしかにパソコンの向こうに相手はいる。聴く聴かないの次元において、圧倒的な自由のなかにその人たちはいる。もちろん、ライブもまた本質的にそうであることに変わりはないが、ここはそもそもそういう場所なんですよという

「講習会場という場の空気」のなかにいるか、ふだんの仕事机に向かっているかでは、その自由度に泥と亀ほどのちがいがある。

いくらこちらが反応を気にしようがしまいが、聴く聴かないは相手の自由である。そもそも受信する端末の前にいることさえ守っていれば、講義は垂れ流しにしておき、「見ない」という選択肢さえあるのだ。そういうシステムあるいはツールにおいては、相手の注意をどうやってこちらに向けるか、あるいはどうやってその気にさせるか、などの手法や技法は、ほとんど役に立たない。

だから、見ないようにした。

どんな参加者がいて、どのような反応をしてくれているかを見ないようにした。

だってそうじゃない、そりゃそうだもの。コチラには意識さえ向けることがない、そんな人たちが目に入ったら、もともとが小心者のわたしだもの、ココロは千々に乱れ、「伝える」もなにもあったものではなくなってしまうからだ。

だから、このディスプレイの向こうには、わたしの話を聴いてくれている人たちがいるのだと思い込むようにした。

その結果として、その誰だかわからない人のうちの誰かに届くことがきっとあるはずだと思いこみ、今わたしができる精一杯のパフォーマンスをすればよいのだと思うようにした。

 

きのう、そんなわたしのオンラインセミナーがあった。

最後、「どうもありがとうございました」と画面に向かって頭を下げ、「見ない」と決めているはずの参加者を写したディスプレイに何気なしに目を移すと、ていねいに頭を下げてくれている女性が目に入った。

あゝやってよかった・・・なんだか救われたような感覚が押し寄せてきた。

結局のところ、リアルな反応に勝るものはない。

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脱却

2021年08月12日 | オヤジの情報発信修業

 

 

インスタグラムーisobegumiーのフォロワーがやっと1,000人を超えた。

いつもよい写真おもしろい写真をアップしようと心がけてはいても、フォロワーを増やす努力や工夫はまったくしておらず、なりゆきまかせ風まかせなのだから、それについてどうこう言える資格はなにもない。そして、インスタグラムという媒体においては、その数字が鼻クソ程度のものであることも承知している。だが、1,000という数字が目に入ったときは心なしか胸がときめいた。いやはやどうも、あいも変わらずの俗物である。

さて、そのフォロワーの内訳はというと、インスタグラムをはじめたばかり、というアカウントからのフォローが多い。推測するに、インスタグラムが「おすすめ」と称してフォローする候補をリストアップするなかから選んでくれているのだろう。したがってその大半は、わたしの投稿を見ることすらしていない。そりゃそうだ。そういうわたし自体が、「これは」と感じるごく少数のアカウント以外は見ることがないのだ。推して知るべしである。そういうものなのだろう。そのことは大した問題ではない。

近ごろわたしが「なんとかせないかんな」と感じるのは、その大方が建設業者あるいは建設関連業者または建設関連マニア、つまり「業界」あるいは「業界の周辺」または「業界ファン」の人たちであることだ。

そもそもわたしが発信したいのは、「土木の現場ではたらく人」の姿である。そしてそれを伝えたい先は、「業界」あるいは「業界の周辺」または「業界に理解を示してくれている」人たちではない。いや、まったく「ない」わけではない。「こんな発信の仕方もあるんですよ」的な意味で業界構成員に対して発信することは無意味ではない。どころか、その表現方法が希少である今であれば、けっこう有意義なことなのかもしれない。だが、それはさておきである。少なくともわたしのターゲットはそこにはない。もとよりなかったし、今もない。ならば、実質的にそこ(だけ)への発信になってしまっている現状がよろしかろうはずもない。

さて、どうしたもんじゃろかのうと考える。

とはいえ、一つひとつの写真についてあれこれ考えることはあっても、そこについてはあまり真剣に考えてこなかった身である。あっさりいってよくわからない。だが、余人は知らず、「わからないからやらない」というのはわたしが選択する道ではない。わたしが採用してきたのは「わからないけどやる」もしくは「わからないからやる」という方法だったし、これからもそうありたい。

だから、よくわからないけれどとりあえず、「業界」あるいは「業界の周辺」または「業界に理解を示してくれている」人たちではない人たち、つまり「その他おおぜい」、いや、(たかだか辺境の土木屋風情がやることにそりゃチト不遜だな、言い直そう)「”外”の人」の目に触れるような方策を考え、実行していきたいと思っている。

「どこに向かって」届けるか。

「誰に」伝えたいか。

インスタグラムという土俵でどうやったらそれができるのか。

その視点からふりかえってみるとき、どれだけ多くの「内輪ウケ」をもらおうと(ぜんぜん多くもないですけど)、そこにたいした意味はないし、数字というものの捉え方も、自ずからちがうものとなる。10人の身内よりひとりの他人、1000人の業界人より100人の一般人。これからは、あらためてそこに価値をおいていきたいと思っている。

 

なんて啖呵をきってはみたものの、孤立無援の大海原で途方にくれる辺境の土木屋63歳と7ヶ月。あいかわらずの理念先行クチだけ番長。はてさて、どうなることやら。

 

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再スタート

2021年07月21日 | オヤジの情報発信修業

このブログをはじめたのは2008年の6月末だから、数えて13年と1ヶ月。

なのに「12年」と書いてしまったきのう(今朝訂正したので残念ながら痕跡は残っておりません)。

21マイナス8イコール13という小学校2年生ぐらいで教わりそうな引き算ができないのだからこれはもうナニヲカイワンヤ、ナンモイエネエ。いやはや歳はとりたくないものだとアタマを掻き、そりゃ加齢のせいじゃなくて元からだろうよ、と言われそうな気がしてまたアタマを掻く朝、かねてより考えていたことを実行に移した。

Twitter(https://twitter.com/isobegumi)の復活である。

 

 

 

 

ネタとしては「現場情報ブログ」のリンクとInstagram-@isobegumi に投稿している現場ではたらく人たちの写真、そして、わたしの個人アカウントInstagram-@yasuhitomiyautiに随時アップロードしている「モネの庭」の写真という三本立てでいってみようと思っている。

キッカケはきのう書いたように、現場情報ブログ『(有)礒部組現場情報~土木のしごと』が堅調なアクセス数を維持しているからだ。

そして、わたしが手持ちとするそれらのコンテンツも、昔と比べるとちょっとはマシになっているはずだし、その数も増えている。

それらが少しでも多くの人の目にふれるためには・・やはりTwitterの拡散力は無視できないものがある(個人的にはキライですが)。

とはいえ放置アカウントの再スタートだもの、そうそうすんなりと事が運ぶはずもないし、ただただリンクを垂れ流しているだけでよいというものでもないだろう。だがとりあえずは「やってみる」。リンクの貼り付けとシェアをするだけならば簡単だが、それでは「やってみる」ことにはならない。ほんの少しずつでも手間ひまをかけて「やってみる」。

最初はほとんど反応がないだろうし、つづけてはみたものの結果は捗々しくなかった、ということも大いに考えられる。というか、枕を並べて討ち死にの可能性は低くない。

そんなこんなやあれやこれやを考えつつ、Twitter(https://twitter.com/isobegumi)復活。

あしたはあしたの風が吹く。

 

 

 

 

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ブログを書く日々

2021年07月20日 | オヤジの情報発信修業

 

「ミヤウチさんのブログめっちゃおもしろい、ってダンナが言ってました」

という彼女は長女より一歳年上。ガキのころからの顔見知りだ。

だがそれにしても、本当に「おもしろい」か?

訝しげな顔を向け

「現場情報?」

と問いかけると

「そうですそうです。現場のブログ」

返答を聞き納得。

そりゃそうだ。

このブログを「おもしろい」と感じる人がいたとしたら、よほどの変わり者である。

「ありがとう、って伝えちょって」

言いながら、もちろんわるい気はしない。

 

じつは当ブログ、今年に入りアクセスダウンが半端ではない。

全盛期はコンスタントに1日800以上の人が訪れてくれていたのが、今では3分の1近くに落ちこんでしまい、低値安定のまま数ヶ月が経った。アクセス数が目的でやっているわけではないが、それはそれでひとつの指標ではある。あまり気分がよいものではない。

一方、現場情報ブログの方は毎日500人ほどのアクセスがあり、かつてを思えば上出来も上出来。こちらはヤル気に満ちた今日このごろである。

この逆転現象はどうしたことだろうか。

と思うココロがそもそもおかしい。

なんとなれば、コチラもわたしなら、アチラもわたし。同じわたしの作品なのだから、張り合う相手など最初からいないのである。

思うに、かける労力の差がそういう考えを生むのだろう。

読む人はそれほどには感じていないかもしれないが、アチラが鼻歌まじりなのに対し、コチラは、なけなしの知能をフル動員し、苦しみ呻きながら書くことも稀ではない。となればコチラがメインでアチラがサブ、という扱いになるのは心情的にはやむを得ないところだ。

別の側面から見ると、アチラは「(会社の)広報」であり「(公共土木という仕事の)情報発信」。つまり、れっきとした「仕事」であるのに対し、コチラはいわば「(シロートの)手なぐさみ」。なくなったらなくなったで残念に思ってくれる人はいるだろうが、それで誰かが困るかといえば、困る人など誰もいない。であれば、アチラが主でコチラが脇、というのが会社人としては正しい扱いだろう。

 

と、つらつらと書いてきた手を止め、首をひねった。

これはどうでもよいことなのではなかろうか?

いやはやまったく、考えずともすぐわかるようなたったこれだけの結論をひねりだすのに、これほどの字数を要するとは。

ヤキがまわった?

いやいや元とさほどの変わりはない。

こんな調子でつづけて13年とひと月。

まだまだつづけます(たぶん)。

 

 

 

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修業はつづく

2021年07月12日 | オヤジの情報発信修業

調子の波に浮きつ沈みつ、ときには溺れかけてあっぷあっぷしながらも、インスタグラムという海原を泳ぎつづけてはや2年半が経った。

そんなInstgrum-isobegumiにお褒めの言葉をいただいたのは先日のこと。久々である。

直接ではない。間接的ではあるものの、どこのどなたがそうおっしゃっていたと特定の人物を名指して伝えてくれたのだから、嘘偽りではないだろう。

いわく

「あれ、本当にいいの。どうやったらあんな写真が撮れるのかしら」

ありがたいことこのうえない。

元気百倍である。

その言葉ひとつで、半年分ほどのエネルギーはいただいた。

ということは、少なくとも今年末まではつづけることができる(たぶん)。

繰り返す。まことにもってありがたい。

 

その礒部組インスタグラム。あいかわらずコメントがあまりない。

ココにせよ現場情報ブログにせよ、わたしが主体となって行うWebでの情報発信に、コメントというやつは無いに等しいほど少ない。といっても、十数年もつづけていればそんなものなのだと思っており、そこにそれほどの残念も無念もない。だが、反応がない情報発信をつづけていくうちにはときとして、棒っ切れひとつで大海原をただようような気分につつまれることがないではない。

かといって、コメントがまったくないかといえば、そのようなこともない。

特にインスタグラムのそれは、他の2つに比べ、所詮五十歩百歩、どんぐりの背比べであるにはせよ、その数は格段に多い。そして、海外とおぼしき方面からそれがやってくることもボチボチある。

特徴的なのは、海外からにせよ国内からにせよ、そのコメントの大半が絵文字であるということだ。

笑顔、ハート、拍手・・・

なかでももっとも多いのがハート系である。

文字はめったにない。

さてせっかくいただいた貴重なコメントだものどうやって返そうか、毎度そう考えて腕組みするが、絵文字には絵文字、こちらも同様に、文字で返すことはめったにしなくなった。

いやはやどうも、いい歳をしたおじさんがハートマークで返信するなどと・・・本当にこれでよいのか?という疑念が湧きあがらないわけでもない。

だが、「慣れる」というのはおそろしいもので、近ごろでは、使いはじめのころのような戸惑いがだんだんと薄れてきたのも事実である。

すると、よくしたもので、ハート系の絵文字に対する拒否反応がなくなってきた。

そういえば以前、某SNS上のやり取りのなか、ある妙齢の女性がハートマークを文末につけてきたのにドキッとしたのを娘に話すと、「あれは見栄えがいいからね。別になんの意味もないから」と笑われたことがあった。

だから、ほんの少しの躊躇がフリックする指の動きを止めたときには、こう言い聞かせることにしている。

「ミバエナノダヨ」

 

くれぐれも、深く考えてはいけない。

とは言いつつも・・・ではあるが、ソレはソレ。

ことほど左様、オヤジの情報発信修業に終わりはない。

 

 

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