答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

あんどぅりどぅ

2024年12月11日 | ちょっと考えたこと
「あゝ元へは戻せないんだよなぁ」

スマートフォンやタブレットを使っていると毎日のように思う。
長いあいだPCを日常的に使うなかで、アンドゥ(元へ戻す)とリドゥ(やり直す)が至極当たり前のこととして脳内に染みついてしまったぼくには、それができないことに対しての違和感がハンパない。
それが紙ならば、はなから期待をしていないので、文字を消したり書き直したりすることに違和感はないのだが、やはりもどかしさは残る。

「あゝ元へ戻すことができたらいいのになぁ」
いやはや困ったものだ。

あえて言うまでもないが、現実世界にはアンドゥもリドゥもない。吐いた言葉は取り消せないし、実行済みの行動はやり直すことはできても、なかったことにすることはできない。

「生きる」ということは不可逆だ。不可逆を連続して生きているのが人間だとも言える。それゆえに選択や判断がむずかしいものとなるのだし、失敗を恐れ不安感も生じる。だからこそ「生きる」というのは辛いが、その一方でおもしろくもある。したがって、すべてが元へ戻せたらよいのになというぼくの夢想が実現したところで、それはつまらないこと甚だしいものにはちがいない。

アンドゥ・リドゥの普及は、パーソナルコンピュータの一般化と軌を一にしている。一般大衆へのPCの普及においてその機能は、かなり重要な位置を占めていたのではないだろうか。
思い起こしてみてほしい。かつて、ぼくを含めた大多数の人にとって初めてのパソコンは大なり小なり不安感の対象であり、その操作は試行錯誤の連続だったはずだ。そんななかで、アンドゥ・リドゥ機能は、入力ミスや誤操作が、やり直し可能で修正できるものだという安心感をユーザーに与えた。そしてそれがパソコンの敷居を下げ、多くの人々を引き込む要因となった。というのが、少々大げさかもしれないがぼくの見立てだ。

それだけなら、便利な機能が仕事効率化に役立つというデジタル化のよい見本だ。しかし、いつしかぼくはそれに依存してしまっていたようだ。
だから毎日のように思う。

「あゝ元へは戻せないんだよなぁ」

ひょっとしたら・・
と少しばかり怖ろしい推測が脳裏に浮かんだ。
それによって、元々がスピード重視のぼくの仕事スタイルは、「元に戻すことができる」というPC上の仕事の影響を受け、いっそう拍車がかかっていったのではないか。たとえばアンドゥがない環境では、まちがいやミスを防ぐための慎重さや、元へ戻せない行動に対する覚悟が必要な場面が多くあるのに、どこかでそれを軽視する行動パターンが身についていたかもしれない。
いやいや、たかだかパソコンの一機能にそれほど多大な責任を負わせるのは、かなり大げさな推論であり、責任逃れも甚だしい。

と、ふたたび現実世界のことを思う。
現実にはアンドゥボタンもリドゥボタンも存在しない。ましてやそのショートカットキーであるCtrl+ZもCtrl+Yなどは、存在する余地もない。元へは戻せない、あるいは、やり直せないことにこそ本質があり、その現実世界の不可逆性があるからこそ、言動の一つひとつに意味が宿る。

あゝそれなのにそれなのに。いちいち事あるごとに「元へは戻せないんだよなぁ」と嘆いているぼくの、なんとだらしのないことよ。
だから言う。自分自身に対して。パソコンは捨てるな。しかし、紙をもて、ペンをとれ。脳はデジタル化へまっしぐらに向かって進んでいようと、いや、だからこそ。せめてこの身と心だけは。目指すは、デジタル化によるトランスフォーメーションならぬ、デジタルとアナログのハイブリッドによるメタモルフォーゼだ。

ということで来る2025年からは、たるんだ己に喝を入れ、身と心とを引き締めるため、およそ8年ぶりに、能率手帳を復活させようと企んでいる。そんな些細なことでは、トランスフォーメーションもメタモルフォーゼも実現しないのだけれど、とりあえず。

コメント
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