かつて(といっても、かなり昔ですが)のぼくは、たとえば部下が失敗をしたとして、それを上に報告する場合、
「ぼくの指示なので、責任はぼくにあります」
というような物言いをするひとでした。
たとえそれが自分自身が指示したものではなかったとしても、そういう筋立てを基本として事にのぞむ人間だったのです。
一見すると「よい上司」のように思えます。しかし、そうとばかりも言えません。そして今のぼくは、そういう言動を否定します。いや、上司の方法論としては完全否定するものではありませんし、ときと場合によっては効果的な方法ではあります。それを踏まえてなお今のぼくは、基本的にそれを否定します。
などと言うと、なぜ?と訝る人も多いでしょう。自分がリーダーである部署やチームのなかで起こったミスや失敗は、内々では叱責したり指導したりをするにしても、外向きにはすべて自分の責任とすることのどこがわるいのか、むしろ真っ当で褒められるべき行いではないのか、そう思うはずです。
と前置きしておいて、ぼくの考えを披瀝することとしましょう。
まず、ぼくが前提とするところを明らかにしておかなければなりません。それが完全なる内と外、すなわち、別の組織同士なら話は異なったものになります。
そう。ぼくが前提としているのは、おなじ組織のなかの話です。
そこで、部下の失敗を隠し、「自分の責任です」とのみ主張する、たとえば昔のぼくのような人間にとって、眼前で相対している「上のひと」を、「敵か味方か」どちらか一方に分けてみましょう。
いささか乱暴ですが、その場合のみに限定すれば、白黒をハッキリとさせることも可能なはずです。
敵 or 味方?どっち?
少なくともその場合においては「敵」、という表現に語弊があれば「対立するひと」です。
じつは、根本的な問題はそこ、「上と下」を二項対立関係として捉えているところにあります。
もちろん、そうさせている要因は様々あるでしょう。一概に「下」のとらえ方にのみ責を負わせるのは不公平です。そう思わせている「上」の方にこそ、より大きい比重がある場合も多いはずです。ことはそれほど単純ではありませんが、この際、「下」(立場を変えればその人もまた上司もしくはチームリーダーです、つまり「下」であり、かつ「上」である人)の思考パターンや態度に問題をしぼってみたいと思います。
たぶんそこには「失敗は隠すべきもの」という固定観念があるはずです。詳らかにするのは、隠しおおせない場合のみであって、出来得れば隠しとおす。これが多くの人にとっての初期設定です。
そして、このチームはオレの領分だからアンタにとやかく言われたくはない、という気分もあります。
もちろん、上司のそういった態度が部署やチームを団結させ、成果を生み出す要因となることも少なくありません。複数の人間をまとめるためには大切な心がまえだと言ってもよいでしょう。人は、その塊を代表して外部と闘い自分たちを守ってくれる人間をリーダーとして認めるものです。
それを承知の上で、あえてグループの外部に敵を設定するという方法を採用する人が存在します。外敵をつくることによって、内部の結束を保つというのはそれほど珍しい例ではありません。そして、その敵としての存在を、同一組織の「上」に求めるのも、よくあることではあります。
根本問題は二項対立関係としての「上と下」という捉え方です。「上下」に対立関係をもちこむ発想です。「上と下」を対立関係で捉えた枠組みです。
なぜそれが問題なのかは、自分に置き換え、立場を変えてみればかんたんにわかります。
たとえばあなたが上司や経営者だとして、部下にそれをされるとどうなるか、そのことをイメージすればよいことです。また、「上」を対立関係でしか捉えられない人間は、「下」に対してもそうなりがちです。
そこでは「上」であるあなたが欲する情報を得ることが容易ではなくなるでしょうし、あなたの「下」に位置する塊では成し得ない判断を、上司として適切にくだすことも困難になります。情報という血液が詰まったり遮断されたりしてスムーズに流れない組織に円滑なコミュニケーションが生まれるはずもありません。
ついつい、「かんたんにわかります」と書いてしまいましたが、ことはそれほど単純ではありません。「かんたんにはわからない」からこそ、「わかりあえない上と下」という関係が多いのです。自分に置き換える、また、立場を変えてみることは、それほど容易にできることではありません。
対立関係をなくすのもまた容易ではありません。不可能であると言っても差し支えないかもしれません。これまで書いてきたことを踏まえ、それを否定し、対立関係を解消するように努めることは大切ですけれど、現実はそれほど生易しくはありません。
それに、こうやってエラそうに能書きをたれているぼく自身が、その手の人間そのものでもあります。ここまで書いてきたことは、自らの内省から生まれたものでもありますし、ぼく自身に宛てて書いているとも言えるのです。
ではどうすればよいのか。
長く「三方良しの公共事業」の旗振り役を務めてきたぼくとしては、ここでも、二項対立ではなく、「三」の存在を含めた発想や枠組みを提唱したいところですが、残念ながら、それが具体的には何者を指すのかについて、解答をもち合わせてはいませんし、どうやらどこにでも誰にでも適用できる一般解があるのかどうかもわかりません。
ということで、中途半端なままですがこの稿、これにていったん締めたいと思います。いつかこの思考に進展があればまた。