![]() |
喪失の戦後史 |
平川 克美 | |
東洋経済新報社 |
・・・・・・
なぜ、成長の停滞や、格差の広がりを、問題の答えだととらえず、問題だととらえてしまうのか。
(No.2615あたり)
・・・・・・
この文章が、きのうからずっとアタマの片隅に住み着いて離れない。
もちろん、「成長の停滞」や「格差の広がり」という大きな問題がどうのこうのではない。この辺境の土木屋が考えることといえば、家族のことと会社のこと、そして太鼓のこと、範囲を広げたところで公共土木という業界のことであり、日本全体や、はたまた全世界規模のことなどは、このへっぽこアタマの思考がおよぶところではない。あくまでもそれは、「わたしとわたしの環境」についてであり、しかもそれは限定された「わたしとわたしの環境」の範囲でしかない。
では、どの部分がアタマに住み着いて離れないのか。
後段の部分だ。
つまり、
なぜ「問題の答えだととらえず、問題だととらえてしまうのか」
という問いかけが、である。
この言葉はじつに示唆に富んでいる。
今そこにある問題は、単なる「問題」ではなく「問題の答え」としてあるのかもしれない。
残念ながらこれまでのわたしは、めったにそういうアプローチから思考を展開したことがなかったような気がしてならない。そう思いはじめると、「問題の答えとしてある問題」という言葉がぐるぐるぐるぐると頭のなかを駈けめぐり、出て行こうとしなくなったのだ。考えれば考えるほど、「問題の答えとしてある問題」はそこらじゅうにゴロゴロしていることに気がつく。気がついたからといってそれは、問題解決に即つながるようなものではないだろうが、少なくとも、そう考えることから問題解決への道すじを探していくという方法は、問題解決策が現実から乖離しないためにも、選択肢のひとつとしてあったほうがよい。
そんなことなどを考えながら、モネの庭を歩く辺境の土木屋61歳と5ヶ月。
↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報
↑↑ インスタグラム ーisobegumiー