なるほどそうだよなぁ。
とアタマの片隅に引っかかったまま、「書く」という行為を通じて自分に落とし前をつけていなかった文章がある。
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舎利子のいる三階から見れば、世間レベルの二階は苦悩に満ちた世界です。二階のフロアにおいて「自己形成」とか「自己の確立」は大切な徳目ですが、それを三階から見るならば「自己の執着」にほかなりません。それがあらゆる苦悩の原因であることが、そこに至った人には、はっきりと分かるのです。でも、それは三階から見て二階を否定することではなく、ただ二階のフロアを卒業したということなのです。
階上は階下なくして存在しません。二階や三階のフロアだけしかない四階建ての建物などありえません。どの階もなくてはならず、どの階にもそれぞれの意義があります。
(『真釈 般若心経』(宮坂宥洪、角川ソフィア文庫、P.105)
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2週間ほど前に読了したこの本において展開される、般若心経を四階建て、すなわち、
一階=幼児レベルのフロア(出発地点)
二階=世間レベルのフロア(世間における自己形成のレベル)
三階=舎利子レベルのフロア(無我を知る小乗レベル)
四階=観自在菩薩レベルのフロア(空を観る大乗レベル)
屋上=仏陀の居るところ(人知を超えたレベル)
の建築物に見立てて解いていくという宮坂師の解釈が正しいのかどうか、わたしにはわからない。ただ、こんな想いがアタマの片隅でぐるぐると渦巻いてはいる。
「高み」に達したとき、下を見る。
そしてこうつぶやく。
「まったくなんてこったい」
そのつぶやきの素は、「まだそのレベルなのか」という嘆きだ。「どうしてそのレベルなのか」という疑いだ。
「高み」に達して嘆くのは、一見するとわるくないかもしれない。
しかし、「高みに達した」というレベルでその人を評価すればあきらかにわるい。
「オレはここまできたよ」
(なのにオマエたちはまだ・・)
「オレは何年も前からやってきたよ」
(なのにオマエたちはまだ・・)
すなわちそれはこう言い換えることができる。
「オレのやってきたことは正しい」
(なぜそれがわからないんだオマエたちは・・)
「だからここに立っている」
(なのにオマエたちはまだ・・)
つまりそれは、ついてきていない階下の人間が愚かなのだという断定である。
しかし、よくよく考えるとそれは自己否定である。
なぜなら、階上へ上がるためには階下というステップが必要だ。
未だ階上へ至ることができない階下の人たちを否定するということは、階下だった過去の自分を否定しているということに他ならない。
「いやいやオレはちがうぜ」
という、飛び級を実現してしまういわゆる天才系は存在するのだろう。
だとしてもそれは、階下のレベルを否定する理由にはならない。
「階上は階下なくして存在しません。二階や三階のフロアだけしかない四階建ての建物などありえません。どの階もなくてはならず、どの階にもそれぞれの意義があります。」
との宮坂師の文は、一読すると、ごくごくあたり前のことを書いているに過ぎないように感じるかもしれないが、わたしの肺腑には、ずっしりと入りこんだ。
階上に立ち階下を否定するのは易い。そして自分単独ならそれもよいのかもしれない。
しかし、独りではなにもできないのが人間ならば、それをしていても何もはじまりはしない。
アナタが、ある「高み」に達したとして、その次にするアクションがそこに到達していない者の否定では、階上にいるアナタ自体が浮かばれない。
以上、のびのびになっていた「落とし前」である。