ときおり思い起こすシーンがある。
20年ほど前のことだ。
ある現場へ行くと、「新入社員に現場でレクチャーする先輩」という光景に出会った。
すると、わたしが来たのを確認したベテラン職人さんが、わざわざわ寄ってきてこう言った。
「あいつはなかなか教え方がうまい」
その口調で何が言いたいのかをおぼろげに察したわたしは、返事をせずに次の言葉を待った。
「アンタのように怒りまくらん」
ほらほらきたきた、案の定だ。
「やさしゅう、ていねいに、教えゆうき、たいしたもんや」
最後までそれに返事をしなかったわたしのココロの内はこうだった。
「ふん、単に教えるということに責任を感じてないだけじゃないか」
わざわざ寄ってきて嫌事を言うベテランさんも、褒める対象となった「先輩」さんも、双方ひっくるめて、「責任感がない」と、そう思った。自分が怒鳴ったり叱責したりするのは教える対象のことを考えるがゆえであり、責任感をもって人を教えるということはそういうものだと信じて疑うことがなかったからだ。
時は過ぎた。
ときおり回想するそのシーンについて、今のわたしの見解はこうだ。
たしかに彼らは、わたしほどの責任感はもっていなかったにちがいないという認識は変わらない。しかし、内なる責任感と「叱って育てる」という方法論がピタリと重なるわけではない。言い換えると、「責任がある」と「叱る」というのは、常に「から」という順接でつながっているものではない。つまり、「責任がある」から「叱る」というのは論理的に成り立っているようで、「責任がない」から「叱る」や、「責任がない」のに「叱る」や、はたまた「責任がある」のに「叱る」といった、様々な場面があり得る以上、一部でしか成立しないロジックだということだ。
その、じつは成りたたないものをココロの内で成りたたせてしまったとき、責任感とともにあったはずの「教える」という行為は、どう変化していったか。「育てる」という目的のためにあった「叱る」という手段が、目的から乖離し、思うようにならないから「腹が立つ」という感情の増幅とともに、そこだけがいつのまにか独り歩きをはじめてしまい、、、
いやはやどうも、思いだすだに悪い汗がじとっと染みだしてきてしまう。
しかし、昔のことだと捨て置くわけにはいかない。
そもそも、20年という時が経過した今でもときおり思いだすのは、たぶん、あのときすでに、「ひょっとしたらちがうのではないか?」という意識の萌芽があったからであり、未だになお、「ちがう」と気づいたそのことを克服しきれていない自分が在るからだろう。
あゝ・・
あいもかわらず手間ひまがかかるオヤジだが、嘆息していてもしかたない。
いつになってもいくつが来ても、「今日までそしてあしたからも」の繰り返しからでしかないのだもの。
ぼちぼちゆこう。