消えゆく霧のごとく(クンちゃん山荘ほっちゃれ日記)   ほっちゃれ、とは、ほっちゃれ!

きらきら輝く相模湾。はるか東には房総半島の黒い連なり。同じようでいて、毎日変わる景色。きょうも穏やかな日でありますよう。

第2回仙台短編文学賞落選作 『合流点』 izukun ④

2019年08月14日 10時12分24秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと

合流点 ④  izukun

      

 勢津子のおかげで本を出すことができた。これで俺のやるべきことはすべてやり終えた、と思った。もし、あの世で義父(おやじ)に出会っても物陰に隠れないで済む、と安堵した。

 ところが、そのうちに「本を買って読んでくれる読者は限られているぞ。ダイジェスト版を印刷して配れば、みんなに冤罪を知ってもらえるじゃないか」という内なる声が湧き起こってきた。一方で、「もうかなりの年齢になったじゃないか。そろそろ打ち上げの頃合じゃないのか? 少しゆっくりしなよ」そういうささやきも聞こえてくる。

 どうしたものか、いろいろ考えた末、結局、身体が許す限り、ビラ撒きをしていく、という結論に至った。勢津子は、あなたはお母さんとほんとによく似てる、とつぶやいた。

 そんな忙しない日々が過ぎていくうちに、あの大地震がやって来た。

 寒々としたあの日、俺は太白区の自宅にいて事なきを得たが、勢津子は若林区内の顧客宅に出かけていた。

      

 その夜、勢津子は帰らなかった。

 携帯も固定電話もつながらない。停電で生活ツールはなにもかも使えなくなった。あちこちの暗い路上に集まって話し合う人たちの声は聞こえたが、ラジオと伝聞しか情報源がなかった。確実な話は何も伝わってこない。ただ切れ切れの情報が乱れ飛んでくるだけだった。

 地震の後に大きな津波が何度も来て、若林区などの海に近いエリアは壊滅状態だという。歩いて避難して来た人に聞いたという情報だった。伝聞の伝聞なんていう話も、珍しくなかったのだ。恐ろしい余震が続いていて、その度に生きた心地がしなかった。

 俺は夜通し起きて待っていたが、白々と夜が明けても勢津子は戻ってこない。生きているのか、亡くなってしまったのか。俺は彼女の死を覚悟せざるを得なかった。

 きょうはなんとしても捜しに出かけなければならない。しかし、被災エリアには近づけないらしい。足の不自由な俺だが、歩いていくしかない。行ける所まで行ってみようと思った。

 いよいよ出かけようとしていると、玄関のドアが開く音がした。そーっと覗くと、勢津子が上がり框に座り込んでいる。

 生きて帰って来た! 

 俺は自分の目を疑った。髪は乱れ、顔は蒼白、唇は濃い紫。生乾きの服に、片足ずつ別々の拾った靴。よれよれの状態とは、このときの勢津子だと思った。津波に襲われたが、九死に一生を得たのだ。明け方から歩き続けてきたと涙声で話す。車もバッグも持ち物も全部失ったが、命だけは助かった。なんの文句があろうか。

 勢津子はよろよろと立ち上がると、本棚から俺の本を抜き取り、憑かれたようにページをめくった。そして、由太郎と大恩人の秋田刑務所元看守・江藤正毅のふたりが写った写真を食い入るように見て、大きなため息をついた。俺にはまったく不可解な所作に思えた。


 震災後一年が過ぎ、俺はビラ配布を再開した。

 そのころ、不思議なことに気がついた。在庫ビラの減り具合がおかしい。減り方が早い。

 勢津子が配っているのだろうか。いや、そんなはずはない。勢津子がビラ撒きを嫌っていることは、口に出さずとも俺にはよくわかっていた。だから、手伝ってくれと頼んだことはない。では、早いところ俺のビラ撒きを終わらせようとして、捨てているのか?

 また、勢津子は勤務の都合で週日が休みになることがあるのだが、そんな日に限って朝方の二、三時間、家を空けるようになったのも気になった。以前にはなかったことだ。

 ある振り替え休日、それは月曜日の朝だった。思っていたとおり、「ちょっと出てくるわよ」と勢津子は車で出かけた。俺も車に飛び乗って後を追った。彼女の軽乗用車は裁判所前の有料駐車場に入った。俺は車の中から成り行きを見つめていた。勢津子は車を降りた。ビラの束を抱えている。目の前の通りを渡ると、裁判所の門前でビラを配り始めた。

 びっくりした俺は五、六分の間、呆然と勢津子の姿を眺めていた。そして、彼女のところまで歩いて行って、ビラを一枚受け取った。「あら、ばれちゃったわね」勢津子は片目をつぶってそう言うと、小脇に抱えていたビラの半分を俺に差し出した。

      ♡

 震災の日、私はどうしても外せない用向きがあって、若林区荒浜の顧客を訪ねたのです。

 大きな揺れの次には津波が来る、それは十分わかっていました。一刻も早く逃げようと思うのですが、乗り捨てられた車がたくさんあって動きが取れません。もたもたしているうちに、あっという間に水が来て、車はみんなぷかぷか浮き始めました。

 私の車も流されるままに、学校のような大きな建物の陰に押し込まれたのです。次から次へと際限もなく車や金属製の物置、雑多な漂流物が打ち寄せられて来ます。押し合いへし合い、重なり合い、折箱にぎっしり詰め込まれた稲荷寿司か満員電車かというようなひどさでした。

 建物の中には人がいましたが、水が邪魔をして行き来ができません。私は自分の車の屋根に座り、足をボンネットに乗せていました。電気配線がショートしたのか、多くの車の盗難防止ブザーが勝手に鳴り続けています。やがて日が暮れて、五〇メートルほど離れた場所から火の手が上がりました。漏れ出たガソリンに何かの加減で引火したのでしょう。

 私は、多分ここで死ぬだろう、と腹をくくりました。悲しくはないけれど、身近な人を思いました。「うちの娘(こ)たちは大丈夫かしら」「誠一やお母さんはどうしてるかなあ」

 ふと見ると、車の横に年配の男の人がいます。お腹の上あたりまで水に浸かっているのですが、ニコニコ笑っています。確かに知っている人なのですが、誰だかわかりません。

「こっちへ下りてきな。水はそんなに深くないよ。手を出しなさい」

 その人は私を抱き取って水に下ろし、車の残骸のすき間を建物のほうへ泳ぐように導いてくれたのです。建物から人が何人か出て来て、びしょ濡れの私を引き入れてくれました。

 振り返ると、もうその人の姿はありません。「勢津子さん、本をありがとな。スミと誠一を頼んだよ。元気で暮らしなさい」

 闇の中から、力強い響きだけが伝わってきました。

 一度も会ったことはないのに、私にはその人が由太郎なのだとはっきりわかりました。

 このことは誠一にも誰にも話していません。到底、信じてもらえそうもありませんから。

 ただ、確かなのは、死と隣り合わせに過ごしたあの夜、由太郎・スミ・誠一の大きな川に、私もまた合流したということです。あの場所が合流点になったのです。 了 

 (原文縦書き、添付画像はfrom free、本文とは関係ありません。オリジナルには添付なし。 )               


第2回仙台短編文学賞落選作 『合流点』 izukun ③

2019年08月13日 20時08分47秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと

合流点 ③  izukun

      ♥

 俺と勢津子、そして母スミの三人暮らしは二十年近く続いた。その間には、どこの家庭でも起こり得るさまざまな問題が生じた。その大きなもののひとつは、俺が交通事故による後遺症で右足がかなり不自由になってしまったことだ。まともに働けなくなってしまった。それ以後、というよりはそれ以前も含めてだが、勢津子は生命保険の仕事で、ずっと家計を支え続けてくれた。彼女に不満がないはずはないが、それを一切口にせず、いつも明るく振る舞ってくれるのが大きな助けだった。

 母は持病の腰痛には悩まされたが、持ち前の強い精神力で冤罪被害者の家族らと連絡を取り合うなどの活動を続けた。由太郎の再審にも変わらぬ意欲で取り組み続けた。しかし、徐々にではあったが、心身ともに衰えていき、さすがに九十歳代半ばにさしかかると家庭での介護が困難となっていった。

 それまでに俺と母は、支援団体もなく、弁護士に依頼する金銭的余裕もないまま、自分たちだけで東京高等裁判所宛に再審請求を繰り返した。それは昭和の終わりから平成二十年までに計八回に及び、すべて由太郎の配偶者である母名義の請求だった。

 しかし、残念ながらすべて門前払いとなった。もともと確実な証拠なしに有罪としたゆえに冤罪云々という問題が起きるのだが、再審開始には無実の人間の側から新たな証拠を出さなければならない。濡れ衣を着せられた側に言わせれば、こんなに人を馬鹿にした制度はないのだ。

 高齢の母の状態を客観的に見ると、再審請求はもはやここまで、という結論に甘んじるほかはなかった。法律的に由太郎と親子関係にない俺には再審請求権がなかった。

 由太郎が死ぬ間際、その手を取って、「必ず汚名を雪(そそ)ぐ」と語りかけた俺と母。その約束をまだ果たしていない。そんな思いが、返していない借金のように、いつも心の隅にわだかまっていた。残されている手段はもう何もない、その確定的な結論が目の前をちらつき、あたかも強迫神経症のように俺を苦しめるようになっていた。

 そんな折、平成二十年(二〇〇八)の春だったが、地元のテレビで、自分の父母や兄弟姉妹のことを本にまとめた人が紹介されていた。その番組を見ているうちに、俺は気がついた。由太郎の事件を本にすれば、彼が無実だという記念(モニュメント)を世間に残すことができる。

 早速、原稿用紙というものを買ってきて、あのこと、このこと、さまざまに思い出しながら、少しずつ書き溜めていった。ところが、一筋縄ではいかない。なにしろ〝作文〟は子どものころから苦手中の苦手だ。勢津子に読んでもらって感想を聞こうとしたら、机の上に置いてあった原稿を既に読んでいたらしく、即座に厳しい指摘が返ってきた。

「あなたの原稿を読んで、書いてあることが理解できる人はあなたと私とお母さんだけよ! 原稿読む前に事実をよーく知ってますからね。こりゃだめだわ、書き直しね」

 悪戦苦闘の末、三か月以上かかって一応最後まで書き上げた。

 だが、それから先がまた大変だった。地元仙台の出版社をはじめ、上京の折に都内の出版社を何軒も訪ね歩いたが、どこも本にしてくれると言ってくれない。ちらっと原稿を見て、同じことを言う。

「興味深いテーマだと思いますが、うちよりよその版元を当たったほうがいいでしょう」

 結局、著者が出版費用を負担するタイプの出版社以外には色よい返事をもらえなかった。そのうちの一社に見積もりを送ってもらったが、手が届かない金額で、あきらめざるを得なかった。いささかがっかりして、勢津子にも出版は取りやめたと伝えておいた。

 ところが、二、三週間の後、その版元の編集者から電話が入った。法律系の専門部署にいるという無愛想な男だった。用件は、預かっている原稿の細部について聴き取りをしたい、とのことだ。はてな、俺の原稿はとっくに送り返してもらい、お蔵入りしているが…。

 なんのことかよくわからないうちに、その編集者は東京からやって来た。細かい記述についてあれこれしつこく質問を繰り返す。そして、答えをせっせと原稿のコピーに赤く書き込んでいく。俺はまったく心あたりがない成り行きに、不安に包まれた。

 途中で質問をさえぎり、恐る恐るこちらの疑問をぶつけてみた。彼のほうも驚いて、「はあっ?」と絶句したが、勢津子がお金を払って出版契約を結んだ経緯を呆れ顔で説明してくれた。まったく寝耳に水の話だ。そんなお金をどこで都合したのだろうか。

 その夜、疲れた様子で帰宅した勢津子に事情を尋ねた。しかし、なるべく穏やかに「ありがとう」から始めるべきなのに、脈絡もなく契約金の出所から問いかけてしまった。彼女は叱責されるのかと勘違いしたらしい。ぼそっと、「ああ、その件ね」と小声で言いながら、着替えのためにそそくさと二階への階段を上がりかけた。その途中で思い直したのか、いぶかしげに見上げる俺にニコッと笑いかけた。初めて会った日のような笑顔だった。

「お金はね、タワービルから飛び降りたつもりで私が払いました。出したい本は出せばいいわよ! お母さんが生きているうちにね! 由太郎さんもきっと喜ぶわ!」

     ♡

 待ちに待った誠一の本は、平成二十一年の年明けに刊行され、仙台市内の本屋にも並びました。彼が、無愛想なやつだと言っていた編集者は意外にも親切で丁寧、きちんとした仕上がりの本になっていました。誠一の喜びはひとしお、私もまるで我が事のようにうれしかったです。言いたいことは全部書いてありました。ふたりの老後のために私がこつこつ蓄えていた預金は本に化けましたが、何も悔いはありません。

 仏前に報告する一方、介護施設に入っている九十九歳のスミに本の内容を読み聞かせるため、誠一は何度もその枕元に出かけていきました。スミは少し話がわかったとみえ、顔に表情が戻り、胸元に置かれた自分用の本を何度も撫でていたそうです。

 本が出版されたことで、誠一の由太郎に関する活動は完結したと私は思っていました。

 ところが、ところがです。春先になると、誠一は今度は本のあらすじ、つまり事件のあらましを書いたビラを大量に作り、東京霞ヶ関の東京地裁・高裁前をはじめ、可能な限り全国の裁判所前で撒くと言い出したのです。どうやら十万枚も印刷したようです。いったんこうと決めたら、スミと同様、何を言っても聞く耳を持たない人です。

 そうこうしているうちに、自分のボックス型軽トラックに布団や簡単な炊事道具を積み込んで、東京へ向かいました。七十歳に手が届く年齢、しかも足が不自由。私の心配などお構いなしに出かけて行ってしまったのです。

 半月ほどが過ぎ、帰ってきた誠一の話にまた驚かせられました。

 駐車料金が要らず、駐停車禁止に指定されていない場所を捜したら、東京港の埠頭ぐらいしかなかった。そこで、晴海埠頭の一画に軽トラを停め、仮泊しては裁判所前に通った、というのです。警視庁のパトカーが夜中にパトロールで回って来て何回も職務質問されたが、そのうちの何人かの警官とは顔見知りになってしまったなどと笑ってもいました。

 仙台でも、地裁・高裁前や市内の目抜き通りで、誠一は盛んにビラを撒きました。街頭でのビラ撒きというのは、なかなか大変なようです。無視する人がほとんどで、受け取ってくれる人はとても少ない。いったん手に取ってくれても、すぐに丸めて投げ捨てられる。その塵芥と化したビラを拾い歩くのは悲しいということでした。

 私はこのビラ撒きというのだけは嫌でした。性にあわないというか、とにかくやりたくないので、一度も手伝ったことはないのです。誠一も、自分が勝手に始めたこともあってか、一緒にビラを配布してくれとは一度も言いませんでした。

      

(つづく、原文縦書き、添付画像はfrom free、 本文とは関係ありません。オリジナルには添付なし。)

                                                                  

 

 


第2回仙台短編文学賞落選作 『合流点』 izukun ②

2019年08月13日 00時10分17秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと

合流点 ②  izukun 

     ♥

  母が腰を痛めた時期、山際勢津子は川平(かわだいら)の自宅に母を見舞ってくれた。それも三回も来てくれたのだ。当時、俺の交代制勤務の都合で、母とはすれ違いのような生活になっていた。そのうえ、母を訪れる人など稀だったので、母は、とても励まされた、うれしかったと喜んでいた。一度は俺が家にいるときに来てくれたが、気が回る優しい人だと思った。

 その後、俺は「見舞いのお礼がてら」という名目で、仙台駅近くに彼女を呼び出し、ランチを一緒にした。そのとき、「旦那に叱られちゃうかな」と水を向けると、「私はいま、フリーよ」とシングルマザーであることを明かした。バツイチ同士の気楽さもあって、何回か会い、食事をしたり軽く呑んだり、若い人たちのデートの真似事のようなことをした。 

  彼女は、折々の思いを自己流の俳句や歌に託すのが趣味と言えば趣味だと笑った。結社に属すのは嫌いだという。それで、ついつい俺も短歌を少しやるなどと、いい加減なことを言ってしまった。

 こちらの家庭の事情や由太郎の事件のことは母がその相当部分を話していたようで、妙に隠し立てをしないで済むのが何よりも有り難かった。やがて恋人というような間柄になった後も、由太郎の事件のことは勢津子には滅多に話さなかった。彼女にはまったく関わりがないことだし、嫌がられるかも知れないと思ったからだ。しかし、かなり詳しく知っているようだった。

 ある梅雨寒の夜、国分町近くの洋風居酒屋で待ち合わせた。彼女は長めのグレーのスカートにオフホワイトのカーディガンを羽織ってあらわれた。軽く呑んでいるうちに、唐突に由太郎と俺の関係を口にしたので、ちょっと驚いた。

      

「由太郎さんはお母さんと結婚したけど、誠一さんとは親子縁組しなかったのよね?」

「ああ、そうだよ。義父(おやじ)はさ、仮釈放で選挙権もないような自分と同じ戸籍に入っちゃいかん、そう言い張って縁組をしなかった。だから姓は同じ伊藤でも、法律上は他人のままだったということになるんだ」

「ふーん、そうなの。…選挙の投票にも行けなかったんだ…」

「無期懲役の仮釈放だからな、死ぬまで刑期が終わらないってことなんだよ」

「いつまで経っても濡れ衣を脱ぎ捨てられないってことなの?」

「そういうわけだ。恩赦という、こっちも狭い門があるにはあるけど、それは罪を認めることが前提になる。義父は冤罪なんだから、それは絶対できっこなかったんだ」

「うーん、そうだよねえ。…それで…ひとつ聞いていいかしら? いつも不思議に思っていることがあるのよ。昔、お母さんの再婚に反対して、由太郎さんのこともあまり好きじゃなかったはずのあなたが、彼の無念を晴らそうとお母さんと同じように頑張っている。なぜそうなるのか? そこが私にはわからないのよ」

 俺は腕組みをしたまま、しばらく天井を眺めていた。何から話したらいいのだろうか。

「それはさ、俺がとんでもない間違いをしてしまったことに気がついたからなんだ。昔の裁判はまず予審というやつがあって、それから青森の地方裁判所、仙台の宮城控訴院、いまの高等裁判所だよな、そして大審院、いまは最高裁ね、そんなふうに何回も裁判を受けるんだ」

「裁判に間違いがないようにってことなんでしょ?」

「まあ、そういうことだな。それで、結局、義父は有罪になっちまった。だから、人を殺したっていうのは、本当のことなんだって俺は誤解しちゃったんだよ。いくらなんでも、やってもいない人間を犯人にしてしまうなんてことはあり得ないと思ってね」

 そう話し始めて、俺は心の中の引き出しから、とてつもなく苦い記憶を引っ張り出そうとしている自分に気づいた。一瞬、躊躇(ちゅうちょ)したが、彼女の白いブラウスに付いている小さな花模様の刺繍に視線を下げて、話を続けた。

   *

 由太郎と俺たち母子が一緒に住むようになってからというもの、俺は毎日毎日、むしゃくしゃした気持ちでいた。まだ、たかだか中三の俺は、この男さえいなければ元の平穏な暮らしに戻れる、そんな安直なことをいつも考えていた。

 俺は思いつめていた。ある日、気がついた時には、台所の包丁立てからその一本を手に取り、両手で構えていた。そのまま裸足で外に出る。庭の隅にスコップで塵芥(ごみ)捨て場の穴を掘っていた由太郎の背中に近づいていく。異様な気配を感じたのか、振り向いた彼は、息を呑んで顔色を失った。

 偉丈夫で、スコップを手にしている彼が反撃に出れば、中学生の俺なんかひとたまりもない。だが、彼はスコップを脇に投げ出し、無言のまま俺に向かってひれ伏した。顔を上げては俺を拝み、またひれ伏す。何回も何回もそれを繰り返した。身体全体が小刻みに震えている。必死の形相で見上げる目は涙でうるみ、悲しみに満ちていた。

 ぬかるみの地べたに伏す由太郎、それを見た瞬間、俺は彼の無実を信じた。この人には人殺しなどできっこない、と確信した。俺は包丁を投げ捨て、膝を折って泣き叫んだ。おずおずと右手を差し出すと、強い力で握り返された。心の底から後悔した。

「ひどいことをしてしまった。ごめんなさい」「真犯人だろうと疑ったことを謝ります」

 このときの思いがずっと絶えることなく生き続け、母とともに由太郎の無念を晴らすことが、俺の人生の目的のひとつになった。

 それ以来、俺はこの顚末を誰にも話すことはなかった。母が由太郎から聞いたのかどうかも知らない。由太郎と俺の会話にも、彼が死ぬまで一度たりとも出てこなかった。

 しかし、俺の心にはいまでもこの日の情景が色あせずに残っている。時にその映像が立ちあらわれて、俺を苛(さいな)む。俺は駆り立てられるように、がむしゃらに行動した。

 高名な裁判官に成り上がったかつての予審判事と談判し、その謝罪を獲得した。真犯人と対決し、自らの犯行である旨の告白を引き出すこともできた。しかし、それらのやりとりが確かに存在したことを客観的に証明付けられなかった。時は過ぎ去っていった。

  *

 勢津子は空のコップを右手に持ったまま、目をつぶって俺の話を聞いていた。彼女の目から何度か涙がすーっとこぼれ落ち、俺はその度にあらぬほうへ視線を移した。話が尽きても、ふたりはしばらく押し黙ったままでいた。

      ♡

 母親と結婚し新しい家族となった由太郎に、包丁を構えて向かっていった中三の誠一、そのときの暗い気持ちを推し量ると、私もひどく沈痛な思いにとらわれました。まだ思春期にさしかかったばかりの誠一を覆い尽くした辛さ、悲しさ、やりきれなさはいかばかりだったろうか。さらに思いは広がっていき、私と誠一の関係について、私の娘たちがどう受け止めてくれるのかが気になって仕方がありませんでした。

 でも、それ以上に強い衝撃を受けたのは、この事があった後、誠一の由太郎への気持ちが大きく変化したことでした。まったく百八十度の転換です。ただただ驚いてしまいました。

 感激したとか感動したという種類の感情ではなく、呆然として言葉を失ってしまったというほうが当たっています。親子は別かも知れませんが、例え近い血縁であったとしても、これだけ他者に寄り添うことは難しいでしょう。ましてや、誠一と由太郎は親子縁組さえしていないのです。私には、スミと誠一の母子が何かとても不思議な存在、手が届かない遠い所にいる人たちに思えたのです。

 このまま誠一とお付き合いを続けても、彼やスミのように由太郎の問題と濃密に関わることはできないだろう。表面はともかく、心の奥では単なる傍観者の域を超えることは難しいのではないだろうか。そんなふうに思えてなりません。これ以上彼と会うことはお互いを傷つけるだけではないか、そう考えるようになっていきました。私は意識的に誠一と距離を取るように自分を仕向けていったのです。

 誠一は何度も連絡をくれました。とにかくもう一度会って話を聞いてくれとのことでした。ある晩、これが最後と思って会いました。

 そのとき彼は、自分とスミは事件を背負っていくしかないが、私には関係がない、と断言しました。しかし、同じ屋根の下に住む以上、そんなわけにはいかない。悲しいけれど、もう会うことはないだろうと思いました。

 そんな吹っ切れない悩みを抱えたまま、時が過ぎていきました。

 ある夕刻、勤めから帰ると、ポストに誠一からの葉書が一枚、ぽつりと入っていました。短歌が一首、二行に分けて書いてあるだけでした。

   待ちわびし時はたちまち過ぎゆきて

             待ちわびる日のはじまりとなる 

 私には誠一の気持ちが痛いほど伝わってきました。私も同じ気持ちで、辛い日々を過ごしていたからです。偶然としか思えなかった誠一との出会いは、必然だったのではないか。彼を失えば、ふたたび私の心に灯がともることはないと思えたのです。

 数日後、私も葉書に歌を一首だけ、一行に書いて投函しました。いつかふたりで遊びに行った閖上浜(ゆりあげはま)の海を思い出しながら詠んだ歌です。

   空のあお海のあおとがいりまじる  彼方に行かむ妹背のごとく

 こうして、私と誠一は、娘たちが巣立った後、一緒に住むことになりました。        

 八十歳、傘寿(さんじゅ)を迎えたスミは、諸手を挙げて私たちの結婚に賛成してくれました。彼女の笑顔が本当にうれしかったです。

(つづく、原文縦書き、添付画像はfrom free、本文内容とは関係ありません。オリジナル原稿には添付なし。 )

 


第2回仙台短編文学賞落選作 『合流点』 izukun ①

2019年08月12日 16時01分32秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと

 きょうの東伊豆はほぼ2週間ぶりに、昼過ぎまででしたが陽ざしがなく、にわか雨も降りました。気温も24度から28度程度で、ほんとに一息つきました。

 うちのニャも板の間から、籠のねぐらに入って、爆睡でした!          

 ただし! いま、午後2時段階ではまたまた暑くなる気配です。室温29度。

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 ところで、「コト殺人事件、義父の汚名を雪がん!」というおらの過去記事の中に次のような記述があります。

 https://blog.goo.ne.jp/izu92free44/c/27c4cb7438fffe4bac1f871fcd814e74 

【9年も前になるでしょうか、坂本さんの著書を出した後、おらは得意のいい加減さで「そのうち、コト殺人事件がらみの小説を書いて、世論に訴える」と坂本さんに約束したのでした。その後、『魔切(まきり)』というタイトルの小説を一応書き上げたものの、そのままになっていました。「魔切」は、犯行に使われたことになっている、未発見の刃物の名称です云々】

で、昨年10月の某公募コンペの送信締め切り時刻20分前の午後11時40分に、10年近く寝ていた原稿は改訂版『魔切』として脱稿しましたが、添付すべき住所やら経歴といった個人情報を入力しているうちにアウトとなりました。これは、今後、また手入れをして、今年はなんとか送信したいと思っています。

しかし、そうしているうちにもおらにも坂本さんにも“諸般の事情”というやつが来ないとも限らないので、前述の坂本さんとの約束が果たせなくなるという事態をおらは恐れたのです。

そこで、目に付いたのが仙台短編文学賞という創設2年目の文学賞でした。

『魔切』とは別に、坂本ご夫妻をモチーフにした短編を書いてみようと考えたのです。もちろん入選するつもりですよ!(エラいねえ!)

というわけで、仙台短編文学賞に応募して、見事落選したのが、この小説『合流点』です。

坂本さんとの約束を果たすには、小説を書くだけではなく、公開しなければなりません

落選作品にて、他者の手で公開してもらえないからには、まことに恥ずかしながら、自分で公開するしかない。これこそが、当ブログに『合流点を』掲載する所以であります。

お暇な向きもお忙しいお方も、ご一読くだされば幸いです。

なお、本作は一部に実際の出来事をちりばめておりますが、実録ではなく、あくまで創作であります。

 

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 合流点 ①  izukun

     ♡

  今となっては三十年以上も昔、昭和六十一年(一九八六)のことです。

  九月も半ばを過ぎたというのに、真夏のような陽ざしが照りつける朝でした。契約更新のため顧客の事務所へ向かおうとしていた私は、路上で突然気分が悪くなり、ビルの陰にしゃがみこんでしまいました。

  仙台一の繁華街、青葉通りの一番丁交差点を北から南へ渡りきったところでした。いまはサンモールのつなぎ目になっているところです。前の夜、立て込んでいた仕事に追われ、ほとんど寝ずに処理したので、とても疲れていました。

  同じビル陰のすぐ横に相当年配のおばあさんがいて、私に気づくと、腰掛けていた椅子から立ち上がって声をかけてくれました。通りがかりに、ここでよく見かける方です。

「大丈夫かい? じっとしていなさい、救急車を呼ぶかい?」

「いいえ、ちょっと休めば落ち着くと思いますから。ありがとうございます」

 おばあさんは、「夫は無実です」と書かれたタスキをかけていました。会社の同僚の間では〝署名おばちゃん〟と呼ばれている一種の有名人でした。小さな台に事件のあらましが書かれた簡単なビラを置き、旦那さんと思しき遺影を掲げて署名活動をしているのでした。

 遺影は優しそうな笑顔を浮かべています。ところが、写真の下のほうには「人殺しの濡れ衣を着たまま逝った伊藤由太郎(よしたろう)」という、まったく不釣合いな説明書きがあります。

  彼女は心配そうに私を見つめ、手を取って椅子に座らせました。布袋から水筒と小さなコップを取り出すと、良かったら一口どうだい、と勧めてくれたのです。そう言えば何も飲む余裕(ひま)がなかった、喉が渇いている、と気がつきました。薄い麦茶のような味でした。

    

      ♥

  あの朝、母はいつものように早起きして、俺の弁当を作ってくれた。台所のテーブルを見たら、ふたりの弁当が並んで置いてあった。自分のものを置き忘れたまま出かけてしまったのだ。

  俺は遅番で、十一時過ぎに家を出ようとして、それに気づいた。勤務先の食材工場とはちょっと方向違いなのだが、少しばかり遠回りすればいい。母の〝職場〟に立ち寄って、忘れ物を届けてやろうと思った。十五分足らずの寄り道だから。

 星陵町の東北大病院東から市役所東を抜け、東二番丁通りから青葉通りへ右折した。少し走っていくと、左手のケヤキ並木の間に母の姿が見えた。いつも使っている椅子には女の人が座っていて、母は何か飲ませているように見えた。

 俺は車から降り、弁当を包んだハンカチの結び目をつまんで、顔の前で少し揺らした。

「ああ、ありがとう。いま水筒出したらさ、おべんと忘れてきたのに気がついたよ」

「ハハハッ、おっかあも七並びの年齢(とし)になって、頭が少しホアホアになってきたんかねえ。こちらさん、どうかしたの、具合でも悪くなったんかい?」

「この人ね、ちょっと働き過ぎで目が回ったらしいんだよ。大神宮の近くまで行くっていうから、誠一(せいいち)、あんたちょっと乗っけてってちょうだい」

  出勤時刻が気になったが、その女の人が固辞するのも構わず、車の助手席に乗せた。

「お母さんのお姿、毎日のようにお見かけしますけど、大変ですよねえ。この間は裁判所の前にもおられて…。夏場は暑かったでしょうに」

「今年の七月で、あの事件から五十年が経ちました。それで一念発起して署名を集めるって言い出したんですよ。朝八時半から夕方四時までやってる。お袋ももう七十七ですから、無理はできない。それでも、いくらやめろと言っても聞かないんです。こうなったら死ぬまでやるって言ってますけど…」

  断片的な会話に過ぎなかったが、彼女は山際勢津子(やまぎわせつこ)という名前だとわかった。生命保険の仕事が長い。娘がふたりいて、下の娘が来春は高校を出るというのだから、四十半ばぐらいの年齢かも知れない。

 仕事柄か、濃紺のスカート、長袖の白いリボンタイブラウスという控えめな服装、低めの位置できゅっとまとめたポニーテールの髪型も好ましかった。

  彼女は何度も礼を言って車から降りていった。俺がクラクションを短く鳴らすと、振り向いて、つぼめたベージュの日傘をあげてニコッと微笑んだ。俺は鼻歌でも出そうな気分になり、自分ながら呆れていた。久しぶりに軽やかな心持ちになっていた。

     ♡

  出勤時や出先への往復の途次など、通りがかりに、署名おばさんこと伊藤スミと私は、挨拶だけでなく二言、三言、話を交わすようになりました。そんなことが重なり、スミはいろいろなことを話してくれるようになったのです。

  昭和三十年代半ば、スミは鍛冶職の夫を病気で失い、息子の誠一と青森県北津軽郡の故郷で暮らしていました。一方、強盗殺人犯の濡れ衣を着せられた旧姓坂本由太郎も、そのころまでに秋田刑務所から仮釈放されて帰郷していました。

  由太郎は、昭和十一年七月に五所川原で起きたコト殺人事件の犯人だと断罪され、無実を訴え続けていました。そのふたりを、スミの遠縁の人が引き合わせたのです。

「なぜ、そんな過去がある人と私が再婚したのか、あなた、不思議に思うでしょ?」

  スミは、そう言って微笑みました。夫が犯人になったという例は数限りなくあるし、誤審で犯人にされてしまった例もあるはずです。でも、犯人ではないのに犯人にされた人をご主人にした、という話は聞いたことがありません。

  私は答えに窮し、スミの顔を見つめながら黙っていました。「この人は、わざわざ大変な人生を選んだんだなあ」と心から驚嘆していたのです。その一方、正直なところ、「私にはできそうもない」そう思いました。

 このとき、スミは印象的なことを言ったのです。

「由太郎という大きな川に、私のようなささやかな川が合流したのね。そして、私よりいくらか太い川かも知れない誠一も間もなく合流したわ。小さい川も、合流点の先は大きな川そのものになるのよ」

  やがてその川に、私の人生が大きな関わりを持つとは、夢にも考えませんでした。

  仙南平野を木枯らしが吹き抜ける季節になりました。スミの姿が街角から消えて十日も経ちます。月曜から土曜まで、休まずに街頭に出ていたはずですのに…。裁判所近くに場所を移したのかも知れないと行ってみましたが、見当たりません。気になりました。

  ある土曜日の午後、私は思い立って、ビラに書かれていたスミの住所を訪ねました。仙台市の北西にあたる郊外でした。戸口に立って声をかけると、奥からしっかりしたご本人の返事が聞こえましたが、姿が見えません。しばらくして、そろりそろりと玄関に出てこられました。以前からの腰痛が、このところの急な冷え込みで増悪したとのことでした。

  居間に上げてもらい、近況から始まって、由太郎の事件の経緯を聞かせてもらいました。このような話は、読んだことも聞いたこともなかったので、理解できない単語もたくさんありました。聞くに堪えないひどい話で、溜息をつきながら耳を傾けました。

  その三年ほど前に、冤罪の有力な証拠になるとみられた古い刃物が発見され、新たな証言も得られたのですが、最近になって刃物は鑑定不能という結果に終わったこと。また、再審へ向けて調査活動を続けてきた青森県の弁護士会が調査打ち切りを決めたこと。どれもこれも残念な結果となり、スミは大きな落胆を味わったはずです。でも、愚痴は一切口にせず、淡々と経緯を語るだけでした。そして、毅然としてこう結んだのです。「由太郎の遺言どおり、これまでと同じように、裁判所と世間様に無実を訴え続けていくだけです」

  このとき、私が一番聞きたかったことを彼女は話してくれました。なぜ、出獄してきた由太郎と再婚する決心がついたのか、ということです。

  働き者だった由太郎は故郷ではとても評判が良い人で、彼が身柄を拘束された後も、多くの人が「犯人は別にいる」「由太郎は冤罪だ」と考えていたそうです。それは一種の世論にさえなっていました。

  スミも事件の詳しいことは知りませんでしたが、漠然と同じように考えていました。しかし、土地の郵便局長だった親戚が由太郎との結婚話を持ってきたときには、困惑して相当迷った、と回想していました。

  中学校三年生だった誠一のほうは、母親の再婚そのものが嫌だったのでしょうが、相手がいわく付きの人物ということで、さらに強く反対したそうです。あるときには母親に殴りかからんばかりの見幕でくってかかり、怒鳴り散らしたといいます。

「選りに選って、人を殺して刑務所に入ってたやつと再婚するなんて! 俺は絶対嫌だ!」

 しかし、スミは事件の経緯を由太郎本人から何度も聞いているうちに、間違いなくこの人は無実だ、と確信したのでした。

 「琴線(きんせん)にふれるっていうのかねえ、心の底からとつとつと訴える由太郎の話に、私の心が共鳴したんだよ。理不尽すぎるいきさつには怒りが湧いたわね。私は思ったのよ、なんとか汚名を突き返させてやりたい。少しでもこの人の役に立ってあげたいってね。誠一も追い追いわかってくれると思っていたわ」

  このようなわけで、誠一の気持ちとは裏腹の成り行きでしたが、ふたりは結婚し、由太郎はスミの伊藤姓を名乗りました。再審へ向けて新たな歩みが始まったのです。

  再審の門を叩くには、新しい証拠が必要です。由太郎はスミをオートバイの後ろに乗せ、あちこち訪ね歩いたそうです。事件当時の捜査関係者から真相を引き出そうとしていたのです。驚いたことに、それらの人びとはみなおずおずと面談に応じ、居丈高な態度で拒絶する人などひとりもいなかったそうです。

  そのころの大きな出来事として、東京のテレビ局が由太郎の冤罪を取り上げ、長時間の特別番組を放映したということがあったとのことです。結局、これが再審開始につながりはしませんでしたが、世の中にこんな理不尽な冤罪事件があったと知ってもらえる好機になったようです。 

          (つづく、原文縦書き、添付画像はfrom free 。本文内容とは関係ありません。オリジナル原稿には画像添付なし。 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コト殺人事件、義父の汚名を雪がん!

2018年06月16日 19時55分28秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと
  血のつながらぬ義父の冤罪
  一生かけて汚名晴らさん!
  坂本さんの闘いはつづく!


   

 昭和初期の古い殺人事件(青森県五所川原・コト殺人事件)は冤罪だ! として、長期にわたって世論に訴えている坂本せいいちさん(仙台市在住)のことを、おらのブログで何回か書いてきました。
  その記事のひとつはこちら

 しかし、だいぶ時間が経って、単なる過去記事のひとつになっていきました。
 ところが最近gooブログ編集ページ「リアルタイム解析」のアクセス履歴を見て、首を傾げていたのです。一週間ばかり前から同記事へのアクセスが“異常”に増えていることに気がついたからです。

 そうしたところ、一昨日になって「こびす」さんというお方から同記事へコメントをいただき、アクセス増の理由がわかりました。
 この天候の悪い時期に、坂本さんがまたまた上京して、東京霞ヶ関の東京地裁・高裁前でビラ配りをやっているのです。
 そのビラを見た人たちがネット検索でおらの記事にたどり着いていたのでしょう。

 こびすさんのコメントとおらの返コメを、一部再録してみます。

 *************

司法制度の問題 (こびす)
2018-06-14 11:24:09
昨日、東京裁判所前でビラをいただきました。何時もの批判ビラと違い切々と訴えた文面に感動しました。
昭和11年の事件ですから再審は難しかったのでしょう。
でも、坂本さんの訴えは今も無くならない冤罪事件への警鐘として価値あると思います。
私の母は選挙違反犯罪者としてひどい取り調べを受けました。
拷問は有りませんが、罵声、嫌がらせ等人権蹂躙甚だしく、母は言われるままに自白しようと思ったそうです。一番辛かったのは教え子に対する脅迫だったそうです
選挙違反でさえ無罪の母が酷い仕打ちを受けたのですから殺人事件ともなれば刑事の綿密なでっち上げの生贄になることは明らかです。
私は本人訴訟で民事事件で奔走していますが裁判官のいい加減さに腹が立ちます。
こちらは一生懸命に準備書面を作るわけですが裁判官は斜め読み程度である事が弁論準備の席上でわかりました。
重要な証拠を読んでいないのです。指摘したら、そうでしたかだって。
弁論準備と称した場で和解に持っていこうという魂胆がありありでした。

準備書面のちょっと気になる箇所だけ読んで、心証を構成し、判決文を作ってしまう。
これが現実でしょう。
違法金銭を争う事件なのに、この程度の金額は容認できるとした女性裁判官がいました。
個人の生活感覚で判決したのです。
控訴審で簡単にひっくり返りました。(以下略)

おどろき、です! (izukun)
2018-06-14 21:25:32
こびすさま
コメント、ありがとうございました。
思わず投稿くださった日付を確認してしまいました!
きのう現在、坂本さんはまた軽トラックで上京し、ビラ配布をしているんですね。
夜はどこかの埠頭で仮泊しているものと思います。
しかし、すごい!

近々、関連原稿をupしたいと思います。
わざわざご連絡ありがとうございました。
感謝であります。

 ***************

 びっくりしたのは、高齢に達した坂本さんの“執念”ともいうべき意気込みなんですが、もうひとつの偶然にも驚かされました。

 というのは、こびすさんのコメント投稿があったのは、2018-06-14 11:24:09 でした。
 そして、おらが「腐れパソコンの結末! USBメモリにおさまる!」という記事を投稿したのは、同じく2018年06月14日 11時16分15秒 だったのです。
 極めて接近した時刻に相次いで、坂本さん関係がロードアップされていたのです。

 なんで、腐れパソコンと関係があるんにゃ?

 というのは、古い半分壊れたパソコンから取り出されたデータは、「魔切り」というタイトルのおらが初めて書いた小説の原稿データだったのです。
 9年も前になるでしょうか、坂本さんの著書を出した後、おらは得意のいい加減さで「そのうち、コト殺人事件がらみの小説を書いて、世論に訴える」と坂本さんに約束したのでした。その後、「魔切り」というタイトルの小説を一応書き上げたものの、そのままになっていました。「魔切り」は、犯行に使われたことになっている、未発見の刃物の名称です。

 魔切りのデータは長い間古いノートパソコンの中で眠っていました。
 ところが、或る動機からおらはこの2月以降、別の小説のようなものを書き始め、原稿用紙500枚を4月末日になんとか書き上げました。
 そんなことがおらには刺激となって、書き上げたままになっている「魔切り」のデータを探し始めたのです。

 そのデータ復元の記事アップとこびすさんのコメントが重なったことに、何か不思議な因縁を感じ、いま「魔切り」をなんとかしたいと本気で考えているおらなのです。

 こびすさん、ありがとうございました。




坂本せいいちさんのビラ、コト殺人事件

2017年09月06日 22時50分53秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと
 先日、書きました、コト殺人事件の冤罪を主張する仙台市の坂本せいいちさんのビラ!
   「先だっての記事はこちら
 いつまでも放っておくわけにはいかず、きょう昼頃までに何とか仕上げて印刷所へ送信しました。下に参考までに掲載しました。
 多少なりとも当時の情勢を皆さまにお伝え出来れば幸いです。

    ************************

  昭和十一年、青森県五所川原で起きたコト殺人事件は冤罪です!

 私は、強盗殺人犯の濡れ衣を着せられたまま死んだ義父坂本由太郎に代わり、真犯人金順慶(通名・金森正男)を追い詰め、犯行を自白させました。しかし、8回に及ぶ再審請求はすべて却下され、汚名を国に突き返すことは不可能となりました。直接の関係者はすでに死に絶え、司法的決着はついてしまった格好ですが、このような明白な冤罪事件に関しては、現在の司法機関にも少なくとも道義的責任はあるのではないでしょうか。(文中敬称略)

        私はみなさんに知ってほしいのです。

   こんな理不尽な冤罪事件が、この日本にあったことを!

 コト殺人事件とは 二・二六事件が起きた昭和十一年(一九三六)の七月二十一日午前二時、当時の青森県五所川原町、岩木川にかかる乾橋のたもとで飲食店を開いていた若い女将相馬コトが自宅寝室で幼児と就寝中に殺害された。盗まれたものなどまったくなかったにもかかわらず、強盗殺人事件として取り扱われた。
 コトの周辺にいた多数の人物がほぼ一斉に検束され過酷な取調べを受けたが、当時、酒類の配達を生業とし、仕事上コト方にもしばしば出入りしていた伊藤由太郎(のちに仮釈放された由太郎は、昭和三十四年、私の母坂本スナと結婚し坂本姓となる。私の実父は病死していた) は拷問につぐ拷問の中で犯人に仕立て上げられてしまう。凶器とされる「マキリ」も発見されぬまま、無期懲役の大審院、現在の最高裁の判決が確定する。由太郎は歯軋りしながら十二年超の服役に耐え、昭和二十三年、ようやく仮釈放で秋田刑務所を出る。
 その後、由太郎、スナ、私せいいちの三人は、再審請求と併せ、この冤罪事件の真犯人を追い続けることを生涯の目的と定める。やがて私は、当時コトの飲食店の常連客だった金順慶(通名金森正男)の自白を得ることに成功する。また、この事件を予審判事として扱った、有名な松川事件控訴審・仙台高裁での誤判裁判官鈴木禎次郎にも仙台の自宅にて面談し、いったんは謝罪の言葉を引き出すことが出来た。
 ところが、東京高裁は私どもの再審請求に対し、まともな審査をおこなおうとせず、結局、再審の扉が開くことはなかった。
 この間、現テレビ朝日の前身、NETテレビの「奈良和モーニングショー」特番で詳しく取り上げられることもあった。しかし、生涯にわたって保護観察をつけられ選挙権さえ行使できなかった由太郎は昭和五十八年に死去、冤罪を訴えて仙台の街角に立ち続けた母スナも平成十年に世を去った。由太郎の最高最大の理解者であり、大恩人の元秋田刑務所看守で後に副検事となった佐藤正毅も今はいない。私も由太郎と親子縁組をしていなかったため再審請求権を継承できなかった。
 一方、私どもの人権救済申立てに応じて日本弁護士連合会人権擁護委員会は、平成二十一年十二月、「再審請求支援をおこなうか否か検討する」と回答。翌年九月には、「当委員会にて調査をおこなう」旨の、この種事件としては異例の決定を通知してきたが、残念ながら沙汰止みとなってしまった。司法的手続きはすべて結了したことになったのである。

 しかし、「真実はどこまで行っても真実である」という当たり前の観点から、私坂本せいいちは、生きている限り最高検察庁、最高裁判所その他の司法機関、捜査機関の明白な責任を追及し、謝罪を求め続けてゆく所存であります!

 取調べは拷問につぐ拷問 由太郎に対する取調べは、「取調べ」などと呼ぶのもおこがましい拷問そのものだった。町の公会堂に留置された由太郎は、六、七人の刑事から文字どおり“不眠不休”で攻め続けられた。
 耳元で大声で怒鳴りつける。「お前が殺したんだろう。」「凶器の刃物はどうした。」「この地下足袋に見覚えがないか。」
 やったと言うまで、「殴る」「蹴る」「竹刀で叩きのめす」。柔道の技をかけて投げ飛ばす。顔も身体も青ぶくれに腫れあがった由太郎は、耐えがたい苦しみの中でのたうち回った。
 また、岩木川の土手にも無残に連れ出された。夏場の川べり、ヤブ蚊が群れをなしている。そこに裸で放り出された。こうして、無理矢理、自供に追い込まれていく。

 再審への執念 敗戦後の昭和二十三年に仮釈放された由太郎は、濡れ衣を着せられた怒りと共に地元北津軽郡鶴田町に帰り、赤貧の中で無実を証明づけるための証拠を探し続けた。しばしば、事件現場である五所川原に出かけて行き、それこそ一軒一軒虱潰しに訪ねては目撃者を探した。
 由太郎は何を探していたのか? 真犯人は犯行当夜、コトを刃物で刺し、返り血を浴びたまま逃走した。地下足袋の足跡が残っていた。この凄惨な真犯人の姿を誰か目撃した人がいないか。それを探し続けた。

 事件当夜の目撃 事件から五十年近くたった昭和五十八年になって、五所川原の高木誠三(仮名)という人物が次のような趣旨を証言した。
 事件当時高校生だった誠三が、コトが殺された夜、自分の家の間借り人であった金順慶、通名金森正男が、シャツの胸に大きな血痕を付け、地下足袋をはいた姿で帰ってきたのを見た。しかし、翌朝、親から「何も言うな、関わり合いになるな」と口止めされ、長い間黙っていた。すまないことをした、と。
 事件当時、コトの店の常連だったこの金森正男もまた、多数の被拘引者のひとりとして身柄を拘束されたが、しらを切り通したのだろう、拷問されたひどい姿ではあったがとにかく帰って来られた。誠三の目撃は、誠三の胸に深く仕舞い込まれ、表に出なかったからだ。かつて由太郎が事件当時の警察幹部を歴訪して捜査線上に浮かんだ人たちのことを尋ね、金森の放免についても詰問したことがあるが、その答えは、「当時、金森のアリバイを彼の同胞たちが強く証言し、それを突き崩せなかった」というものだった。

 連れションの後の口止め 誠三はまたこんなことを明らかにした。敗戦後、東京に行くことがあった。この時、上野駅構内の公衆便所で、なんと隣り合わせて小用を足していたのが金森正男。事件後、五所川原を去り、公訴時効十五年を意識してか長い間雲隠れしていた金森がそこにいたのだ。誠三はあまりの偶然に口をあんぐり、金森の側も肝をつぶして恐怖に震え上がったのではないだろうか。
 その証拠に、かつての夜、自分を目撃したことや、ここ上野駅の便所で出会ったことは誰にも言わないでくれと頼み、口止め料のつもりか誠三に当時の金で五円を差し出し、誠三はこれを受け取っている。当時の五円は価値があった。

 北海道で金森と対決 ところで時期は前後するが、由太郎は服役中のある日、とんでもないことを思い出した。それは事件当日の昼間、近郊の祭礼へコトが出店した飲食店を手伝った際、同じく古着の店を出していた金森が、犯人の足跡とされた地下足袋と同じものを履いていたことだ。突然、映像として脳裏に浮かんだという。そして、金森こそ真犯人、との確信に至る。
 仮釈放後、その金森の行方を突き止め、北海道室蘭市輪西町七条仲通りで古着屋を営んでいた金森方に行き、直接対決したこともある。昭和三十一年秋、数少ない理解者のひとりだった東奥日報記者・木村修一郎が書いた記事がきっかけで読者から情報が寄せられたのだ。新聞社の旅費負担で室蘭に渡った由太郎は、木村とともに金森と対面し、「お前がコトを殺した真犯人だ」と強く追及したが、結局このときは、のらりくらりと逃げ口上を述べる金森の首根っこを押さえることは出来なかった。

 金森が間借りしていた部屋の床下から刃物発見 昭和五十八年七月二十一日、奇しくもコトが殺されたのと同じ日に、高木誠三宅の解体・新築の途次、かつて金森が間借りしていた部屋の床下から劣化した刃物が発見されるという衝撃的な出来事があった。先に述べた誠三の告白は、実はこの刃物発見という動かぬ事実に突き動かされたもので、これ以上沈黙は許されないという魂の告白だったのだ。
 これより先、由太郎は、事件当時この部屋で金森と同居していた女性きよから事情を聴き取ることが出来ていた。きよの説明では、事件当夜、金森は押し入れの床板をはがし、穴を掘って何か刃物のようなものを地面に埋め、掘り返した土をかぶせていた、というのだ。
 これを聞いた由太郎は再三、高木家に床下の掘削を懇願した結果、由太郎の亡くなった年の夏、念願の証拠物が姿をあらわした。読売新聞はこの出来事を大々的に特報し、時ならぬ新聞、通信社、テレビ各局の取材合戦が繰り広げられた。
 現在であれば、おそらく朽ち果てる寸前の発掘刃物からでも、コトの血液やDNA等は検出可能なのではないかと思うのだが、結局決め手となる新証拠にはなり得ぬままに散逸してしまった。残念、無念である。

 微動だにしない再審の門 私どもは、由太郎の無実・無罪を確信していたが、弁護士がいない。費用もない。自分たちだけで、再審を請求する以外に道はなかった。
 東京高裁に対する再審請求申立は、平成十九年までに七回に及んだが、まともに扱ってもらったという実感は微塵もない。
 とりわけ異様な印象が強いのは、東京高裁・船田三雄裁判長。船田は東京からわざわざふたりの書記官であるか事務官であるか、を伴って仙台高裁に出張してきた。そうして、私どもの請求申立の理由、事実関係をたったの一言も発言させず、問答無用、黙れと遮断し、東京に帰ってしまった。いったいなんのために仙台まで来たのか、いまだに苦い思いにとらわれる。
 この船田の後に続いた東京高裁の裁判官で私どもの訴えに耳を傾けた者は、結局一人もいない。古い供述を読み飛ばし、一枚の紙に何行かの棄却文言を入れ、自己の立場を補強する検察の意向を付け足して、私どもに投げつけ門前払いにした。

 これだけいい加減な捜査ででっちあげられた事件、恣意的捜査にただただ乗っかって無期判決を言い渡し、確定させた事件、コト殺人事件判決は稀に見る誤判と言うべきである。
 決定的な証拠はない、凶器も出ない、拷問によって搾り出された自供だけがあるに過ぎない。

 このように決定的な証拠もないのに、警察、検察、裁判所があたかも一体なのだと思わせるほどの連携ぶりで偽りの有罪を確定させたのだ。

 しかも、一人の人間とその家族の人生を大きく狂わせた張本人の裁判所が、自らの誤りを訂正してもらいたいなら、「お前のほうで、新しい証拠を見つけて持って来い!」とふんぞり返っているのは、いったいどのように理解したらいいのだろうか。

        私は叫び続ける、生ある限り!

    (2017年9月記す。参考文献・拙著『誰がコトを殺したか』2009年文芸社刊)







誰がコトを殺したか!

2017年08月30日 14時00分08秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと
80年前の五所川原コト殺人事件で冤罪を訴える坂本さん!
  くそ暑い中“超難解”のビラ原稿と悪戦苦闘のおら
 


 先月下旬、仙台の坂本せい一 (せい、は「金」へんに、「山」、その下に「斤」の縦棒にちょん) さんから、回り回って1通のお手紙が届いた。
 坂本さんは、古い強盗殺人事件の犯人として服役した人とご自身の母上が再婚したことから、思いがけなく再審請求とかかわり続ける人生を歩んだ方で、『誰がコトを殺したか 青森・五所川原 コト殺人事件、誤判の構造』(2009年1月、文芸社刊)の著者です。
 そして、おらはと言えば、この本をつくった人間。つくった、というのは、単に編集したのではないゾ、という万感迫る思いの用語です。

   

 お手紙には、ビラが1枚同封されていて、もう一度、最高裁判所ほか関係機関の所在地でビラ撒きをやりたいので、内容を見てうまい具合に直してほしい、という趣旨が書かれていました。印刷屋さんに頼んだのではないかな、と思わせる出来あがりでした。
 お手紙に「もう一度」とあるのは、坂本さんは自著が刊行された年、2009年8月にも、東京地裁・高裁前で、おらの作ったビラをひと月近く配り続けました。荷物室のある改造軽トラックで上京、晴海ふ頭に停めたこの車の荷室で寝泊まりしながらでした。夜中に毎夜、パトカーが回ってきて起こされるので往生したといいますが、そのうち警邏隊員と顔なじみになり、「がんばれや!」などと声をかけられることもあったそうです。
 このときの坂本さん、たしかすでに70歳近かったような記憶です。それから、さらに8年たちました。

 再審請求は亡くなった母上がおこなってきましたが、坂本さんと父上は養子縁組をしておらず、もはや再審の請求は出来ません。司法のシステムの中ではいかんともしがたい局面にありながら、坂本さんは訴え続けているのです。

 さて、今回のビラですが、書いてあることは1行1行の水準ではわかるのですが、通して読むとさっぱりわからない! 感情だけがぶつけられている、かつての書籍原稿とまったく同様です。
 このビラを読んで、その中身を理解出来るのは、事件の全体像を熟知する坂本さんと、改稿だけでなく追加の調査やら取材を尽くして件の本をつくったおらのふたりだけです、間違いなく。

 とても、修正程度では済みそうもない感じでしたが、仙台の印刷屋さんに頼んでビラのデータを送信してもらいました。
 送ってくださったのは、PDF文書とテキストですが、PDFは手を加えることが出来ません。編集するには、どうも別途アプリを購入する必要がありそうです。
 で、テキストをワードにコピーして直し始めたのですが、2、3行やってギブアップ!
 そのままほったらかして、迷いネコの対応に追われていました。

 しかし、8月も残り少なくなり、坂本さんも高齢でいつまでもほっておけないので、きのうから再度、改稿に取り組みました。ところが、これまた2、3行でしゃっくりが止まらなくなり、中断してしまいました。

 そんな中で、「誰がコトを殺したか」とネット検索してみたら、驚いたことに前回、8年前の坂本さんのビラ撒きを目にしてご自分のブログに記事をアップされている方がいることを初めて知りました。ちょっと驚き、かなり感激しましたよ!ライブドアブログの「remmikkiのブログ」というサイトでした。 remmikkiのブログ「冤罪コト殺人事件」の記事はこちら

    同じくヒットしたおらの過去記事「追悼 弁護士大塚一男先生」はこちら

 というわけで、あしたにはなんとか目鼻をつけたいと思っております。希望的観測ではありますが…。


 *****おとといの記事の「ゴーヤの種」はこんなふうです。******
                 

 
 

大塚一男先生を偲ぶ会のこと

2016年09月30日 13時46分43秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと
過去記事
2012-02-01
21:22:54


                                   (写真=駿河銀行提供)

  “絶不調”の中で
  

 身も心も不調なる2012年の年明け、となったクンちゃんですが、これは年齢のせいもあってか、きりがないと言えばきりがないですなあ。
 かといって、そういつまでもうだうだしてられんわ、というわけです。

 この間、来る2月14日に予定されている例の栗田工業・野崎―藤野ちかん裁判(本訴のほう。横浜地裁)の本人尋問、証人尋問に向けて、クンちゃんは蚊帳の外ではあるが、少しく自分の考えをまとめてみようと資料にあたっていました。
 栗田工業と藤野宏・前会長が本訴に先だって求めていた出版禁止の仮処分については、昨年12月に「保全の必要なし」として却下されていますが、本訴は本訴ですので、野崎サイドはこの尋問に向けて全力投球ということになるでしょう。
 しかし、思うにつけ、いわば藤野氏の個人的な憤激というものを、会社の名前を使って発散させようとするかのようなこの栗田提訴は“濫訴”と言って差し支えないのではないか。このような意味のない提訴、何か訴える利益があるんかいな、というこの栗田提訴に対し、裁判所がどう決着をつけるのか、さらに注目していきたいと思います。


 ところで、年賀も欠礼、来信やメールにも返事無しという失礼状態でしたが、前記資料あたりの中で、読む暇がなくてほっといた本が出てきたので、それをやっと読むことができました。
 『誰がコトを殺したか』(文芸社 2009)の編集中に、松川事件二審、仙台高裁の所謂“確信判決”を出した鈴木禎次郎判事(予審判事時代にコト殺人事件を担当)を調べていくなかで入手した、

 橘かがり『判事の家』(ランダムハウス講談社 2008) という単行本です。

 橘さんは、全員無罪で決着した松川事件の第一次上告審(大法廷)と差し戻し上告審の両方に携わった下飯坂潤夫最高裁判事の孫にあたるといいます。下飯坂判事は強硬な有罪論者で知られた人でした。

 よくこのような内容を公開したな、というプロットではありますが、編集者に恵まれなかったのかなあ、というのが読後感として残りました。私小説ふうな筆致で、この判事の家が崩壊していく有様を、事件関係者への取材を交えて赤裸々に描いているのですが、事件の部分については他の著作の転載だけが目立って、もうちょっとなんとかならなかったのかいな、という生焼け感が残りました。

 それはそうと、読んでいて、思わずニヤッとしちゃたところがありました。
 
 ――亜里沙(註・作中主人公の名前)が集め、書き留めた、祖父と松川事件に関する資料は、かなりの枚数になっていた。亜里沙は事件の元被告を訪ね、松川事件研究の第一人者である福島大学の伊部教授の許をも、度々訪れた。
   主任弁護人だったO氏には取材を断られたが、それ以外は、「敵役」ともいえる判事の身内にしては、驚くほど皆が温かく接してくれた云々――(202頁9行以下)

 O氏とは、クンちゃんブログ 
  http://blog.goo.ne.jp/92freeedition44/e/b584aeba7db6c434ff39cf288888075b で、訃報とともに駄文を献じた大塚一男先生です。
 なぜ、このような経緯になったのかはもちろん推測できませんし、なぜ自分がニヤッとしたのかもわからないのですが…、とにかくニヤッとしてしまったのでした。


 そう言えば、大塚一男先生を偲ぶ会(正しい名称を失念!)が本年桜の花の咲くころにおこなわれる運びとなり、追悼文集も刊行される、とのお知らせをいただき、恐縮してお返事も出さないままになっています。
 松川事件関係をはじめ、大塚先生を大切に思う方たちがたくさんお集まりになる会であるので、クンちゃんごときは列する立場ではないのです。
 しかし、多少なりともお役にたてれば幸いと思い、もし必要なら追悼文集の校閲でもさせていただきます、と昨秋、A先生にお話をするにはしていますが、大きな法律事務所の方々もおられるので、適任の方はたくさんおられるものと思います。

 さて、そんなこんなで大塚先生に思いを巡らせていましたら、以下のようなブログを発見しましたので、ご覧いただきたいと思います。長野県飯山市の小学校同級のお方とのことです。とてもお元気な方のようです。(大塚先生が飯山のご出身とは知りませんで…。クンちゃんは、飯山の隣の木島平村には足しげく通っておりまして、飯山はよーく知っています。ことしは、えらい雪のようです。)

   http://blog.goo.ne.jp/goo2023/e/6fa880a4d89c7892d0651f6e21d46f5e
  


 
 

弁護士・大塚一男先生のこと

2016年09月30日 13時42分29秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと
過去記事
2011-09-04
13:31:53
               追悼  大塚一男先生


 弁護士の大塚一男先生が亡くなられた。86歳

 今朝、いつも眺めることのない新聞の訃報欄をふと見て、ハッとなった。
 松川事件(テキストの一例として、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6)の主任弁護人を務めた大塚一男先生が亡くなられたことが報じられていたからである。
  http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110904k0000m040037000c.html (ネットの毎日新聞報)
 大塚先生には、結局、一度もお会いできなかったが、そのご厚情にあずかった者として、心より哀悼と感謝の意を表すものである。

 いまから書くことは、具体的な日付等は失念してしまっているので、その点はお許し願いたい。

 文芸社刊『誰がコトを殺したか』(坂本せいいち著) 「本屋に並ぶ私家版」の記事ご参照。こちらをクリック の原稿を書き直しつつ編集している時期、コト殺人事件(昭和11年、青森県五所川原で発生)の予審判事だった「鈴木禎次郎」という人の実像を知りたいと思うようになった。
 あるとき、国会図書館新聞閲覧室で古い新聞をひっくりかえしているうち、鈴木氏は仙台高裁判事時代にあの有名な「松川事件」控訴審を手がけていることがわかった。
 松川事件控訴審判決は「確信をもって言い渡す」と余計な文言が入っているので「確信判決」などと称されるが、大誤判としても有名になっている。

 その関係で鈴木氏周辺を洗っていくと、大塚一男先生の『最高裁調査官報告書 松川事件にみる心証の軌跡』(1986年筑摩書房刊)という本に行きあたった。
 クンちゃんが目をひんむいたのは、控訴審判決の直前に入廷する鈴木裁判長について、同書が「笑顔を見せつつ入廷した」と記していることだった。
 一審より死刑を言い渡される者の数は減ったが、四人の被告人に死刑を言い渡すことになる直前、いわばニヤニヤしながら法廷に入ってくる裁判長ってのはいったいどんなやつなんだろう、という疑問がふくらんだ。こういうやつなら、もっと若造の予審判事時代にはろくなことがなかったんじゃないか、という憶測でもある。

 そこで、大塚先生が所属する「自由法曹団」に電話をして、応対に出た事務局の女性に先生の連絡先を教えてくれるよう頼んだ。クンちゃんの長い経験では、こんなとき、応対に出る人はだいたいこちらの用件のすべてを細部まであれこれ質したのち、それはできませんね、とか答えるのが多い。(ふざけんな、おまいに用があるわけじゃないんだよ!というのが多い。)
 ところが、あれこれ要らんことを聞かずともこちらの意を了解した事務局の森脇圭子女史(退職)は、折り返しで、先生の連絡先を教えてくださったうえ、松川関係のエッセンスである資料をも送ってくださった。
 このような経緯で大塚先生に連絡がつき、折りいって短時間ご面談をお願いしたいとの趣旨を伝えると、折りいらんでいいからどんな用か言いなさい、という単純明快なお答え。

 そこで、控訴審判決当日の鈴木裁判長の描写の確認と、先生著作の関係記事を『誰がコトを殺したか』に転載したい旨伝えると、「私がこの目で見て書いてんだから、大丈夫だよ」とおっしゃり、転載については「運動が前進することを願っていますよ。好きに使ってください」というありがたいお言葉であった。

 そののち、何回か手紙のやり取りをしたが、結局お会いすることもかなわず、完成した『誰がコトを殺したか』をお送りしたことに対するお礼の葉書をいただいたのが最後になってしまった。

 このような経緯で、『誰がコトを殺したか』の巻末資料として、前記筑摩書房刊本の記事と、あとでわざわざ郵送してくださった「得意絶頂の鈴木判事とその心理」と題する先生著『私記 松川事件弁護団史』(1989年日本評論社刊)の関連記事が収録されたのである。
 
 いまは天上で憩うておられる先生を偲んで、思い出を記した。



   追記・9月8日朝、前日に東京都三鷹市内でおこなわれた大塚先生のご葬儀について、参列したおひとりから、次のご報告をメールでいただきました。


          昨日、大塚先生の告別式でした。
          お好きだった歌「ふるさと」が流れる中、
          お花にあふれ、
          お孫さんの「じいじい、だいすき」と書かれた手紙が棺に入り、
          優しいお顔で逝かれました。

          お経の無いお葬式もよいものだとおもいました。