合流点 ④ izukun
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勢津子のおかげで本を出すことができた。これで俺のやるべきことはすべてやり終えた、と思った。もし、あの世で義父(おやじ)に出会っても物陰に隠れないで済む、と安堵した。
ところが、そのうちに「本を買って読んでくれる読者は限られているぞ。ダイジェスト版を印刷して配れば、みんなに冤罪を知ってもらえるじゃないか」という内なる声が湧き起こってきた。一方で、「もうかなりの年齢になったじゃないか。そろそろ打ち上げの頃合じゃないのか? 少しゆっくりしなよ」そういうささやきも聞こえてくる。
どうしたものか、いろいろ考えた末、結局、身体が許す限り、ビラ撒きをしていく、という結論に至った。勢津子は、あなたはお母さんとほんとによく似てる、とつぶやいた。
そんな忙しない日々が過ぎていくうちに、あの大地震がやって来た。
寒々としたあの日、俺は太白区の自宅にいて事なきを得たが、勢津子は若林区内の顧客宅に出かけていた。
その夜、勢津子は帰らなかった。
携帯も固定電話もつながらない。停電で生活ツールはなにもかも使えなくなった。あちこちの暗い路上に集まって話し合う人たちの声は聞こえたが、ラジオと伝聞しか情報源がなかった。確実な話は何も伝わってこない。ただ切れ切れの情報が乱れ飛んでくるだけだった。
地震の後に大きな津波が何度も来て、若林区などの海に近いエリアは壊滅状態だという。歩いて避難して来た人に聞いたという情報だった。伝聞の伝聞なんていう話も、珍しくなかったのだ。恐ろしい余震が続いていて、その度に生きた心地がしなかった。
俺は夜通し起きて待っていたが、白々と夜が明けても勢津子は戻ってこない。生きているのか、亡くなってしまったのか。俺は彼女の死を覚悟せざるを得なかった。
きょうはなんとしても捜しに出かけなければならない。しかし、被災エリアには近づけないらしい。足の不自由な俺だが、歩いていくしかない。行ける所まで行ってみようと思った。
いよいよ出かけようとしていると、玄関のドアが開く音がした。そーっと覗くと、勢津子が上がり框に座り込んでいる。
生きて帰って来た!
俺は自分の目を疑った。髪は乱れ、顔は蒼白、唇は濃い紫。生乾きの服に、片足ずつ別々の拾った靴。よれよれの状態とは、このときの勢津子だと思った。津波に襲われたが、九死に一生を得たのだ。明け方から歩き続けてきたと涙声で話す。車もバッグも持ち物も全部失ったが、命だけは助かった。なんの文句があろうか。
勢津子はよろよろと立ち上がると、本棚から俺の本を抜き取り、憑かれたようにページをめくった。そして、由太郎と大恩人の秋田刑務所元看守・江藤正毅のふたりが写った写真を食い入るように見て、大きなため息をついた。俺にはまったく不可解な所作に思えた。
震災後一年が過ぎ、俺はビラ配布を再開した。
そのころ、不思議なことに気がついた。在庫ビラの減り具合がおかしい。減り方が早い。
勢津子が配っているのだろうか。いや、そんなはずはない。勢津子がビラ撒きを嫌っていることは、口に出さずとも俺にはよくわかっていた。だから、手伝ってくれと頼んだことはない。では、早いところ俺のビラ撒きを終わらせようとして、捨てているのか?
また、勢津子は勤務の都合で週日が休みになることがあるのだが、そんな日に限って朝方の二、三時間、家を空けるようになったのも気になった。以前にはなかったことだ。
ある振り替え休日、それは月曜日の朝だった。思っていたとおり、「ちょっと出てくるわよ」と勢津子は車で出かけた。俺も車に飛び乗って後を追った。彼女の軽乗用車は裁判所前の有料駐車場に入った。俺は車の中から成り行きを見つめていた。勢津子は車を降りた。ビラの束を抱えている。目の前の通りを渡ると、裁判所の門前でビラを配り始めた。
びっくりした俺は五、六分の間、呆然と勢津子の姿を眺めていた。そして、彼女のところまで歩いて行って、ビラを一枚受け取った。「あら、ばれちゃったわね」勢津子は片目をつぶってそう言うと、小脇に抱えていたビラの半分を俺に差し出した。
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震災の日、私はどうしても外せない用向きがあって、若林区荒浜の顧客を訪ねたのです。
大きな揺れの次には津波が来る、それは十分わかっていました。一刻も早く逃げようと思うのですが、乗り捨てられた車がたくさんあって動きが取れません。もたもたしているうちに、あっという間に水が来て、車はみんなぷかぷか浮き始めました。
私の車も流されるままに、学校のような大きな建物の陰に押し込まれたのです。次から次へと際限もなく車や金属製の物置、雑多な漂流物が打ち寄せられて来ます。押し合いへし合い、重なり合い、折箱にぎっしり詰め込まれた稲荷寿司か満員電車かというようなひどさでした。
建物の中には人がいましたが、水が邪魔をして行き来ができません。私は自分の車の屋根に座り、足をボンネットに乗せていました。電気配線がショートしたのか、多くの車の盗難防止ブザーが勝手に鳴り続けています。やがて日が暮れて、五〇メートルほど離れた場所から火の手が上がりました。漏れ出たガソリンに何かの加減で引火したのでしょう。
私は、多分ここで死ぬだろう、と腹をくくりました。悲しくはないけれど、身近な人を思いました。「うちの娘(こ)たちは大丈夫かしら」「誠一やお母さんはどうしてるかなあ」
ふと見ると、車の横に年配の男の人がいます。お腹の上あたりまで水に浸かっているのですが、ニコニコ笑っています。確かに知っている人なのですが、誰だかわかりません。
「こっちへ下りてきな。水はそんなに深くないよ。手を出しなさい」
その人は私を抱き取って水に下ろし、車の残骸のすき間を建物のほうへ泳ぐように導いてくれたのです。建物から人が何人か出て来て、びしょ濡れの私を引き入れてくれました。
振り返ると、もうその人の姿はありません。「勢津子さん、本をありがとな。スミと誠一を頼んだよ。元気で暮らしなさい」
闇の中から、力強い響きだけが伝わってきました。
一度も会ったことはないのに、私にはその人が由太郎なのだとはっきりわかりました。
このことは誠一にも誰にも話していません。到底、信じてもらえそうもありませんから。
ただ、確かなのは、死と隣り合わせに過ごしたあの夜、由太郎・スミ・誠一の大きな川に、私もまた合流したということです。あの場所が合流点になったのです。 了
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