きょうの東伊豆はほぼ2週間ぶりに、昼過ぎまででしたが陽ざしがなく、にわか雨も降りました。気温も24度から28度程度で、ほんとに一息つきました。
うちのニャも板の間から、籠のねぐらに入って、爆睡でした!
ただし! いま、午後2時段階ではまたまた暑くなる気配です。室温29度。
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ところで、「コト殺人事件、義父の汚名を雪がん!」というおらの過去記事の中に次のような記述があります。
https://blog.goo.ne.jp/izu92free44/c/27c4cb7438fffe4bac1f871fcd814e74
【9年も前になるでしょうか、坂本さんの著書を出した後、おらは得意のいい加減さで「そのうち、コト殺人事件がらみの小説を書いて、世論に訴える」と坂本さんに約束したのでした。その後、『魔切(まきり)』というタイトルの小説を一応書き上げたものの、そのままになっていました。「魔切」は、犯行に使われたことになっている、未発見の刃物の名称です云々】
で、昨年10月の某公募コンペの送信締め切り時刻20分前の午後11時40分に、10年近く寝ていた原稿は改訂版『魔切』として脱稿しましたが、添付すべき住所やら経歴といった個人情報を入力しているうちにアウトとなりました。これは、今後、また手入れをして、今年はなんとか送信したいと思っています。
しかし、そうしているうちにもおらにも坂本さんにも“諸般の事情”というやつが来ないとも限らないので、前述の坂本さんとの約束が果たせなくなるという事態をおらは恐れたのです。
そこで、目に付いたのが仙台短編文学賞という創設2年目の文学賞でした。
『魔切』とは別に、坂本ご夫妻をモチーフにした短編を書いてみようと考えたのです。もちろん入選するつもりですよ!(エラいねえ!)
というわけで、仙台短編文学賞に応募して、見事落選したのが、この小説『合流点』です。
坂本さんとの約束を果たすには、小説を書くだけではなく、公開しなければなりません
落選作品にて、他者の手で公開してもらえないからには、まことに恥ずかしながら、自分で公開するしかない。これこそが、当ブログに『合流点を』掲載する所以であります。
お暇な向きもお忙しいお方も、ご一読くだされば幸いです。
なお、本作は一部に実際の出来事をちりばめておりますが、実録ではなく、あくまで創作であります。
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合流点 ① izukun
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今となっては三十年以上も昔、昭和六十一年(一九八六)のことです。
九月も半ばを過ぎたというのに、真夏のような陽ざしが照りつける朝でした。契約更新のため顧客の事務所へ向かおうとしていた私は、路上で突然気分が悪くなり、ビルの陰にしゃがみこんでしまいました。
仙台一の繁華街、青葉通りの一番丁交差点を北から南へ渡りきったところでした。いまはサンモールのつなぎ目になっているところです。前の夜、立て込んでいた仕事に追われ、ほとんど寝ずに処理したので、とても疲れていました。
同じビル陰のすぐ横に相当年配のおばあさんがいて、私に気づくと、腰掛けていた椅子から立ち上がって声をかけてくれました。通りがかりに、ここでよく見かける方です。
「大丈夫かい? じっとしていなさい、救急車を呼ぶかい?」
「いいえ、ちょっと休めば落ち着くと思いますから。ありがとうございます」
おばあさんは、「夫は無実です」と書かれたタスキをかけていました。会社の同僚の間では〝署名おばちゃん〟と呼ばれている一種の有名人でした。小さな台に事件のあらましが書かれた簡単なビラを置き、旦那さんと思しき遺影を掲げて署名活動をしているのでした。
遺影は優しそうな笑顔を浮かべています。ところが、写真の下のほうには「人殺しの濡れ衣を着たまま逝った伊藤由太郎(よしたろう)」という、まったく不釣合いな説明書きがあります。
彼女は心配そうに私を見つめ、手を取って椅子に座らせました。布袋から水筒と小さなコップを取り出すと、良かったら一口どうだい、と勧めてくれたのです。そう言えば何も飲む余裕(ひま)がなかった、喉が渇いている、と気がつきました。薄い麦茶のような味でした。
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あの朝、母はいつものように早起きして、俺の弁当を作ってくれた。台所のテーブルを見たら、ふたりの弁当が並んで置いてあった。自分のものを置き忘れたまま出かけてしまったのだ。
俺は遅番で、十一時過ぎに家を出ようとして、それに気づいた。勤務先の食材工場とはちょっと方向違いなのだが、少しばかり遠回りすればいい。母の〝職場〟に立ち寄って、忘れ物を届けてやろうと思った。十五分足らずの寄り道だから。
星陵町の東北大病院東から市役所東を抜け、東二番丁通りから青葉通りへ右折した。少し走っていくと、左手のケヤキ並木の間に母の姿が見えた。いつも使っている椅子には女の人が座っていて、母は何か飲ませているように見えた。
俺は車から降り、弁当を包んだハンカチの結び目をつまんで、顔の前で少し揺らした。
「ああ、ありがとう。いま水筒出したらさ、おべんと忘れてきたのに気がついたよ」
「ハハハッ、おっかあも七並びの年齢(とし)になって、頭が少しホアホアになってきたんかねえ。こちらさん、どうかしたの、具合でも悪くなったんかい?」
「この人ね、ちょっと働き過ぎで目が回ったらしいんだよ。大神宮の近くまで行くっていうから、誠一(せいいち)、あんたちょっと乗っけてってちょうだい」
出勤時刻が気になったが、その女の人が固辞するのも構わず、車の助手席に乗せた。
「お母さんのお姿、毎日のようにお見かけしますけど、大変ですよねえ。この間は裁判所の前にもおられて…。夏場は暑かったでしょうに」
「今年の七月で、あの事件から五十年が経ちました。それで一念発起して署名を集めるって言い出したんですよ。朝八時半から夕方四時までやってる。お袋ももう七十七ですから、無理はできない。それでも、いくらやめろと言っても聞かないんです。こうなったら死ぬまでやるって言ってますけど…」
断片的な会話に過ぎなかったが、彼女は山際勢津子(やまぎわせつこ)という名前だとわかった。生命保険の仕事が長い。娘がふたりいて、下の娘が来春は高校を出るというのだから、四十半ばぐらいの年齢かも知れない。
仕事柄か、濃紺のスカート、長袖の白いリボンタイブラウスという控えめな服装、低めの位置できゅっとまとめたポニーテールの髪型も好ましかった。
彼女は何度も礼を言って車から降りていった。俺がクラクションを短く鳴らすと、振り向いて、つぼめたベージュの日傘をあげてニコッと微笑んだ。俺は鼻歌でも出そうな気分になり、自分ながら呆れていた。久しぶりに軽やかな心持ちになっていた。
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出勤時や出先への往復の途次など、通りがかりに、署名おばさんこと伊藤スミと私は、挨拶だけでなく二言、三言、話を交わすようになりました。そんなことが重なり、スミはいろいろなことを話してくれるようになったのです。
昭和三十年代半ば、スミは鍛冶職の夫を病気で失い、息子の誠一と青森県北津軽郡の故郷で暮らしていました。一方、強盗殺人犯の濡れ衣を着せられた旧姓坂本由太郎も、そのころまでに秋田刑務所から仮釈放されて帰郷していました。
由太郎は、昭和十一年七月に五所川原で起きたコト殺人事件の犯人だと断罪され、無実を訴え続けていました。そのふたりを、スミの遠縁の人が引き合わせたのです。
「なぜ、そんな過去がある人と私が再婚したのか、あなた、不思議に思うでしょ?」
スミは、そう言って微笑みました。夫が犯人になったという例は数限りなくあるし、誤審で犯人にされてしまった例もあるはずです。でも、犯人ではないのに犯人にされた人をご主人にした、という話は聞いたことがありません。
私は答えに窮し、スミの顔を見つめながら黙っていました。「この人は、わざわざ大変な人生を選んだんだなあ」と心から驚嘆していたのです。その一方、正直なところ、「私にはできそうもない」そう思いました。
このとき、スミは印象的なことを言ったのです。
「由太郎という大きな川に、私のようなささやかな川が合流したのね。そして、私よりいくらか太い川かも知れない誠一も間もなく合流したわ。小さい川も、合流点の先は大きな川そのものになるのよ」
やがてその川に、私の人生が大きな関わりを持つとは、夢にも考えませんでした。
仙南平野を木枯らしが吹き抜ける季節になりました。スミの姿が街角から消えて十日も経ちます。月曜から土曜まで、休まずに街頭に出ていたはずですのに…。裁判所近くに場所を移したのかも知れないと行ってみましたが、見当たりません。気になりました。
ある土曜日の午後、私は思い立って、ビラに書かれていたスミの住所を訪ねました。仙台市の北西にあたる郊外でした。戸口に立って声をかけると、奥からしっかりしたご本人の返事が聞こえましたが、姿が見えません。しばらくして、そろりそろりと玄関に出てこられました。以前からの腰痛が、このところの急な冷え込みで増悪したとのことでした。
居間に上げてもらい、近況から始まって、由太郎の事件の経緯を聞かせてもらいました。このような話は、読んだことも聞いたこともなかったので、理解できない単語もたくさんありました。聞くに堪えないひどい話で、溜息をつきながら耳を傾けました。
その三年ほど前に、冤罪の有力な証拠になるとみられた古い刃物が発見され、新たな証言も得られたのですが、最近になって刃物は鑑定不能という結果に終わったこと。また、再審へ向けて調査活動を続けてきた青森県の弁護士会が調査打ち切りを決めたこと。どれもこれも残念な結果となり、スミは大きな落胆を味わったはずです。でも、愚痴は一切口にせず、淡々と経緯を語るだけでした。そして、毅然としてこう結んだのです。「由太郎の遺言どおり、これまでと同じように、裁判所と世間様に無実を訴え続けていくだけです」
このとき、私が一番聞きたかったことを彼女は話してくれました。なぜ、出獄してきた由太郎と再婚する決心がついたのか、ということです。
働き者だった由太郎は故郷ではとても評判が良い人で、彼が身柄を拘束された後も、多くの人が「犯人は別にいる」「由太郎は冤罪だ」と考えていたそうです。それは一種の世論にさえなっていました。
スミも事件の詳しいことは知りませんでしたが、漠然と同じように考えていました。しかし、土地の郵便局長だった親戚が由太郎との結婚話を持ってきたときには、困惑して相当迷った、と回想していました。
中学校三年生だった誠一のほうは、母親の再婚そのものが嫌だったのでしょうが、相手がいわく付きの人物ということで、さらに強く反対したそうです。あるときには母親に殴りかからんばかりの見幕でくってかかり、怒鳴り散らしたといいます。
「選りに選って、人を殺して刑務所に入ってたやつと再婚するなんて! 俺は絶対嫌だ!」
しかし、スミは事件の経緯を由太郎本人から何度も聞いているうちに、間違いなくこの人は無実だ、と確信したのでした。
「琴線(きんせん)にふれるっていうのかねえ、心の底からとつとつと訴える由太郎の話に、私の心が共鳴したんだよ。理不尽すぎるいきさつには怒りが湧いたわね。私は思ったのよ、なんとか汚名を突き返させてやりたい。少しでもこの人の役に立ってあげたいってね。誠一も追い追いわかってくれると思っていたわ」
このようなわけで、誠一の気持ちとは裏腹の成り行きでしたが、ふたりは結婚し、由太郎はスミの伊藤姓を名乗りました。再審へ向けて新たな歩みが始まったのです。
再審の門を叩くには、新しい証拠が必要です。由太郎はスミをオートバイの後ろに乗せ、あちこち訪ね歩いたそうです。事件当時の捜査関係者から真相を引き出そうとしていたのです。驚いたことに、それらの人びとはみなおずおずと面談に応じ、居丈高な態度で拒絶する人などひとりもいなかったそうです。
そのころの大きな出来事として、東京のテレビ局が由太郎の冤罪を取り上げ、長時間の特別番組を放映したということがあったとのことです。結局、これが再審開始につながりはしませんでしたが、世の中にこんな理不尽な冤罪事件があったと知ってもらえる好機になったようです。
(つづく、原文縦書き、添付画像はfrom free 。本文内容とは関係ありません。オリジナル原稿には画像添付なし。 )