先日、書きました、コト殺人事件の冤罪を主張する仙台市の坂本せいいちさんのビラ!
「先だっての記事はこちら
いつまでも放っておくわけにはいかず、きょう昼頃までに何とか仕上げて印刷所へ送信しました。下に参考までに掲載しました。
多少なりとも当時の情勢を皆さまにお伝え出来れば幸いです。
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昭和十一年、
青森県五所川原で起きたコト殺人事件は冤罪です!
私は、強盗殺人犯の濡れ衣を着せられたまま死んだ義父坂本由太郎に代わり、真犯人金順慶(通名・金森正男)を追い詰め、犯行を自白させました。しかし、8回に及ぶ再審請求はすべて却下され、汚名を国に突き返すことは不可能となりました。直接の関係者はすでに死に絶え、司法的決着はついてしまった格好ですが、このような明白な冤罪事件に関しては、現在の司法機関にも少なくとも道義的責任はあるのではないでしょうか。(文中敬称略)
私はみなさんに知ってほしいのです。
こんな理不尽な冤罪事件が、この日本にあったことを!
コト殺人事件とは 二・二六事件が起きた昭和十一年(一九三六)の七月二十一日午前二時、当時の青森県五所川原町、岩木川にかかる乾橋のたもとで飲食店を開いていた若い女将相馬コトが自宅寝室で幼児と就寝中に殺害された。盗まれたものなどまったくなかったにもかかわらず、強盗殺人事件として取り扱われた。
コトの周辺にいた多数の人物がほぼ一斉に検束され過酷な取調べを受けたが、当時、酒類の配達を生業とし、仕事上コト方にもしばしば出入りしていた伊藤由太郎(のちに仮釈放された由太郎は、昭和三十四年、私の母坂本スナと結婚し坂本姓となる。私の実父は病死していた) は拷問につぐ拷問の中で犯人に仕立て上げられてしまう。凶器とされる「マキリ」も発見されぬまま、無期懲役の大審院、現在の最高裁の判決が確定する。由太郎は歯軋りしながら十二年超の服役に耐え、昭和二十三年、ようやく仮釈放で秋田刑務所を出る。
その後、由太郎、スナ、私せいいちの三人は、再審請求と併せ、この冤罪事件の真犯人を追い続けることを生涯の目的と定める。やがて私は、当時コトの飲食店の常連客だった金順慶(通名金森正男)の自白を得ることに成功する。また、この事件を予審判事として扱った、有名な松川事件控訴審・仙台高裁での誤判裁判官鈴木禎次郎にも仙台の自宅にて面談し、いったんは謝罪の言葉を引き出すことが出来た。
ところが、東京高裁は私どもの再審請求に対し、まともな審査をおこなおうとせず、結局、再審の扉が開くことはなかった。
この間、現テレビ朝日の前身、NETテレビの「奈良和モーニングショー」特番で詳しく取り上げられることもあった。しかし、生涯にわたって保護観察をつけられ選挙権さえ行使できなかった由太郎は昭和五十八年に死去、冤罪を訴えて仙台の街角に立ち続けた母スナも平成十年に世を去った。由太郎の最高最大の理解者であり、大恩人の元秋田刑務所看守で後に副検事となった佐藤正毅も今はいない。私も由太郎と親子縁組をしていなかったため再審請求権を継承できなかった。
一方、私どもの人権救済申立てに応じて日本弁護士連合会人権擁護委員会は、平成二十一年十二月、「再審請求支援をおこなうか否か検討する」と回答。翌年九月には、「当委員会にて調査をおこなう」旨の、この種事件としては異例の決定を通知してきたが、残念ながら沙汰止みとなってしまった。司法的手続きはすべて結了したことになったのである。
しかし、「真実はどこまで行っても真実である」という当たり前の観点から、私坂本せいいちは、生きている限り最高検察庁、最高裁判所その他の司法機関、捜査機関の明白な責任を追及し、謝罪を求め続けてゆく所存であります!
取調べは拷問につぐ拷問 由太郎に対する取調べは、「取調べ」などと呼ぶのもおこがましい拷問そのものだった。町の公会堂に留置された由太郎は、六、七人の刑事から文字どおり“不眠不休”で攻め続けられた。
耳元で大声で怒鳴りつける。「お前が殺したんだろう。」「凶器の刃物はどうした。」「この地下足袋に見覚えがないか。」
やったと言うまで、「殴る」「蹴る」「竹刀で叩きのめす」。柔道の技をかけて投げ飛ばす。顔も身体も青ぶくれに腫れあがった由太郎は、耐えがたい苦しみの中でのたうち回った。
また、岩木川の土手にも無残に連れ出された。夏場の川べり、ヤブ蚊が群れをなしている。そこに裸で放り出された。こうして、無理矢理、自供に追い込まれていく。
再審への執念 敗戦後の昭和二十三年に仮釈放された由太郎は、濡れ衣を着せられた怒りと共に地元北津軽郡鶴田町に帰り、赤貧の中で無実を証明づけるための証拠を探し続けた。しばしば、事件現場である五所川原に出かけて行き、それこそ一軒一軒虱潰しに訪ねては目撃者を探した。
由太郎は何を探していたのか? 真犯人は犯行当夜、コトを刃物で刺し、返り血を浴びたまま逃走した。地下足袋の足跡が残っていた。この凄惨な真犯人の姿を誰か目撃した人がいないか。それを探し続けた。
事件当夜の目撃 事件から五十年近くたった昭和五十八年になって、五所川原の高木誠三(仮名)という人物が次のような趣旨を証言した。
事件当時高校生だった誠三が、コトが殺された夜、自分の家の間借り人であった金順慶、通名金森正男が、シャツの胸に大きな血痕を付け、地下足袋をはいた姿で帰ってきたのを見た。しかし、翌朝、親から「何も言うな、関わり合いになるな」と口止めされ、長い間黙っていた。すまないことをした、と。
事件当時、コトの店の常連だったこの金森正男もまた、多数の被拘引者のひとりとして身柄を拘束されたが、しらを切り通したのだろう、拷問されたひどい姿ではあったがとにかく帰って来られた。誠三の目撃は、誠三の胸に深く仕舞い込まれ、表に出なかったからだ。かつて由太郎が事件当時の警察幹部を歴訪して捜査線上に浮かんだ人たちのことを尋ね、金森の放免についても詰問したことがあるが、その答えは、「当時、金森のアリバイを彼の同胞たちが強く証言し、それを突き崩せなかった」というものだった。
連れションの後の口止め 誠三はまたこんなことを明らかにした。敗戦後、東京に行くことがあった。この時、上野駅構内の公衆便所で、なんと隣り合わせて小用を足していたのが金森正男。事件後、五所川原を去り、公訴時効十五年を意識してか長い間雲隠れしていた金森がそこにいたのだ。誠三はあまりの偶然に口をあんぐり、金森の側も肝をつぶして恐怖に震え上がったのではないだろうか。
その証拠に、かつての夜、自分を目撃したことや、ここ上野駅の便所で出会ったことは誰にも言わないでくれと頼み、口止め料のつもりか誠三に当時の金で五円を差し出し、誠三はこれを受け取っている。当時の五円は価値があった。
北海道で金森と対決 ところで時期は前後するが、由太郎は服役中のある日、とんでもないことを思い出した。それは事件当日の昼間、近郊の祭礼へコトが出店した飲食店を手伝った際、同じく古着の店を出していた金森が、犯人の足跡とされた地下足袋と同じものを履いていたことだ。突然、映像として脳裏に浮かんだという。そして、金森こそ真犯人、との確信に至る。
仮釈放後、その金森の行方を突き止め、北海道室蘭市輪西町七条仲通りで古着屋を営んでいた金森方に行き、直接対決したこともある。昭和三十一年秋、数少ない理解者のひとりだった東奥日報記者・木村修一郎が書いた記事がきっかけで読者から情報が寄せられたのだ。新聞社の旅費負担で室蘭に渡った由太郎は、木村とともに金森と対面し、「お前がコトを殺した真犯人だ」と強く追及したが、結局このときは、のらりくらりと逃げ口上を述べる金森の首根っこを押さえることは出来なかった。
金森が間借りしていた部屋の床下から刃物発見 昭和五十八年七月二十一日、奇しくもコトが殺されたのと同じ日に、高木誠三宅の解体・新築の途次、かつて金森が間借りしていた部屋の床下から劣化した刃物が発見されるという衝撃的な出来事があった。先に述べた誠三の告白は、実はこの刃物発見という動かぬ事実に突き動かされたもので、これ以上沈黙は許されないという魂の告白だったのだ。
これより先、由太郎は、事件当時この部屋で金森と同居していた女性きよから事情を聴き取ることが出来ていた。きよの説明では、事件当夜、金森は押し入れの床板をはがし、穴を掘って何か刃物のようなものを地面に埋め、掘り返した土をかぶせていた、というのだ。
これを聞いた由太郎は再三、高木家に床下の掘削を懇願した結果、由太郎の亡くなった年の夏、念願の証拠物が姿をあらわした。読売新聞はこの出来事を大々的に特報し、時ならぬ新聞、通信社、テレビ各局の取材合戦が繰り広げられた。
現在であれば、おそらく朽ち果てる寸前の発掘刃物からでも、コトの血液やDNA等は検出可能なのではないかと思うのだが、結局決め手となる新証拠にはなり得ぬままに散逸してしまった。残念、無念である。
微動だにしない再審の門 私どもは、由太郎の無実・無罪を確信していたが、弁護士がいない。費用もない。自分たちだけで、再審を請求する以外に道はなかった。
東京高裁に対する再審請求申立は、平成十九年までに七回に及んだが、まともに扱ってもらったという実感は微塵もない。
とりわけ異様な印象が強いのは、東京高裁・船田三雄裁判長。船田は東京からわざわざふたりの書記官であるか事務官であるか、を伴って仙台高裁に出張してきた。そうして、私どもの請求申立の理由、事実関係をたったの一言も発言させず、問答無用、黙れと遮断し、東京に帰ってしまった。いったいなんのために仙台まで来たのか、いまだに苦い思いにとらわれる。
この船田の後に続いた東京高裁の裁判官で私どもの訴えに耳を傾けた者は、結局一人もいない。古い供述を読み飛ばし、一枚の紙に何行かの棄却文言を入れ、自己の立場を補強する検察の意向を付け足して、私どもに投げつけ門前払いにした。
これだけいい加減な捜査ででっちあげられた事件、恣意的捜査にただただ乗っかって無期判決を言い渡し、確定させた事件、コト殺人事件判決は稀に見る誤判と言うべきである。
決定的な証拠はない、凶器も出ない、拷問によって搾り出された自供だけがあるに過ぎない。
このように決定的な証拠もないのに、警察、検察、裁判所があたかも一体なのだと思わせるほどの連携ぶりで偽りの有罪を確定させたのだ。
しかも、一人の人間とその家族の人生を大きく狂わせた張本人の裁判所が、自らの誤りを訂正してもらいたいなら、「お前のほうで、新しい証拠を見つけて持って来い!」とふんぞり返っているのは、いったいどのように理解したらいいのだろうか。
私は叫び続ける、生ある限り!
(2017年9月記す。参考文献・拙著『誰がコトを殺したか』2009年文芸社刊)