西日本豪雨の惨禍に驚愕しています。犠牲になられた方々に哀悼の意を表します。
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退役後、隠棲した松井石根大将が昭和15年に建立
大将は南京事件の責を問われ極東国際軍事裁判で刑死
熱海から相模湾沿いの国道135号を小田原・東京方面へ走り、伊豆山交差点から上り道にさしかかると左手に「興亜観音前」というバス停があります。
このバス停からどういう道筋で観音に至るのか。ここ、6、7年ほど、伊豆と埼玉の往復時に、いつも気になりながら一瞬にして走り去っていた熱海伊豆山「興亜観音」に、先日、登ってきました。
敗戦後の東京裁判で刑死した7人の軍人・政治家のひとりで、いわゆる南京大虐殺の責任を問われた松井石根(いわね)大将が退役後に隠棲していた伊豆山の地に建立したということでした。いわば隠居していた大将は、敗戦時にここから法廷に引っ張り出されたわけです。
おらは10年ばかり前に、小林よしのり『いわゆるA級戦犯』というコミックを読み、伊豆のどこかに興亜観音というのがあることは知っていましたが、それがいつも通っている道の際にあることが分かったので、いっぺん立ち寄ってみたかったのです。
バス停手前を左折すると、ただちに急な坂道。狭い!果たして、ここは車が通れるのか、というほどの山道でした。
あえぎあえぎ、おらじゃなくて車がね、登りますと左右に道が分かれ、案内のお地蔵さんが立っていました。
これを右手に登っていくと、中腹と思われるわずかな平地に駐車場がしつらえてあり、ふりかえると熱海の海が一望されるのでした。
ここからは、今度はおらがあえぎあえぎ10分ほど登ります。「杖をどうぞ」とあり、無骨な手製の杖が10本ばかり置いてありました。
そうして、「もう、降参」というころ、急な山肌に立つ興亜観音に着きました。
常滑焼の観音像を見上げていると、後ろから声があり、老尼僧、ほんとに小柄なお方でした、がいつの間にか立っておられ、詳しく説明してくださいました。観音のお顔は、青年将校を模したものということでした。
どう撮っても、直立しているように撮れないのです。おらが立つ位置が斜面なのかも知れません。
てっぺんにはお堂があり、さきほどのご住職・妙浄尼はわざわざ錠を開けてくださり、法華宗の作法でお経をあげ、おらが線香を手向けるよう取り計らってくださいました。
そこで、おらとしては、「宗旨違いなんで、どうしたもんかな」とは思いましたが、この年齢で2度目か3度目の線香を手向けて、頭を垂れてきました。
線香は3本一緒に手向けよ、ということで、「佛法僧」の意味ということでした。
財布を持って登らなかったので、賽銭箱に何も入れられませんでした。それが気がかりですので、そのうち手土産でも持って、もう1回登ってみようと思っています。
興亜観音のウィキ記事はこちらから
ウィキ・「A級戦犯」の記事はこちら
参考
A級戦犯(Aきゅうせんぱん)は、 第二次世界大戦の連合国によるポツダム宣言六條に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項により定義された戦争犯罪に関し、極東国際軍事裁判(東京裁判)により有罪判決を受けた者である。
条例では、a.平和に対する罪、b.(通例の)戦争犯罪、c.人道に対する罪の3つの罪が記載されたが、英語原文でこれらがabc順になっているため、項目aの平和に対する罪で訴追された者を「A級戦犯」と呼ぶ。
項目b、項目cで訴追されたものをそれぞれB級戦犯、C級戦犯と呼ぶが、そのほとんどがB級戦犯(通例の戦争犯罪)であった。
上記ウィキ抜粋のようにA、B、Cという区別は、犯情の重い、軽いではなく、問われた罪の性質によるものです。
松井大将はA級戦犯容疑で逮捕されましたが、これについては無罪。B級に該当する南京事件の責任を問われて有罪となりました。従って、「B級戦犯」ということになります。
7人の死刑判決・執行のうち、松井と広田弘毅元首相に対する判決・執行について、世論は大変同情的であったということです。
この度のオウム7人死刑執行の「7」と符合して、妙な感じが致します。