6/12(月)22:00から2006FIFAワールドカップ・F組「日本×オーストラリア」が始まったが、自分は以前から国別対抗戦に反対だ。国別ではなく、既存のインターナショナルな混成チームで出場して欲しい。プロ・アマのチームが世界中にありながら、わざわざこのワールドカップの為に、新たに国別チームを編成をする。そして、国旗掲揚・国歌斉唱だ。殆どの国は軍旗を国旗に、軍歌を国歌に使用している。
天皇制国家のシンボル・太平洋侵略戦争の日本軍旗「日の丸」、天皇制讃美を歌う「君が代」。スポーツを政治に利用するな。「オリンピック・ワールドカップ・世界選手権」等「国境のないスポーツ」を「国別対抗戦」にするのは反対だ。ベースボールの国別対抗戦「WBC(World Baseball Classic)」も今回のFIFA(国際サッカー連盟:Federation Internationale de Football Association)も同様だ。
侵略軍・天皇制国家・右翼の象徴「日の丸」・一宗教一家系の特権的階層・差別的象徴「天皇制」賛美の唄「君が代」を掲げるのはおかしい。地区地域への「愛着心」を「愛国心」にすり替える政治的意図が感じられる。「愛国心」は「戦争」に利用される。ナショナリズムではなく、インターナショナリズムへ。
「王ジャパン」「長島ジャパン」「ジーコジャパン」という呼び名も選手主体ではない表現方法だ。今回のFIFAでは封建制の「サムライ・ブルー」という言葉まで作られている。
オリンピックも同様だ。過去ナチスのヒトラーは1936年ベルリンオリンピックを政治的に利用した。1980年モスクワオリンピックも1984年ロサンゼルスオリンピックも東西冷戦でボイコットを行い政治に利用した。
2006年度予算案で皇室費が71億円、宮内庁費が110億円、皇宮警察の86億円(2005年度予算)、合計267億円。皇族は23人なので一人あたり年間11億6千万円以上。全国各都道府県警が皇族警備に使う費用、自治体が用意する日の丸の小旗代金等もプラスすると、一人の皇族の為に、月1億円も浪費しているのだ。一宗教一家系の特権的階層・差別的象徴の天皇一家の為に、税金の無駄使い、国家予算の浪費は怒りを覚えるだけだ。さらにこの財政状況が厳しい折に5,000万円もする高級車を5台も新調しているらしい。
今日の試合で「あなた」の応援している「日本」あるいは「オーストラリア」は、「国民の支配機構としての国家」なのか?それとも住んでいる郷土としての「日本」「オーストラリア」なのか?それとも知っている選手が多いチーム「日本」「オーストラリア」なのか?もう一度考えて欲しい。
今、支配階級はスポーツも政治に利用し、憲法も教育基本法も改悪しようとしている。「愛着心」を「愛国心」にすり替え、「愛国心」をあおり憲法を改悪し、「戦争」のできる国家にしようとしている。「あなた」は徴兵制をひかれ人殺しをする事に賛成するんですか?支配階級にだまされてはいけない。
国家主義スポーツイベント=ワールドカップ批判
サッカーW杯の脅威(イスクラ:火花)
スポーツの国別対抗戦に反対
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国家主義スポーツイベント=ワールドカップ批判 かけはし2006.6.19号
「サムライブルー」なんてゴメンだ
「武士道」の鼓吹と「愛国主義」の浸透
「国民的一体感」の興奮がつくり出す政治キャンペーン
スポーツイベントがはたす効果
世界最大のスポーツイベントである「ワールドカップ」が始まった。「日の丸」を頬にペイントした「ニッポン、ニッポン」の喧騒が新聞、テレビをはじめとしたあらゆるメディアを占拠する、あのうっとうしい季節がまためぐってきた。
四年前、「日韓ワールドカップ」への鋭い批判を本紙上で展開した高島義一は述べた。「スポーツを自ら実践し、あるいは観客としてゲームを楽しむのは、労働者人民の権利である。しかしサッカー・ワールドカップは、オリンピック以上に国家主義的なスポーツの祭典である。『日本チャチャチャ』『がんばれ日本』と浮かれているわけにはいかないのである」(「ワールトカップ批判」本紙02年5月27日号~6月10日号、新時代社パンフ『オリンピックもワールド・カップもいらない』と『右島一朗著作集』に再録)。
日韓ワールドカップの終了後まもなく刊行された香山リカの『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書ラクレ)は、屈託なく「ニッポン大好き」と語る「若者たちのニッポン主義」への危機感を提示した。
「愛国ごっこ。民族主義のパロディー。/あれは、本当にそうだったのだろうか。彼らは、『これって芝居だから』と自覚した上で、あえて『日の丸』を振り、『君が代』を大声で歌ったのだろうか」。
香山の答えは否定的である。「自己相対化の視点が欠如している」若い世代が、「『身体が健康なのが何が悪い?』『お金もうけのどこがいけない?』という非常に現実的な、ほとんど身も蓋もないほどの価値判断の延長として『自分の国が強くなってどこが悪い?』とごくあたりまえのことのように口にしたのではなかったか」。
四年前と比較していまや「がんばれ日本」のナショナリズムにかかわる状況は、より深刻なものになっている。「日の丸・君が代」の強制や「愛国心」を強制する教育基本法改悪案の上程、小泉の靖国参拝にあおられ、「嫌中」「嫌韓」の感情をなんのためらいもなくあらわにする若者たちの登場は、「ぷちナショナリズム」を超えて真正排外主義の色合いすら強めているのではないか。
「愛国ごっこ」のレベルではない。世界的なスポーツイベントにおけるナショナリズムへの批判意識ぬきには、「オリンピック愛国主義」「ワールドカップ愛国主義」は、そのままきわめて政治的な「愛国主義」「排外主義」と直結せざるをえない。多くの人びとが夢中になるスポーツイベントだからこそ、それが醸しだす「民族的・国家的一体感」の興奮が強烈な政治的作用を果たすことに、自覚的でなければならないのだ。
ナチスとドイツのサッカー
ワールドカップの「国家主義スポーツイベント」としての性格を把握するに際して、ドイツサッカー界とナチスとの関係についてもふれておくべきだろう。
今年のワールドカップの招聘合戦において、後から名乗りを上げたイングランドは対抗馬と目されていたドイツに対して「歴史の検証が終わっていないのではないか」と批判した。それは言うまでもなくナチス・ドイツとサッカーとの関係の歴史的総括を迫るものだった。
その典型が一九三〇年代にドイツチームの主将をもつとめた名選手フリッツ・シェパンの場合である。ワールドカップ開催地の一つであるゲルゼンキルヘンのクラブチーム「シャルケ」で活躍したシェパンは、ナチスが政権を取ると「シャルケ」のクラブハウス内にあったユダヤ人商店を不買運動で立ち退かせ、残された店舗を自ら安く買い取って大儲けをした。「シャルケ」の優勝式典は「かぎ十字」の旗と「ハイル・ヒトラー、ハイル・シャルケ」の連呼に覆われた。
ヒトラーの政権奪取後、サッカーを含めた主要なスポーツクラブの会長にはナチス党員が就任した。一九三三年十月に国際連盟を脱退したナチス・ドイツにとって、サッカーの国際試合は有力な外交手段となった。サッカー選手は「外交官」としてナチス・ドイツの近隣諸国への侵略的意図を覆い隠すために利用されることになった。
第二次大戦後の一九五四年のワールドカップ・スイス大会でドイツチームを優勝に導いた監督のゼップ・ヘルベルガーは一九三三年に入党したナチス党員であり、その見返りに代表監督の地位を獲得し、ナチスのプロパガンダ映画の制作にも協力した。ナチスとドイツサッカー界の関係を検証した初の著作として昨年刊行された『かぎ十字の下のサッカー』の著者、ニルス・ハーベマンは「ナチスがサッカーを利用することに、協会やクラブといった組織、選手が同意し、協力的に仕事を進めた。その結果、後押しを受けた」と述べている。
しかしこの検証作業は始まったばかりである。日本対クロアチア戦が行われるニュルンベルクのフランケン競技場などにはナチス党大会の会場だったことを示す案内板が建てられ、「負の遺産」について解説しているという。
サムライと今日の思想状況
ところで今年のドイツ・ワールドカップの日本チームには「サムライ・ブルー」の呼称が飛び交っている。ここでは「サムライ」が日本的アイデンティティーを代表するものとしてイメージさせられているのだ。
時あたかもベストセラーとなった藤原正彦の『国家の品格』(新潮新書)は、新渡戸稲造の『武士道』を引き合いに出しながら日本人が依拠すべき「行動基準、判断基準となる精神の形」=道徳として「武士道精神」を称揚しており、教育基本法改悪を推進する保守政治家や評論家たちが、藤原の言葉をおうむがえしにしている。作家の藤沢周は「私は普遍主義の新渡戸でもなく、対極の国粋主義でもなく、あえて『侍イレブン』なる語を誤読して、実戦としての武道のやり方、勝ち方として、日本代表の二三人には『侍』になってもらいたいのである」と述べ、「頼む、侍! 侍ブルー!」などと、それこそ情緒的にわめきたてている(「毎日」6月5日夕刊「いざ決戦・侍ブルー」)。
われわれはこうした「サムライ精神」を日本の代表チームにかぶせて、ナショナリズムを煽り立てる風潮への批判精神を磨いていかなければならない。言うまでもなく「武士道」や「サムライ精神」は、封建支配階級の人民抑圧・統合のイデオロギー体系である。人口のわずか一割にも満たない武士の、支配階級としての「精神訓」を、私たち自身の「伝統精神」としてなんでもてはやさなければならないのか、という疑問はあまりに素朴すぎるのだろうか。
新渡戸は「武士道」を次のように説明していた。
「我々に取りて国土は、金鉱を採掘したり穀物を収穫したりする土地以上の意味を有する――それは神々、すなわち我々の祖先の霊の神聖なる棲所(すみか)である。また我々にとりて天皇は法律国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者(パトロン)でもなく、地上において肉身をもちたもう天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもうものである」「神道の教義には、我が民族の感情生活の二つの支配的特色と呼ばるべき愛国心および忠義が含まれている。……この宗教――或いはこの宗教によって表現せられたる民族的感情といった方が更に正確ではあるまいか?――は武士道の中に忠君愛国を十二分に吹き込んだ」(『武士道』岩波文庫)。
彼にとっての「武士道」と神道主義・天皇制とのストレートな関係がここで明確に示されている。新渡戸はさらに述べる。
「過去の日本は武士の賜(たまもの)である。彼らは国民の花たるのみでなく、またその根であった。あらゆる天の善き賜物は彼らを通して流れ出た。彼らは社会的に民衆より超然として構えたけれども、これに対して道義の標準を立て、自己の模範によってこれを指導した」。
「武士道はその最初発生したる社会階級より多様の道を通りて流下し、大衆の間に酵母として作用し、全人民に対する道徳的標準を供給した。武士道は最初選良の光栄として始まったが、時をふるにしたがい国民全般の渇仰(かつごう)および霊感となった。しかして平民は武士の道徳的高さにまでは達しなかったけれども、『大和魂』は遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」。
「武士道」=「サムライ精神」は「忠君愛国」の情であり、それは日本の「民族精神」であるというこの新渡戸の主張は、まさに教育基本法改悪案をつらぬくイデオロギー的核であり、「サムライブルー」のキャッチフレーズがそれを通して醸成しようとする心情でもある。だからこそわれわれはこうしたキャンペーンを座視するわけにはいかない。「ワールドカップ」の国家主義的政治に対する批判を続けることをやめるわけにはいかない。
「サムライブルー」なんてゴメンだ!
(6月10日 坂口民雄)
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瀬奈 優さんのブログ「イスクラ:火花」2006年06月18日
サッカーW杯の脅威
世間は、サッカーワールドカップ一色である。オリンピックもそうだが、サッカーの国際試合となると、「日の丸」が打ち振られ、サポーターたちが「君が代」を大合唱する。中田英寿がかつて「『君が代』は戦意がなえる」というような趣旨の発言をしたとき、民間右翼が彼を脅迫するような行動に出た。普段はあまり意識しないであろう「日の丸・君が代」が全面的に押し出される。こういったファシズム的な「ノリ」に脅威を感じる。
日本では中国や朝鮮民主主義人民共和国・韓国などを槍玉にあげて、「行き過ぎた民族主義」などとマスメディアで報道されている。しかし、天皇を賛美する「君が代」や「日の丸」を教育現場で強制している東京都をはじめとする日帝の権力者はそのようなことを言う資格はない。
サッカー日本代表のエンブレムの「八咫烏(やたがらす)」は、神武天皇の神話に出てくる烏であり、天皇制の象徴だ。スポーツの世界にまで天皇制を持ち込んでいる日帝。それは国家権力による強制と民間反革命・右翼のテロルによって支えられている。日本労働者階級(帝国主義諸国の労働者階級)にとってこのファシズム的意識の克服は、非常に目的意識的な闘いであり、民族主義克服の重要な闘いである。
被抑圧民族人民にとっての「国旗」は民族独立の象徴的意義を持ってはいる(もちろんそれもプロレタリア革命によって止揚されるべきものではある)が、帝国主義にとっての「国旗・国歌」は他民族抑圧の象徴である。この意識を克服するのは簡単ではないが、革命にとって必須不可欠の課題である。日本労働者階級は改憲阻止決戦を闘う中で、必ずや「国旗・国歌」意識との闘いに勝利する道を切り開くだろう。
蛇足だが、郷ひろみが「君が代」をサッカーの試合で歌ったことがあった。『2億4千万の瞳』でも歌えばよかったのに。
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