Jesus loves you

イエス・キリストを通して知る神様の愛についてのシェアリング

5枚目のカードは、The Wild Card

2014-02-01 21:42:35 | Weblog
5枚目のカードは、The Wild Card、つまり「オールマイティ」、すなわち、自分自身の選択。

私達は、素晴らしく複雑に作られている(詩編139:14) 神様があなたを作った目的に達成するためには、自分の人生をすべての次元から見ていく必要がある。そして自分を作り上げるのに影響している5つの要素を理解しなければならない。1枚目:自分の性質、2枚目:関係、3枚目:環境、4枚目:自己認識が私達を形作っていく。
これらのカードをトランプのポーカーゲームに例えるなら、5枚目のカードはWILDカード、つまり「オールマイティー」となる。何故なら、そのカードは自分の選択となるし、このカードが他の4枚にも影響するから。自分のところにどんなカードが回ってくるか分からない、つまり自分の人生は自分では好きにできない。しかし、WILDカードを使うことによって、自分の生き方を変えることができる。つまり、自分の選択によって人生は変えられる。

聖書には私達は神様に似せて作られたと書いてある。他のどんな動物も善悪の違いを理解することができない。しかし、人は善か悪かを選択できる。この選択の自由が与えられていることは人にとって、恵みではあるが、同時に呪いともなる。何故なら、我々は自分や周りの人たちを傷つける愚かな選択をしてしまうから。

WILDカードはトランプの組ふだを変えることができるし、枚数も変えられる。あなたは自分の持って生まれた性質は選択できなかったが、自分の体をどうするかを選ぶことができるのだ。関係を選択できないが、新しい関係を作れるし、これまでの関係を修復できる。自分の環境にどう反応するかを選ぶことができる。また、他の人が自分に対して言う傷つくようなことを真に受けるのを止めることができる。

あなたの個性はあなたの選択によって作り上げられる。今日の選択が将来のあなたを作り上げるとしたら、あなたはどんな選択をしますか?

DAILY HOPE BY RICK WARREN JANUARY 19, 2014を翻訳。

私を作る5枚のカード・・・その2、3、4枚目

2014-01-26 19:54:40 | Weblog
私を作る5枚のカード

2枚目のカード・・・connections, relationships

「関係」とくに幼少のころの関係
自分をどのように見るかは、自分が最も大切にしている人が、自分をどう見ているかで決まる。
関係が自分の人生の意味、目的、個性をつくる。
関係の欠如、不健康な関係は生きる意味に影響する。
なぜなら、人生は「関係」であるから、「愛」であるから。
しかし、私達は誰もが完璧でないから完全な関係も無い。これが問題を作る。
アダムとイブは最初は完璧だった。アダムが罪を犯すと、イブのせいにした。この女を与えたのはあなた(神様)だと言った。

「関係」の問題
(1)私達は他の人を責め、自分に言い訳をする。そうすることで関係が壊れる。
(2)罪が神様との関係を壊す。互いの関係も壊す。罪を犯すと、隠す。アダムとイブはふたりとも裸だったのに、裸は悪い、嫌だ、恥ずかしいと思い、さらけ出すのをやめる。自分自身の弱さを、欠点を隠す。最も愛している人の前でも、つくろう、隠す、それが「罪」。互いにリアルではなくなる。
(3)関係が薄れていくほど、恐れるようになる。関係の欠如は恐れを生み出す。神様との関係から離れたと感じると、神様が怖くなる。相手から離れたと感じると相手が怖くなる。関係が欠如したまま恐れを持って育ていくと、他の人を信用するのが難しくなる。人との関係を恐れる性質となってしまう。

ジレンマ
私達は「関係」を渇望しているのに関係を作ることを恐れてしまう。拒否されることを恐れる。親密になることを恐れてしまう。そういう性質となる。

3枚目のカード・・・circumstances
「周囲の事情」「環境」「めぐり合わせ」「身の上」「境遇」「暮らし向き」
自分自身や、身のまわりに起こったこと、自分ではどうしようもなかったこと、自分でコントロールできなかったこと、だけれども、自分の身にふりかかったこと。
拒絶されたこと、トラウマ、問題、恥、ショック、ストレス、プレッシャー、傷ついたこと、災害、虐待、失敗、危機などが自分の性質を作る。

4枚目のカード・・・my consciousness
「自分についてどう思っているか」
私達はいつも、自分で自分へ話しかけている。自分自身が一番厳しい批評家である。しかしながら、いつも自分に嘘をつく。自分にとって真実でないことを言い、それを信じてしまう。
自意識が自分の個性に影響している。
他の人が自分をどのように言ったのかを集めて、それらを取り出しては何度も思い返す。それらはどんどん自意識の深いところに行ってしまう。
自分で繰り返す思いや考えが自分の個性を作ってしまう。
箴言23:7 人の心の中で思うことがその人自身である。
箴言4:23 自分の考えを警戒しなさい、何故なら自分の思いが人生を作るから。
私達の思いは、必ずしも真実ではない。
自分の人生を変えたいなら、自分の考え方を別の方向へ向けることだ。
自分の考えや、他の人の意見はいつも真実だとは言えない、だからそれらを信じる必要はない。
「できない」「こわい」と思ったらそうなってしまう。
恐れに支配されていると恐れていたことが本当に起こってしまう。(ヨブ3:25)
自分の感情は、真実ではない。むしろ、よく嘘をつく。
自分の意識、考え、感情が自分自身を作る。だから注意しなくてはならない。


God made you wonderfully complex

2014-01-17 14:37:17 | Weblog
Pastor Rick Warren's 2014.1.15 daily devotionalから学んだこと。

詩編139:14から、私達は神様の創った素晴らしい複合体。私達は複雑であるからこそ、自分たちの人生を一つの次元からではなく、多次元から見ていく必要がある。つまり、自分の人生のすべての要素を見る。
コヘレト7:18から、神様の御心にかなった者になるためには、自分のすべてについて向き合い、取り組む必要がある。
「タラントン」のたとえ話で、神様は3人のそれぞれに異なったタラントン(賜物・タレント)を与えた。タラントンを預かって増やした人のことを神様は喜んでおられたが、何もせずにそのままにしておいた人を諌めた。私達は与えられてないことばかりに目を向けすぎるきらいがある。でも、与えられていない者には責任をとる必要はないが、与えられたものには、責任を取るべきである。十二分に生かす、役立てる、増やす、大きくする、少なくともそうしようとするべきである。神様とまみえるとき、きっと神様は私達に問うでしょう、与えられた賜物をどう生かしたのかと。
また、私達は与えられる賜物を選べないが、与えられた賜物が私達を形作る。トランプゲームのように、どのカードが配られるか分からない。でも、配られたらそのカードを受け入れ対処しなければならない。5枚のカードが配られたのなら、それぞれが自分を作り上げる。気に入らないカードがあっても、それも自分を作り上げるもの。

1枚目のカードは、chemistry
私の気質・性格・・・私が醸し出す雰囲気、私の体、顔、声、しぐさ、言葉などなど、生物学的レベルで私を作り上げているもの。生まれつきのもの。その善し悪しは関係ない。何故なら、神様だけが完全で、人は誰もが不完全だから。すべての人が罪み人で、善い人は誰もいないから。しかし、私を形作る要素の不完全さ、欠陥が自分の様々な問題を作ることは確かだ。感情的、身体的、精神的な問題を作る。自分自身の言動や思想に影響する。どんな体でも気質でも欠点がある、だからどの欠点も恥じたり、罪を感じる必要はない。たとえば、私が病気になったら、「○○病にかかってしまった私」として自分を恥じる必要はない。でもその病気は私を形作る一要素である。パウロに与えられた「とげ」のように、弱ささえも、欠点さえも誇りに思いたい(第2コリント12:7-10)つまり、欠点が私の個性、私はB品、でも、これは一点もので神様はその価値を認めている。「わたしの目にあなたは値高く、貴くわたしはあなたと愛し」ている。(イザヤ43:4)

2007/10/28

2007-10-28 23:21:49 | Weblog

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば
見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」エレミヤ書29章11~14章

主がこう約束しておられるのだから、将来に希望を持とう。たとえ、現在の状況が最悪であると思っていても、神様のお約束を信じよう。いつまでも雨は降り続くことはない。いつかきっと晴れる。そう信じて待つ。不安を抱えながらではなく、疑いながらでもなく、嘆きながらでもな
く、期待して待つ。でも、どうしてもそれを信じられないときはただ天に顔を上げ、神様を仰ぎ見よう。ほら、真っ暗闇ではない。かすかでも光がある。その光に希望を持とう。そうすれば、だんだんと明るくなってくる。流した涙も乾いてくる。そうして手を天に伸ばせば、イエスが
手をとってくださる。
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主に愛されて安心する

2007-04-12 11:04:04 | Weblog
「主われを愛す
 主は強ければ
 われ弱くとも
 おそれはあらじ
 わが主イエス
 わが主イエス
 わが主イエス
 われを愛す」

大好きな賛美歌の一つです。
イエスが私を愛してくれていること、弱いときでも、ダメなときでも、どんなときでも、無条件に私は愛されている。
そう信じられて実感できることは、ホントに幸いなことです。
現実の世の中は大変な事件や問題が毎日起こって、人々はストレスにさらされています。誰もが将来に対して不安を持ってしまう中、本当に心から安心できるのは、イエスの愛。
ありがとう、イエス。


Serving God

2007-01-11 23:50:35 | Weblog
2007年は神様に仕える年にすることにしました。
年が明ける前にすでに聖霊が降って、すべての人たちに仕える者となりなさいと言われました。しもべとして生きることを、どの場所でも、どんな人にでも、実践していきたいと思います。
昨年を振り返って、神様は私にいろいろなことを学ばさせてくださいました。特に、人間関係において、深く関わること、助け合うこと、弱さを見せること、他の人を自分よりも優れた者と思うこと、どんなときにも愛することを選択することを教えていただきました。
ここ数年の私の課題は、聖書の教えをいかに日常生活で実践するかでした。教会の中とか、クリスチャン同士の関係においてだけでしか、神様の御言葉が有効ではないというのはおかしなことだと思っていたからです。日常生活において、少なくとも3分の1は仕事場にいて、そこで御言葉を行えないのであれば、人生の大半は神様の教えとは関係のない時間となってしまいます。聖書の言葉が真実だと、身をもって体験したいという気持ちもあります。だから、そのためには、御言葉をどこでも行う必要があるのだと思いました。
職場ではイエスのように働き、友達や家族との関係においてもイエスのように関わることによって、日常で関わる知らない人達にもイエスのような態度でいることによって、すべての人たちのしもべとなれるし、御言葉を行うことができるのではと思いました。
もちろん、簡単なことではないです。私らしくないことでもあります。やりたくない時もあると思います。でも、しもべになりたいです。私が世に知られるとしたら、どういう人と言われるとしたら、あの人はクリスチャンよ、と言われる者になりたいです。
神様の助けをたくさんいただいて、しもべになりたいです。

仕事と神様

2006-05-17 21:09:43 | Weblog
今年のテーマ聖句として私が選んだのは、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(コロサイ3:23)です。なぜなら、ここ数年の私の生活の中に神様を意識する時間よりも、神様以外のこと、特に仕事を意識する時間のほうが圧倒的に多いことに気づき、なんとか逆転しなければと考えていたからです。ともすれば、日曜の礼拝の時間しか神様のことを考えてないような状況があり、霊的な渇きを覚えていました。でも、日々の生活に追われとにかく目先のことを片付けていくうちに、これではおかしい。神様が近くに感じられないのは、自分の生活態度のせいだと気が付きました。いくら、朝早くおきて祈りの時間や聖書を読む時間をもっても、家を一歩出たら、さっき学んだ霊的なことはすっかり忘れて世の煩いの中にどっぷり漬かっている自分を発見しました。つまりは、神様との時間とそれ以外の時間とを分けているからでした。24時間の中にいつも神様が存在しているようになりたい、そう思った時に、この聖句に出会いました。

Lifestyle

2006-01-01 23:19:14 | Weblog
新年に向けて今年は何をしたい、こういう願いを叶えてもらいたいとか思ってきましたが、今年からは目先のことだけでなく、5年後、10年後には自分はどうなっていたいかを考えたいと思いました。それが何であれやっぱり、生きる目的に基づいた計画であるべきだと思います。

「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(2コリント5:15)

イエスの為に生きる・・・これに尽きるのです。

そして、「イエスのために生きるには何をするか」を考えて計画をたてていきたいです。

私たちの命はいつ消え去るかわからないのです。日々、生かされていることに感謝を持ちたいと思います。「主の御心であれば、生き永らえて、あれやこれやのことをしよう」(ヤコブ4:15)「あれやこれや」をする自由は与えられています。それを可能にしてくれる、才能、知識、経験、人脈など必要なものは神様がすべて整えてくださいます。

すべてのことをイエスの為に、神様に栄光を帰すために行い、人生を楽しみたいです。


Act of God and an act of art

2005-12-10 20:04:36 | Weblog
神様は私たち一人一人に賜物を与えてくださった。いろいろな賜物があるけれども、そのどれも素晴らしく、どれも大切なもの。何故なら、神様は私たち一人一人に価値を置き、大事に思ってらっしゃるから、それぞれの持っている賜物も大切だと思っていてくださるからだ。
アートの賜物は、人間の社会では往々にしてその評価がまちまちである。今は偉大なるアーティストとして世界的に有名で高い評価を受けている方でも、生前はまったく評価されず貧しく暮らしていたというようなことはよくある話だ。現在でもアートへの評価はその人の評判、名声、収入などで計られている。
しかし、神様はどういう見方をするのだろうか。その人にアートの賜物を与えたのは神様なのだから、神様御自身がその賜物に優越をつけるのだろうか。そんなことはないはずだ。だから、人からの評価によって自分のアートの賜物を評価する必要はないと思う。
では、神様は何故アーティストにアートの賜物を与えたのだろうか。創世記に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(1章31節)と書いてある。つまり、神様は御自分が楽しみたくって、この世界のすべてのものを作ったのだと解釈してもいいと思う。だから、アーティストの作り出すアートを楽しむためにアートの賜物をその人に与えたのだろうと思う。
であれば、アーティストは神様に対して何をすべきかというと、与えてくださった賜物を十分に生かして、神様に栄光を帰すべきだと思う。「栄光」というからには凄いことを成し遂げなければと思ってしまう。でも神様の凄さを越えるものなど作れないし、神様はそういう凄さを求めていないことは明らかである。そして神様は人間と同じ評価の基準をもたない。私が思うに、アートの賜物を受けた人は、自分がいただいた賜物に感謝して、自分の賜物を無駄なく使って、自分の作り上げたアートで自分も周りの人たちも楽しませることができれば、神様は喜んでくださると思うのだ。
「主はお前のゆえに喜び楽しみ
 愛によってお前を新たにし
 お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」
 (ゼファニア書3章17節)

あの人たちはどこにいるのか

2005-11-26 14:45:11 | Weblog
新共同訳、ヨハネによる福音書8章1から11節に登場する女性には、「姦通の女」という名がつけられている。(私の持っている聖書では1987年改訂版ではそうなっているが、最新版においてはその呼び方は変えられた。)

この女性は「イエスを試して訴える口実を得るために」使われたのだと思う。姦通罪は当事者双方に罪が問われるはずなのに、女性の方だけ捕まった。男性はどこに行ったのかと思うと、捕まえた側の策略を感ぜずにはいられない。私が今日ここで気になったのは、この女性を訴える側の人間の気持ちである。彼女を捕まえ、イエスのところに連れてきたのは、律法学者とファリサイ派の人たち。私には彼らの気持ちがよく分る。「我々は正しいが、この女は罪にまみれた悪人、最低の人間。この女は石で打ち殺されて当然。」

律法学者やファリサイ派はイエスを神様の子と信じていなかった。訴えている相手が本当は誰だか知らなかった。訴える相手が人間であるからこそ、自分達の正当性を主張した。
しかし、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉の前で彼らは屈服するしかなかった。イエスが誰であろうと、この言葉は真実で、どんなに悔しくとも、どんなに自分達と比べて彼女が立派な人間ではないと思っても、石を投げることはできなかった。

「初めにことばがあった」神様はことばだ。目に見えなくても絶大な力をもつ。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
この真実のことばがこの女性を救った。それはどんな同情のことばや思い遣りよりも彼女にとって助けとなったことだろう。

愛をもって真理を語ることが、人にとって一番の助けとなることをイエスから学んだ。それは、勇気がいることだ。相手の罪が見えたなら指摘して、悔い改められるように助けてあげたい。けれども親しい相手ほどそうするのは難しい。勇気がいる。自分の心も吟味される。相手を単に裁くためだけに言おうとしているのか、愛しているからなのか。そのときに「わたしもあなたを罪に定めない。」と言ったイエスの謙虚さを思い出す必要がある。イエスこそが唯一彼女を罪に定めることができる存在なのにイエスは赦しを与えた。私には石を投げる資格はないけれども、相手を助けてあげたいという思いが真実を語る勇気を生み出すと思う。

私は自分のことを振り返って思う。自分の正当性を訴え出る時、いったい誰に向かって訴え出ているのかを考えるべきだと。神様の前では誰も正しくない。他の人の過ちを見て、他の人より自分が優れていると思うのはおろかだ。間違いだらけ、罪人だらけの人々とつきあい、その人たちを心から愛していたイエスからもっと学びたい。