神様を愛するにはどんな方法があるのか考えてみました。毎日、イエス・キリストとともに歩んでいるという実感がないからです。どうしてなのか。
私は出掛ける時必ず持って行くものがあります。携帯電話、財布、定期券、家の鍵は絶対です。でも、もしこれらの内どれかを持ち忘れたら動揺します。落ち着かないし、心配だし、不安だし、目の前の用事に集中できなくなります。場合によっては家に引き返します。
それなのに、イエスを忘れても平気です。いかに自分本位で生きているんだろうと思います。言い訳しますけど、これが自然なのかなと思います。普通にしていると、自分のことばかり考えている。目の前に誰かが現れたり、用事があるとそれに気を遣いますが、イエスの事は思い出しません。
イエスを自分の主として受け入れたのに、イエスを自分の人生のパートナーと思いたいのに、日常ではイエスを無視しています。朝に聖書を読んで祈りをささげても、一歩外に出たら忘れてしまうのです。自分の人生の真ん中にイエスがいるべきなのに、イエスは家に置いてけぼりです。帰宅してイエスに今日会ったことを報告したとしても、それは事後報告です。最初から私の人生に参加してもらってはいません。
そんなとき、イエスはどんな気持ちなのでしょうか?いつも置いてけぼりにされてしまうのです。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコによる福音書12:30)
イエスを愛する為には、心と、精神と、思いと力を尽くさなければできないから神様はこのように命じたのだと思います。そうです、イエスは空気じゃないので「意識して」取り入れなければ、日常に入ってこないのです。ここで注意してほしいのは、イエスは私たちひとりひとりに関わりたいと思っておられるけれども、私たちが入口を閉めているのです。だから、心を開いて、意識して、イエスと日常を歩むようにする工夫が必要なのだと思います。私たちは生きるために食事するけれども、イエスは絶対に食べなければ生きて行かれないものだと考えるといいと思います。サプリメントみたいに補助食品でもないし、デザートなどのように余裕があれば食べるものでもないのです。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』」(マタイによる福音書4:4)
もしかしたら、イエスという主食は食べずに、おかずや補助食品だけで食事を済ませていないだろうか。出かける時、携帯電話などは忘れないように注意を払っているのに、イエスはどうして置き去りなのだろうか?そんな態度でイエスは愛されていると感じられるだろうか。
要するに自然にイエスを愛することは、私には不可能なのです。だから、意識して「持ち歩く」ようにすることから始めたらいいのかなと思います。持ち物リスト:イエス、携帯電話、財布、定期、家の鍵・・・。
私は出掛ける時必ず持って行くものがあります。携帯電話、財布、定期券、家の鍵は絶対です。でも、もしこれらの内どれかを持ち忘れたら動揺します。落ち着かないし、心配だし、不安だし、目の前の用事に集中できなくなります。場合によっては家に引き返します。
それなのに、イエスを忘れても平気です。いかに自分本位で生きているんだろうと思います。言い訳しますけど、これが自然なのかなと思います。普通にしていると、自分のことばかり考えている。目の前に誰かが現れたり、用事があるとそれに気を遣いますが、イエスの事は思い出しません。
イエスを自分の主として受け入れたのに、イエスを自分の人生のパートナーと思いたいのに、日常ではイエスを無視しています。朝に聖書を読んで祈りをささげても、一歩外に出たら忘れてしまうのです。自分の人生の真ん中にイエスがいるべきなのに、イエスは家に置いてけぼりです。帰宅してイエスに今日会ったことを報告したとしても、それは事後報告です。最初から私の人生に参加してもらってはいません。
そんなとき、イエスはどんな気持ちなのでしょうか?いつも置いてけぼりにされてしまうのです。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコによる福音書12:30)
イエスを愛する為には、心と、精神と、思いと力を尽くさなければできないから神様はこのように命じたのだと思います。そうです、イエスは空気じゃないので「意識して」取り入れなければ、日常に入ってこないのです。ここで注意してほしいのは、イエスは私たちひとりひとりに関わりたいと思っておられるけれども、私たちが入口を閉めているのです。だから、心を開いて、意識して、イエスと日常を歩むようにする工夫が必要なのだと思います。私たちは生きるために食事するけれども、イエスは絶対に食べなければ生きて行かれないものだと考えるといいと思います。サプリメントみたいに補助食品でもないし、デザートなどのように余裕があれば食べるものでもないのです。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』」(マタイによる福音書4:4)
もしかしたら、イエスという主食は食べずに、おかずや補助食品だけで食事を済ませていないだろうか。出かける時、携帯電話などは忘れないように注意を払っているのに、イエスはどうして置き去りなのだろうか?そんな態度でイエスは愛されていると感じられるだろうか。
要するに自然にイエスを愛することは、私には不可能なのです。だから、意識して「持ち歩く」ようにすることから始めたらいいのかなと思います。持ち物リスト:イエス、携帯電話、財布、定期、家の鍵・・・。