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1/7/05
「希望」って何でしょうか。
旧約聖書のエレミヤ書29章11節に「わたしはあなたたちのためにたてた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」と書いてあります。
「希望」という言葉を見て何を思いますか。どんな「希望」がありますか。広辞苑を見ると、「希望」とは「ある事を成就させようと願い望むこと。また、その事柄。ねがい。のぞみ。」と書いてあります。ここで、「ある事を成就させようと」という言葉に注目してください。この主体は誰かと言えば、願い望んでいる人です。たとえば、私が願い望んでいるのなら、私が主体の「希望」ということです。しかし、エレミヤ書をよく読んでみると、この「希望」の主体は誰かと言えば、神様で、神様の「希望、願い、のぞみ」なのです。
そこで私は自分の希望と神様の希望は必ずしも一致していないのではないかと思いました。そこで、聖書に書いてある神様の御言葉である「希望」の箇所に自分の「願い」を入れ換えて読んでみます。たとえば、「結婚」と入れてみますと、「将来と結婚を与えるものである」となります。しかし何か変な感じです。いえ、私にとっては変ではなく、心底それを望んでいますが、しっくりいきません。では、別の言葉を入れてみますと、「お金」「地位」「名誉」「キャリア」などですが、どれも望んでいる事柄なのに、「希望」と置き換えると不安になります。同時に疑いも生まれます。ほんとに「お金」は与えられるだろうか、与えられたとしても永遠に与えられるのだろうかと疑います。また、お金を得たら次は地位が欲しい、いや、他のものも同時に全部欲しいと思ってしまいます。しかし、どれも永遠に存在するものではありません。神様はいつか消えてなくなるものを与えようとしているのでしょうか。
ここで、聖書の他の場所に書いてある「希望」を見てみましょう。
コリントの信徒への第一の手紙13章13節に、「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る」とあります。つまり「希望」はいつまでも残るものですが、一方「結婚」はいつまでも残りません。離婚しないまでも、夫婦どちらかが死んだら無くなってしまいます。では、いつまでも残る「希望」とは何でしょうか。
テモテへの第一の手紙1章1節に、「わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエス・・・」と書いてあります。
ここで私はハッとしました。「希望」はイエス・キリストだと分かったのです。
そこで、エレミヤ書に戻って、「希望」を「イエス・キリスト」に置き換えると、「将来とイエス・キリストを与える計画」となります。
他にも、ヘブライ人への手紙6章11節、「最後まで希望(イエス)を持ち続けるために」、
ヘブライ人への手紙7章19節、「この希望(イエス)によって神に近付づく」など希望をイエス・キリストに置き換えても意味が通じるどころか、かえって納得いく御言葉となるのです。
クリスチャンになる時に私は、イエス・キリストが神様の子で、私の罪の為に十字架にかけられて死んで、葬られ、三日目に復活したことを信じ、洗礼を受けました。その時からイエスは私と共に生きて一緒に歩んでいます。私はイエスを与えられたと信じています。つまり希望を持っているのです。「希望」をもっていると私は安心しますし嬉しいです。心が暖かくなります。そして、イエス(希望)はいつでもどこでも私と一緒です。
1/7/05
「希望」って何でしょうか。
旧約聖書のエレミヤ書29章11節に「わたしはあなたたちのためにたてた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」と書いてあります。
「希望」という言葉を見て何を思いますか。どんな「希望」がありますか。広辞苑を見ると、「希望」とは「ある事を成就させようと願い望むこと。また、その事柄。ねがい。のぞみ。」と書いてあります。ここで、「ある事を成就させようと」という言葉に注目してください。この主体は誰かと言えば、願い望んでいる人です。たとえば、私が願い望んでいるのなら、私が主体の「希望」ということです。しかし、エレミヤ書をよく読んでみると、この「希望」の主体は誰かと言えば、神様で、神様の「希望、願い、のぞみ」なのです。
そこで私は自分の希望と神様の希望は必ずしも一致していないのではないかと思いました。そこで、聖書に書いてある神様の御言葉である「希望」の箇所に自分の「願い」を入れ換えて読んでみます。たとえば、「結婚」と入れてみますと、「将来と結婚を与えるものである」となります。しかし何か変な感じです。いえ、私にとっては変ではなく、心底それを望んでいますが、しっくりいきません。では、別の言葉を入れてみますと、「お金」「地位」「名誉」「キャリア」などですが、どれも望んでいる事柄なのに、「希望」と置き換えると不安になります。同時に疑いも生まれます。ほんとに「お金」は与えられるだろうか、与えられたとしても永遠に与えられるのだろうかと疑います。また、お金を得たら次は地位が欲しい、いや、他のものも同時に全部欲しいと思ってしまいます。しかし、どれも永遠に存在するものではありません。神様はいつか消えてなくなるものを与えようとしているのでしょうか。
ここで、聖書の他の場所に書いてある「希望」を見てみましょう。
コリントの信徒への第一の手紙13章13節に、「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る」とあります。つまり「希望」はいつまでも残るものですが、一方「結婚」はいつまでも残りません。離婚しないまでも、夫婦どちらかが死んだら無くなってしまいます。では、いつまでも残る「希望」とは何でしょうか。
テモテへの第一の手紙1章1節に、「わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエス・・・」と書いてあります。
ここで私はハッとしました。「希望」はイエス・キリストだと分かったのです。
そこで、エレミヤ書に戻って、「希望」を「イエス・キリスト」に置き換えると、「将来とイエス・キリストを与える計画」となります。
他にも、ヘブライ人への手紙6章11節、「最後まで希望(イエス)を持ち続けるために」、
ヘブライ人への手紙7章19節、「この希望(イエス)によって神に近付づく」など希望をイエス・キリストに置き換えても意味が通じるどころか、かえって納得いく御言葉となるのです。
クリスチャンになる時に私は、イエス・キリストが神様の子で、私の罪の為に十字架にかけられて死んで、葬られ、三日目に復活したことを信じ、洗礼を受けました。その時からイエスは私と共に生きて一緒に歩んでいます。私はイエスを与えられたと信じています。つまり希望を持っているのです。「希望」をもっていると私は安心しますし嬉しいです。心が暖かくなります。そして、イエス(希望)はいつでもどこでも私と一緒です。