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イエスの「憐み」って何だろう

2020-04-20 15:58:27 | Weblog
「『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:13)

この場面はイエスが、徴税人マタイの家で大勢の罪人(つみびと)たちと食事をしていたところを、ファリサイ派の人たちが見て、イエスを批判した後にイエスがおっしゃった言葉です。

私はファリサイ派の人たちの考えにすごく共感します。 イエスのような偉いお方が、罪人と一緒にいるだけで、あり得ない行為。彼らもここにいることさえ、食事をすることさえ、ふさわしくないと思うからです。

イエスが彼らと一緒に食事したのは、「憐み」からだということはイエスの言葉から明らかですが、私はこの「憐み」が理解できません。 おそらくファリサイ派の人たちも理解できなかったことでしょう。

もし、善人がひどい目に遭っていたのなら、私は「あわれむ」ことができるでしょうが、ここにいたのは罪人たちです。 しかも食事の場所を提供していたのは、当時最も悪人と思われていた徴税人のマタイでした。

私の「あわれみ」とは、あくまでも自分が優位に立った状態にいて、自分よりも悪い人たちとか、愚かな人たちとかに対して、「あら、かわいそうに。でもあなたがこうなったのは自業自得なんじゃないの。」というものです。 

彼らのそばには近寄りたくありませんし、ましてや一緒に食事をするなんてことは考えもしません。

しかしどうやら、イエスの「憐み」は違うようです。

姦通を犯した女性に対して「わたしもあなたを罪に定めない。」(ヨハネ8:11)と憐みをもって彼女の罪を赦したイエス。

重い皮膚病(らい病)にかかった人に手で触れて癒したイエス。

イエスはまったく罪を犯さなかったけれども、罪人の気持ちをよく理解していた(ヘブライ4:15)ということなのでしょうか?

イエスには強い「共感力」があったから「憐み」を持てたのでしょうか?

私は最近「ミラーニューロン」という言葉を知りました。 「感情を自分の脳の鏡に映してまねることで、同じ感情を感じ」とるということだそうです。(医学博士 前山浩信著「便利生活があなたを蝕む」P.213)

ということは、イエスのまねをすることで、イエスの性質を「ミラーニューロン」できるということではないかなと思いました。

クリスチャンは「イエスのようになる」ことを目指します。日常のいろいろな状況において「こんなときイエスだったらどうするだろう」と考えるようにします。そんなことと同じことなのかなと思いました。

イエスをまねれば、イエスの「憐み」が理解できるのかもしれない、イエスのような憐みを感じることができるかもしれない、そう思っただけで少しイエスの近くに行けたような気がしました。