こないだ、長崎の雲仙に行ったのである。温泉でゆっくりした後、島原半島を散策してみましょう。事前に「がまだすドーム」を調べていたので、カーナビにセットして向かいます。海岸沿いに、めっちゃ立派な建物がありました。
駐車場から普賢岳(左)と眉山(右)が見えます。徳島には同じ漢字で「びざん」がありますが、こちらは「まゆやま」です。歴史に残っているだけで、1663年に溶岩流出で死者(30余名)を出しています。その後の1792年溶岩が噴出し、また大地震により眉山が崩壊し有明海に流出し津波が発生。島原・肥後(対岸)で死者1万5千名という大惨事が起こりました。これを「島原大変肥後迷惑」と言われています。
その後も、たびたび群発地震・噴火を繰り返しているので、元気な活火山ということです。1991年の火砕流と土石流により、マスコミ・消防団員・タクシー運転手・住民44名が犠牲(不明者含む)になったのは記憶に新しいところです。
がまだすドームは、そういう歴史を後世に伝えるための記念館です。
当時の被災地を再現されています。ジープは火砕流発生後、陸上自衛隊が現地で監視を行った際に使用されたものです。運転席には乗車可ですが、荷台は不可となっています。
火砕流は、約800度の熱で100Kmほどの速度で流れるので、通り道にいたら助からないでしょう。
なにもかも、焼けただれています。
絶望的な光景です。
被害が大きかったのは、テレビ・新聞社等のマスコミが定点と呼ばれる火砕流の通り道で取材活動をしていたためといわれています。火砕流を正面から見える場所はいい絵が撮れるので、各社はそこで取材活動をしていました。危険があるといわれても他社が撤退しないかぎり、スクープは持っていかれるだけなので、どの社も引きませんでした。まさか、そこまで(定点)まで火砕流が到達するとは思ってもみなかったのでしょうが、過去の噴火の歴史を鑑みれば絶対に安全な場所まで引くべきでした。(結果論にはなりますが)
当日も、退避勧告が出ましたがマスコミは抵抗し、それに引きずられてタクシー運転手・消防団からも多くの犠牲者を出してしまいました。警察もマスコミの公共性に忖度して、強くは出なかったということです。
1991年5月29日は、運命の日になってしまいました。先にも書きましたが、火砕流は時速100Km程度で迫ってきます。通り道にいたら、気が付いた時にはもう逃げる術はないでしょう。
安中消防団(当時の)喜多さんがおっしゃっていますが「まさか仲間が亡くなってしまうとは思ってもいなかった。当時、北上木場町では報道陣が避難した住民の住宅に無断で入り、電話や電気を使用する問題が起こっていた。それだけではなく、当時は空き巣も多く注意を払っていた。やっぱり何が原因かというと、自然の驚異に対する人間の認識の甘さが災害を大きくした。まさか火砕流がここまでこないだだろうという思いがあった」とあります。まさに、その通りと思います。東日本大震災時、東北地方を襲った津波も大昔、同様の被害が起こっていました。ある地方では「ここから下には住むな」という碑があったという報道もありました。人は数百年たつと、過去の大災害を忘れてしまいます。(まあ、大丈夫じゃねみたいな)
雲仙普賢岳も過去の大災害があって、その文献が残っているにもかかわらず、数百年たったら危機感が薄らいで「まあ大丈夫じゃね」となってしまった結果と思います。それと、マスコミ間の過剰な報道合戦が、それに拍車をかけました。
がまだすドームは、そういった人間の認識の甘さを後世に残す貴重な施設と思いますが、数百年後の人間は賢くなっているのでしょうか? この施設も永遠ではありませんからね。
がまだすドーム 長崎県島原市平成町1-1 Pあり無料
入館料:大人1,050円 がまだすドームのHPからアンケートを提出して、「割引券」を印刷して持っていくと2割引き。またJAFの割引もある。(併用不可)