瞑想について言葉で表現するのは難しい。
体験し、体得していく、という段階があり、
やがてその「体」の部分さえもなくなっていく。
あるとき、スイスで脳科学の研究に従事してきた医師と瞑想の話をしていたときのこと。
「幽体離脱、してませんか?」
「してます」
「やめてくださいね」
「っていうか、分かるんですか!」
「分かりますよ。体にかなり負担がかかりますからね。やめましょう」
笑顔で、淡々と述べる医師に、脳科学の進歩を見た・・・。
その後、医師のアドバイスに従い、幽体離脱をやめることになるのだが、
なかなかにつらいものだった。
確かに、やめるに際して、肉体的苦痛を伴ったのだ。
そうすると、精神的苦痛も伴うことになり、ふっと気を抜くと、幽体離脱に逃げてしまうことになる。
そうなると、さらなる苦痛が待っている。
この非常事態のような状況から抜け出したのは、約半年後。
その後、私は、死の淵をさまようことになる。
今も、瞑想が本当はどんなものなのか分かっていない。
というのも、私が瞑想を始めたのは、『あるヨギの自叙伝』を読んだからであって、
直接、誰かに習ったわけでもなく、完全なる我流だからだ。
けれども、どういうわけか、幽体離脱的脳波へのギアチェンジの方法を獲得し、
様々な経験をし、何かしらの段階を経たのだろう。
今の私は、
その人にとって、どのような瞑想段階が合っているか、
あるいは、今、その人がどのような瞑想状態にあるのか、ということが、
なぜか分かるようになったのだ。
もちろん、正解かどうかは分からないが、
瞑想がある種の危険をはらんでいるということは、
身をもって経験している。
その意味からすると、その人に合っていない瞑想、
あるいは、段階的にまだ合っていない瞑想というものがあるのだと思う。
先入観もなく、特別な目的も持たず始めた瞑想(もどきかもしれない)は、
素晴らしくもあり、危険でもある世界に私を導いた。
だからこそ、心底、瞑想の持つ力を信じている。
果てしない広がりへと流れる光の川に身を浸し、
穏やかで、幸福に満ちた瞑想を。
今日という日のどこかに、そんなひと時をもたらすこと。
瞑想の持つ力をそのように使いたいと、私は思っている。
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