原因不明の病気になって、
日々の苦しみの中、
このことに、一体どんな意味があるのか、
という問いかけをどれほどしただろう。
思いつくもの全てに、どれほど問いかけただろう。
家族に、友人に、恩人に、医師に、神仏に、ご先祖様まで。
けれども、
どんな言葉を聞いても、絶望は消えなかった。
退院後、日常生活を送れるようになってからしばらくしてのこと。
毎日新聞に、小椋佳さんのインタビューが載っていた。
東大法学部を卒業して、銀行マン、そしてシンガーソングライターと、
全てにおいて、その高い能力で成功した人、というイメージを持っていたのだが、
インタビューの中で、こういうことを言っていた。
「・・・人生に生きる意味なんてない。むなしいけれど、それが真実」
小椋佳さんは、東大法学部に再入学後、哲学で修士号を得ているのだが、
そこで、 絶対的な正義や悪、そして真理について徹底的に考察したあと、
このことに行き着いたというのだ。
人生で起きてくること、出会うこと、
全てに意味がないとしたら・・・
なんだというのだろう。
これまでの、
「このことに意味はあるのか」という
さまざまな場面での問いかけは、
一瞬にして違う景色になった。
ふと、小林秀雄の
『美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない』
という当麻の中の一文を思い出す。
ある物事に、
起きた出来事に、
説明を加えた瞬間、本質を見失ってしまうのかもしれない。
意味付けをしようとした瞬間、
そのことは、もはや、一つの観念のとらわれに過ぎないのかもしれない。
小椋佳さんが言っていた「意味がない」という言葉と、
『美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない』
という言葉が混じりあり、
一つの考えが浮かぶ。
このことに、意味はないだろう。
なぜなら、意味のために、病気になったわけではないからだ。
世の中に、
意味のために生まれてくる命があるだろうか。
意味のために事故にあったり、
意味のために死があるだろうか。
そうではなく、意味を考える者が、意味をつけているだけなのだ。
なぜなら、
意味を考えない者にとっては、
その物事、その出来事は意味を持たないからだ。
つまり、本来は、
意味があるのではなく、
ただ、そうであるもの、ただ、そうなったものに、
意味を考える者が、自らの過去の観念から、意味をつけようとするだけなのだと。
意味付けとは、後付けであり、本当の意味、などというものは存在しない。
もしくは、仮に存在するとしても、誰にも正誤をいうことはできない。
そう考えると、
結局、こうなる。
生きている限り、過去と共にあり、
だからこそ、今日を生きられる。
もし、意味をつけるなら、
全ての過去に、同じ意味をつけるだろう。
この過去によって、私という意味がここに存在している、と。
私という意味を持って、明日を見る、と。
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