ペイジは、それぞれのスート(ワンド、カップ、ソード、ペンタクル)が成熟する前の
若々しく、純粋なエネルギーを意味している。
その中でも、カップのペイジはかわいらしい。
ペイジというより、カップの中から顔を出した魚の様子がかわいらしい。
子供のころは、魚でも昆虫でも、何でも友達になることができた(もちろん、苦手な人もいるだろうが)。
名前をつけて、じっと見つめて、
なぜだか、心が通じ合うような気がしたものだ。
時たま、その友達が夢に出てきて、本当にしゃべったり、一緒に空を飛んだり。
そういうことを、変なこと、と思うより、
現実でもそうならないかな、と思って話しかけてみたりする。
カップのペイジは、
現実と夢がみごとに融合されて、そこに何の違和感も乖離もない、
まさに豊かな感性の時代だ。
ああ。
こういうのね、難しいんだよねぇ。
現実が厳しく、つらいこと知っているし、
魚や昆虫と話できないのは、言うまでもない。
現実と夢を、独自の感性で融合できる人もいるけれど、
ごくごく平凡な自分にとって、
生きてくことは、とても現実的だから、空想してるより、働かなきゃね。ってね。
だからかな。
ペイジはめったに出ない。
特にカップのペイジ。
純粋でやわらかな心。
ひょっこり顔を出した魚とは、もうすっかり仲良しだ。
魚は楽しい話をしてくれる。
自分の住む池からときおりこうやって、ペイジのもつカップへと遊びに来てくれる。
「どうやってカップに来るの?」
「秘密の通路があるのさ」
「ぼくも行ってみたいな」
「そうだなぁ。兄さんに聞いてみなきゃ」
「うん。もしいいって言ってくれたら、ぼく、いいもの持っていくよ」
「なんだい?」
「これさ!」
うーん。
子供のときって、
自分にとっていいものは、他の人にとってもいいものなんだって、
疑ったことなかったなぁ。
今は、逆に勧めるのが怖いくらい。
カップのペイジと小さな魚の物語。
いろいろ思いつくけど、
結局、作り話だからね、
カップから突然魚が出てくるなんて、あり得ないよねって、
これ、これ!
だから、逆位置なんだよ。
だから、こう思う。
今日は、カップのペイジと小さな魚の物語をヒントにして、
乾いてしまった感性に、水をやってみる。
ペイジほどには、満たせないが、
それでも、なんだか、いい気分だ。
ひょっとしたら、夢を見るかも。
小さな魚と一緒に泳いでみるのもいいな。
あり得ないことなんて、ほんとは何もないのかもしれない。
これ、いいものなんだ!って
自分の持つものの価値を疑ったりしないペイジの心。
その感性の正体は、あの小さな魚だったりするのかもね。
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