日本カレンダー暦文化振興協会 理事長
中牧 弘允 様
吹田市立博物館
特別館長 中牧 弘允 様
2021.05.18
縄文時代のカレンダー暦について
暦に関する記事を拝見いたしました。
以前からストーンサークルなどに興味を持っていました。こうしたことから縄文時代の配石遺構に関しても注目していました。
縄文人の各地の遺跡からストーンサークルなどが見つかっていて、そのような遺跡では各地でストーンサークルと太陽の関係についていわゆる二至二分 夏至・冬至、春分・秋分との関係があるといわれている。
つまり縄文人は二至二分については分っていたということは確であると考えて良さそうである。しかし二至二分だけでは一年把握は一応出来るものの暦として使うには更に季節感を捉えることが欠かせないものと思う。
特に寒冷化の始まる縄文後期には更に季節を正確に把握することが必要とされたものと考えます。
ここ山梨県北杜市にある金生遺跡では遺跡の東にある茅が岳の日の出観察により冬至日の確定が出来ることと、冬至からの45日目の日の出を山のピークで正確に捉えていたことが判明した。季節感を捉える為の暦には二至二分に加えて四立が欠かせない。四立とは二至二分を更に四分することで、45日の間隔を取り立春、立夏、立秋、立冬という季節の始まりを示すことである。金生遺跡では太陽の運行を東側にある茅が岳と西側の甲斐駒ヶ岳のある南アルプスの両側で観測することにより、冬至から夏至そして冬至に戻る365日を観測し、冬至から45日目の立春、立冬を観測することで、二至二分に四立を加えた八節の暦を作っていたという推定ができることが分りました。
二至二分や四立その他季節の呼び名は縄文人がどう名付けていたものかは分らないが、八節の暦を作るという概念は持っていたものと考えて良いと思う。
縄文後期4000年前とすれば夏殷周に先んじていたとも考えられるもののように思います。
縄文人は縄文後期からの寒冷化する気候に対応するために金生遺跡で作られた「八節の暦」を各地の住民が利用していたものとも考えられるのではと思いますが。
よろしくお願いします。