吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

予測や展望の限界

2009年04月13日 | Weblog
 国(省庁)が毎年出す白書には、ほとんど例外なく”予測や展望”が出る。それが、どのくらい的中するものなのかは知らない。簡単な予測やシュミレーションなどの仕事をしたこともあるし、文科系の統計や数学をカジってはいるが、どうもその手の予測や展望に”確かさ”を感じない。

 役所や政府の”20年後や50年後”を確かめたことがない。現在の国の姿や生活を50年前は、どのように予測・展望していたのだろうか。20年も30年もかけて開発建設したりしているダムや埋め立てや道路建設が、いまもって建設途中だったり、20年間も毎年調査費を計上しているだけなのはどうしてなのだろうか。

 開発や建設の進行自身が対象や目的を変化させるからではないだろうか。対象の環境や社会的地勢的状況が変わるからではないだろうか。時間や時代を経ると、求めるものや環境や価値基準そのものが変化するからではないのか。予測や展望の方法も時代とともに変わるし、モノサシも変わるからだろう。

 人々の生活や産業や社会の構造そのものが変わり、時代時代の価値基準が変化することを考慮できないのが、多くの予測や展望なのではないか。役所や政府の景気刺激策や予算などが、いつも年度単位になり2~3年や5年後のそれにならないのは”できない”相談だからではないのか。本予算と同時に出来る補正予算が、年度単位でモノごとを考えている証左なのではないか。

 なかなか一致できない温室ガス削減目標など典型かもしれない。エネルギーや環境をどうすると経済や国民の生活がどう変わるかという予測や展望をしては、どうしても経済が後退したり、不便が増したりするということしか出ないだろう。エネルギーや環境が変化していない”現在”の経済構造やモノサシで、エネルギーや環境が変化した世の中を展望しようとしているからだ。

 一度、現在ない”変化した”あとの社会構造や環境と価値基準を先にシュミレーションしたらいい。新しい価値基準やモノサシを先に考えることが大切だ。新しい価値基準や社会構造を提示し、それに沿った予測や展望をすることをお勧めする。そうすれば、いつものように”環境と経済は両立しない”とばかりの計算結果にはならないだろう。
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