『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013)
【作品概要】
監督/脚本:リティ・パニュ
2013年/カンボジア・フランス/フランス語/HD/95分
『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』などで知られるリティー・パニュ監督が、自身の体験を基にポル・ポト政権下のカンボジアを描く異色ドキュメンタリー。クメール・ルージュの弾圧により家族や多くの友人を失った同監督が、祖国が体験した恐怖の支配を語り継ぐ。当時の映像は支配者層によって大半が廃棄されていたため、素朴なクレイアニメと実写を織り交ぜて失われた記憶を再現し、第86回アカデミー賞外国語映画賞ノミネートなど多方面で絶賛された。
1970年代、共産主義を掲げるクメール・ルージュ(カンボジア共産党)の支配下、国民の多くが不幸な目に遭った。そんな時代に少年期を過ごし、家族や友人を失った映画監督リティー・パニュが自らの体験を基に、恐怖に支配された当時のカンボジアをクレイアニメと貴重な記録映像を織り交ぜて再現していく。(シネマトゥディ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/b3/de022f2cef5d0053d5409c97038d6276.jpg)
【感想レビュー】@theater
終映後、すぐには立てないほどだった。渋谷の街がグラグラして視えた。今年観たドキュメンタリー映画の中でも、最も胸に刺さる一本となった。
監督自身の実体験という点が他作品と簡単には比べられない大きな要素ではあるけども。情報(事実)、映像(イメージ)、概念の三者が、相互作用し調和している洗練されたドキュメンタリー映画だ。
当時、プノンペン都市部の洗練された文化の中で育った監督のアイデンティティーから発せられる映画なのだ。
ある日、突然始まった枯渇した土地への移住、個々人の財産の略奪、概念の略奪、強制労働の日々。
概念の略奪…。
そんな事が果たして出来るのか。
監督は言う。拒否は仕草一つに表れる。仕草一つで表現できる。
映画の中で、自分は死者であり、そこで亡くなった死者は自分でもある、というような事を話す監督。血塗られた大地の土で作った人形達は、監督自身であり、人類の誰もがなり得る可能性を秘めているのだ…。
この映画には、例えばホロコーストを告発した『夜と霧』のようなショッキングな映像はほとんどない。ポルポト政権下では、人が物のように扱われたけれど、この映画には、その魂にそっと寄り添っていく姿が感じられる。
家族を失い、天涯孤独になった少年は、自らの土地を捨て、言葉を捨てた。劇中の言葉はすべてフランス語。
忘れたい記憶、けれど忘れ難い記憶の数々を紡ぎ、イメージに昇華する様が胸に迫る。
映画に、監督の怒りが滲む。時には淡々と。時に荒れ狂う波のように。
ドキュメンタリー映画が好きで、色々観ていくうちに、私なりに色んなタイプの作品がある事に気づく。
今年観たドキュメンタリー映画の中でも印象深い4本(『ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件…そして』、『アクト・オヴ・キリング』、『北朝鮮強制収容所に生まれて』、『収容病棟』)と比べてみても、本作は、監督自身の体験を基にしている点が、大きく違う要素だ。
映し出されるのは、監督自身であり、身近な無数の魂だから…。洗練された映像の端々に亡くなった方達への真心、愛、尊敬の念が感じられる映画だった。
【作品概要】
監督/脚本:リティ・パニュ
2013年/カンボジア・フランス/フランス語/HD/95分
『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』などで知られるリティー・パニュ監督が、自身の体験を基にポル・ポト政権下のカンボジアを描く異色ドキュメンタリー。クメール・ルージュの弾圧により家族や多くの友人を失った同監督が、祖国が体験した恐怖の支配を語り継ぐ。当時の映像は支配者層によって大半が廃棄されていたため、素朴なクレイアニメと実写を織り交ぜて失われた記憶を再現し、第86回アカデミー賞外国語映画賞ノミネートなど多方面で絶賛された。
1970年代、共産主義を掲げるクメール・ルージュ(カンボジア共産党)の支配下、国民の多くが不幸な目に遭った。そんな時代に少年期を過ごし、家族や友人を失った映画監督リティー・パニュが自らの体験を基に、恐怖に支配された当時のカンボジアをクレイアニメと貴重な記録映像を織り交ぜて再現していく。(シネマトゥディ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/b3/de022f2cef5d0053d5409c97038d6276.jpg)
【感想レビュー】@theater
終映後、すぐには立てないほどだった。渋谷の街がグラグラして視えた。今年観たドキュメンタリー映画の中でも、最も胸に刺さる一本となった。
監督自身の実体験という点が他作品と簡単には比べられない大きな要素ではあるけども。情報(事実)、映像(イメージ)、概念の三者が、相互作用し調和している洗練されたドキュメンタリー映画だ。
当時、プノンペン都市部の洗練された文化の中で育った監督のアイデンティティーから発せられる映画なのだ。
ある日、突然始まった枯渇した土地への移住、個々人の財産の略奪、概念の略奪、強制労働の日々。
概念の略奪…。
そんな事が果たして出来るのか。
監督は言う。拒否は仕草一つに表れる。仕草一つで表現できる。
映画の中で、自分は死者であり、そこで亡くなった死者は自分でもある、というような事を話す監督。血塗られた大地の土で作った人形達は、監督自身であり、人類の誰もがなり得る可能性を秘めているのだ…。
この映画には、例えばホロコーストを告発した『夜と霧』のようなショッキングな映像はほとんどない。ポルポト政権下では、人が物のように扱われたけれど、この映画には、その魂にそっと寄り添っていく姿が感じられる。
家族を失い、天涯孤独になった少年は、自らの土地を捨て、言葉を捨てた。劇中の言葉はすべてフランス語。
忘れたい記憶、けれど忘れ難い記憶の数々を紡ぎ、イメージに昇華する様が胸に迫る。
映画に、監督の怒りが滲む。時には淡々と。時に荒れ狂う波のように。
ドキュメンタリー映画が好きで、色々観ていくうちに、私なりに色んなタイプの作品がある事に気づく。
今年観たドキュメンタリー映画の中でも印象深い4本(『ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件…そして』、『アクト・オヴ・キリング』、『北朝鮮強制収容所に生まれて』、『収容病棟』)と比べてみても、本作は、監督自身の体験を基にしている点が、大きく違う要素だ。
映し出されるのは、監督自身であり、身近な無数の魂だから…。洗練された映像の端々に亡くなった方達への真心、愛、尊敬の念が感じられる映画だった。