母が亡くなって一年半になる。
亡くなった直後よりよく思い出す。
亡くなった直後は、
まだいなくなったという実感が乏しかったから、思い出すというような感じではなかった。
が、さすがに一年半も経つと、亡くなったことを実感せざるを得ない。
母が生きているころは母の誕生日を意識することもなかったが、
亡くなってから、「ああ、今日は夏至、母の誕生日だ」と思う。
私は第一子の長女を46年前の7月9日に生んだが、
46年前の今頃は出産間際の大きなお腹を抱えて母の実家にいた。
というのが、
仕事をもっていた母は家にいないことが多かったから、
もし母の留守の時に産気づいたらということで、
母の実家に預けられていたのだ。
幸い早く産気づくこともなく、
長女は予定日を1日過ぎて生まれた。
母の誕生日のことを書くのに、
どうしてこんなことを書くかというと、
46年前の夏至の今日、
預けられていた産婦の私に祖母が
しみじみと「今日はお母ちゃんの誕生日」と言ったからだった。
祖母は自分の娘のことを孫の私に「おかあちゃん」と言っていた。
私達が母のことを「おかあちゃん」と呼んでいたからだ。
私の母は祖母の第一子であった。
祖母は私の母を二十歳で生んだ。
母が未熟児で生まれたことは、そのとき初めて聞いた。
あんなに元気な母が未熟児だったなんてと驚いたことを覚えている。
ふだんは祖母も自分の娘である母のことを話すこともないのに、
そのときは孫の私の妊婦姿を見て、
やはり初めて生んだことを思い出したのだったろうか。
母は祖母の自慢の娘であったと思うが、
祖母が母を自慢するのを聞いたことはない。
しかし、大事な娘であったことは、
母の嫁入りのときに持たせた着物は近隣でも評判になるほどの枚数であったことでもわかる。
終戦間際の結婚だったため、
祖母が準備していた花嫁衣裳を着ずに結婚したことを祖母は死ぬまで悔やんでいた。
生糸工場を営んでいた母の実家は戦時中でも絹糸が手に入ったから、
終戦ちかくの時期であったにも関わらず豪華な花嫁衣裳を整えることができた。
昭和19年に19歳で嫁いだ母は翌20年9月に20歳で私の兄を生んだ。
祖母も、やはり19歳で嫁いで20歳で私の母を生んだ。
だから祖母は40歳で初孫を抱いた。
今思い出せば若い祖母だった。
夏至の今日は母を思い出して、その母である祖母を思い出して、
さらに出産間近だった25歳の自分を思い出した。
祖母も母も亡くなったが、
女系として、私と娘が此の世に残っている。
*
★夏至の日に二十歳の祖母はわが母を初産で生み母親となる
★わが母が八月(やつき)子なりしこと語る祖母の優しき口を忘れず
★未熟児で生まれし母の享年は九十二歳の長命なりき