かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

お盆の続き

2019-08-12 07:52:57 | ブログ記事

一昨日の「今日は朝一番にお坊さんが」の続きである。

今でも思い出すと鬱になるほど、義母や義妹の私に対する無理難題はひどかった。

私が世間知らずの嫁であったことをいいように利用されたとしか思えない。

私には盆、正月の帰省はご法度であったのに、

義母は自分はよく同窓会とかに高知に帰っていた。

私を帰らせなかったのは、自分に既に実家がなかったから、

妬ましくてたまらなかったと、これは後年、私に白状したことだった。

それでいて、

一度わたしがお盆の帰省のとき義母を誘ったら、いそいそ付いてきたことがあった。

が、帰省の切符は全部、嫁の私に買わせた。

そして当時はまだ本四架橋がなされていなかったら、

しばしば大阪から高知行のフェリーを利用した。

義母と一緒に帰省したときも、フェリーの切符を私が購入した。

すると義母は、フェリーの中で、

「こんな2等船室なんて」と宣わった。

私には、これだけでも当時薄給だった夫の給料から買うのは精いっぱいだったのに?

義母は、私が1等船室を準備しなかったことを詰ったのだった。

それで、高知から大阪に帰るときは、

私達親子は、帰りも安いフェリーにしたのだが、

義母は、自分だけさっさと航空券を買って一人で川西に帰ってしまった。

その後、私は一人で二人の幼子を連れてフェリーで帰った。

そのとき、義母の私に言った言葉、

「私は歳をとっているのだから、楽しても許されるの」だった。

歳とっていると言っても、当時の義母は、まだ50代だった。

私達からお金を取るだけとって、自分は何でも贅沢した。

義母が亡くなったときは、

帽子だけでも帽子屋が開けるくらいあった。

その帽子も、洋画に出てくるようなおしゃれな帽子ばかりだった。

自分の身を飾ることには糸目をつけない義母であった。

それでいて、私が安物の服を買うことを軽蔑した。

私は、内心、「どこからそんなお金が出ますか」と思っていた。

当時、義父の会社は儲かっていなかった。

それで、義父の一番上のお姉さんがたびたび資金援助をしてくれていた。

伯母さんは、自分は贅沢をしない人だったから、

義母の贅沢が我慢ならなかったようで、

しばしば大阪からタクシーを飛ばして川西まで来た。

すると、当時赤ちゃんだった夫の弟が泣き叫んでいて、

義母の姿がない。

義母は夫の弟を寝かしつけて映画を観に行っていたのだった。

ダンスも習いに行っていたらしい。

それが伯母さんには許せなくて、

しばしば大阪から川西までタクシーを飛ばして様子を見に来ていたのだった。

伯母さんは医家に嫁いでいたからお金には困っていなかった。

が、自分は贅沢をしないで、

私が嫁いで来てからも、私に、四季折々の服を買ってくれたりした。

義母は、自分の服は買うけれど、私に買ってくれたことは一度もなかった。

それでいて、異常に姑風をふかすのだった。

里帰りは許さないし、お金のいることは全部われわれに押し付けてくるしで、

親らしいことは何もしてくれなかった。

そのころは、私も世間知らずであったから、義母の言いなりであった。

が、最近、思い出しては憤っている。

義父のお姉さんの怒りもよくわかる。

義父のお姉さんは自分の子供がいなかったから、

義父の子供である夫の兄弟をかわいがった。

夫や義妹の学資もかなり援助してくれたと聞いている。

それなのに、伯母さんが子育てについて義母に何かいうと、

義母は、

「私の子供ですから、自分の考え通りにします」と伯母さんに返したらしい。

要するに、義母は、出すべきものだけ出して口は出すなと言いたかったのだろう。

それなのに、嫁の私には、

出すべきものは何も出してくれずに、口だけは他所の姑の何倍も出してきた。

私達がマンションを買った時も、

「子供が家を買うときに援助してやれないなんて、こんなに悔しいことはない」と

テーブルを叩いて怒った。

私は、義両親から一円も出してもらえないことが自分の落ち度のようにうなだれた。

それでいて、義弟が東京で広い4LDKのマンションを買うとき、義母は援助した。

そのころ我が家は子供が3人になっていて3LDKのマンションでは狭すぎたから、

そのことを襲る襲る言うと、

義母は、

「文化アパートに住んでいる人もいるというのに、なんと贅沢なことを言うか」

と私を一喝した。

あの悔しかったことはいまだに忘れられない。

そんな悔しい思いをさせられたのに、

認知症になった義母の世話は私一人に任された。

義妹など、私がこの家に来てから一度も来なかった。

それでいて、私に文句をつけるのは、義母以上である。

義妹は、未だに、嫁の私には無理難題を言ってもかまわないと勘違いしている。

私は、喧嘩するのは嫌だから、できるだけ付き合わないことに徹している。

*

★長男の嫁は損する存在で義母義妹には利用のみさる

★たまに来る次男の嫁は大切なお客様らし手伝ひもせず

★葬式の下働きもすべてわが仕事となりて長男の嫁

★大勢の食事の準備もわが仕事義父の葬式親戚くれば

★食費だしご飯つくりて損ばかりそれを押し付けられて長男

★東京の次男の嫁は子供まで長男嫁のわれに押し付け

★長男の嫁は我慢を強いられて溜まり溜まりて鬱を発症

★我慢することは美徳にあらざるとこの頃おもふ七十超えて


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4 コメント

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ビコさんへ (lemonwater2017)
2019-08-12 09:49:09
多分、ビコさんの推理は当たってますね。脳に慢性的な病気を持つ家系ですか。特に、倫理や情緒や道徳感を掌る熱い脳領野の不完全でしょうか。それ以外に考えられないかもです。

私の母型の家系も、脳が弱い傾向にある。でも外ズラが良いから、第三者にはバレない。でも、親戚同士になると露骨に出る。

脳に病気がある場合、まず目に現れますね。母型の親類は、みな目付きが怖かった。

勿論、今言った事が外れてる事を願うばかりですが。これもブログにしたくなった。
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転象さんへ (びこ)
2019-08-12 10:24:51
義母の親族は自分に都合の悪いことは考えないという家系ですね。だから、義父のお姉さんがどんなに援助してくれても、それは当たり前と思っている。そして長男には、一族を養う義務があると思い込んでいる。というか、そう思って、自分の都合のいいように生きていたんですね。

が、晩年認知症になったのは、その報いだったかもしれません。

義母も外面のいい人でした。だから、抑圧された嫁の私以外には、あまり義母の本当の姿はわからなかったと思います。

転象さんのお話を聞けば、どこにでもそういう人達はいるものなのですね。
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びこ様 (ままちゃん)
2019-08-13 00:37:49
それはそれはお辛い思いをなされましたね。想像のつかない大変な思いでいらしたのでしょう。私には、その方々は、感情に直しようのない障碍をこの世でお持ちだったとしか思えません。病気、ですね。理不尽さに耐えていままでいらしたびこ様のご苦労が思われます。そうした思いを書くことで少しでも心の重さが軽くなられるとよろしいですね。そう願っております。今はブログという便利なものがありますが、もしひと昔前ならば、そして私にも同じような経験があるならば、きっとそうした方々への心の思いを手紙にして、書いて書いて、挙句には、きっと燃やしてしまったことでしょう。そうすることで少しは重しがなくなるかもしれないと。そんな重しで自分自身がいつも沈んでいるのは、もっと辛いと思うのです。そんな枷や重しから自分の心を解き放ちたいと思うのです。いつか一人一人の裁きの場は必ずありますから、そうした判断は自分よりも大きな存在、神様や仏様に任せていいのだと思います。真の自由は、そこから始まるのかもしれません。そしてびこ様がそうした仕打ちを受けてきたにもかかわらず、誠意を尽くしてお姑様のお世話をなさり、看取られたことは誰にでもできることではないと思います。本当にお辛かったことでしょう。
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ままちゃんさんへ (びこ)
2019-08-13 03:40:29
コメントありがとうございました。

とても辛かったのでは事実でしたが、しかし上記した義父のお姉さんとかは私のことをわかってくれていましたし、他の親戚の人たちにもよくしていただいたと思っています。

また義母も晩年は私に若い頃のことを謝ってくれましたから、私も許さないといけないのですが、お盆になると、どうしても思い出してしまうのです。そして、繰り返し書いてしまうのです。

現在は、こういうblogという媒体があってよかったと思います。以前は日記に歌にして書いていましたが、それっきりでした。blogだと、こういうふうに読んでくださる方があり、感想を言っていただけるので救われます。

今回もままちゃんさんのコメントに救われました。ありがとうございました。
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