東京裁判で広田弘毅元首相らの無罪を主張したオランダ人判事ベルト・レーリンクの日記、明らかに 2018.8.15

2018-08-17 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

産経ニュース2018.8.17 01:00更新
【阿比留瑠比の極言御免】歴史の見方にももっと多様性を
 日本を一方的に断罪した極東国際軍事裁判(東京裁判)をめぐっては、インドのパール判事が被告全員を無罪とする意見書を提出したことがよく知られるが、オランダのレーリンク判事も広田弘毅元首相や東郷茂徳元外相ら5人を無罪だと主張している。
 そのレーリンク氏が、日本滞在中に書いた日記や書簡の内容が明らかになったという三井美奈記者の記事が、15日付本紙朝刊に掲載されていた。詳細は元記事を参照してもらいたいが、こんなことを日記に記しているという。
*東京裁判「文官無罪」の葛藤 レーリンク判事の日記、詳細初めて明らかに
 「日本の歴史や国際法の研究を進め、多数派の意見だからといって絞首刑を宣告すべきではないという考えに至った」
 いまだに東京裁判を単純かつ安易に正当化するような一部新聞や野党議員に、爪のあかを煎じて飲ませたいところである。ともあれ、日本滞在中のレーリンク氏と交流があり、その日本観に影響を与えたのが児童文学『ビルマの竪琴』の作者であるドイツ文学者、竹山道雄氏だった。
 竹山氏の著書『昭和の精神史』の中で、竹山氏がレーリンク氏に、昭和23年11月に出された東京裁判の判決の非合理性を訴える場面がある。レーリンク氏はこう答えている。
 「いまは人々が感情的になっているが、やがて冷静にかえったら、より正しく判断することができるようになるだろう」
 これは、次のパール氏の言葉と基本的に認識が通じている。
 「時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には(中略)過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するだろう」
 竹山氏の著書『ヨーロッパの旅』によると、それから8年後の31年、オランダの自宅を訪ねてきた竹山氏に、レーリンク氏はこう明言した。
 「あの判決はあやまりだった。もしあの裁判がいま行われれば、あのようには考えられないだろう。俘(ふ)虜(りょ)虐待などの通常の戦争犯罪は別として、政策の結果として起こったことに対しては、ああいう結論にならなかっただろう。おおむねインド人のパールのように考えただろう」
 また、自分たち判事団は偏った情報しか持っていなかったと振り返り、このように反省している。
 「連合国側には共産主義の脅威ということは念頭になかった。(中略)外部からの挑戦-それへの反応ということについて、はなはだしい見落としがあった。その後まもなく中国が赤化したのを見て、そうだったのか、それほどまでにも脅威が迫っていたのかとおどろき、この点はまったく考え直されるようになった」
 「あのときの判事たちは法律家ではあっても、国際関係に通じている人々ではなかった」
 興味深いのは、レーリンク氏が東条英機元首相を有罪と判断したものの、同時に高く評価していたことである。特に、キーナン首席検事に対し、東条氏が大東亜戦争は自衛戦争であることや、天皇陛下には責任がないことを堂々と論理的に主張した場面には瞠(どう)目(もく)し、舌を巻いてほめていたという。竹山氏によると、日本滞在中、何度もこうつぶやいていた。
 「Outstanding man!(傑出した男だ)」
 毎年、お盆の時期にはテレビも新聞も先の大戦特集を組むが、東京裁判史観の延長線上にあるものが目立つ。もっと歴史の見方にも多様性があるべきだろう。(論説委員兼政治部編集委員)


産経ニュース2018.8.15 02:00更新
東京裁判「文官無罪」の葛藤 オランダ・レーリンク判事の日記、詳細初めて明らかに
 【アムステルダム=三井美奈】第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で広田弘毅元首相ら文官の無罪を主張したオランダ人判事、ベルト・レーリンクが日本滞在中に書いた日記や書簡の内容が明らかになった。遺族が産経新聞に示したもので、日記の詳細が報道されるのは初めて。被告を「全員有罪」とした判決への反発や、被爆地・広島を視察した時の衝撃が記されていた。
 「大地は真っ平らだ。石造の建物はほとんど残っていない。荒涼として悲惨な土地だ」
 1946年3月末、広島を機上から視察した時の日記には、セピア色の航空写真が添えられていた。視察機はこの後、噴火中だった鹿児島県桜島の上空を飛行。流れ出る溶岩を見て、「大地は人間のようだ。平和はつかの間の均衡にすぎない。水面下で異なる力が働いている」と平和への考察を記した。
 レーリンク判事は東京裁判のため、46年から約2年間、5人の子供と妻をオランダに残して日本に滞在。85年の死去後、オランダの自宅で、家族あての100通近い書簡と日記が見つかった。日記は、どのページも万年筆の青い文字がびっしり。きちょうめんな人柄がにじみ出る。
 裁判でレーリンク判事は多数派意見に反対し、当時の国際法から見て「平和に対する罪」(侵略の罪)で死刑は適用すべきでないとの立場をとった。この時の葛藤を「私は望ましくない方向にある。同僚の意見や世論に沿わない」「だが、日本の歴史や国際法の研究を進め、多数派の意見だからといって絞首刑を宣告すべきではないという考えに至った」と記した。
 多数派判決に反対する意見書を出した決断には、インドのパール判事の影響があったことも明かされている。「私はパール判事のように、独立した意見を示そう。この考えに興奮しながら、一晩を過ごした」。パール判事は自身の意見書で、被告の全員無罪を主張。両判事らの「少数意見」が判事団の対立を浮き彫りにし、「勝者の裁判」の正当性をめぐる論争の発端となった。
 レーリンク判事は滞日中、日本各地を精力的に旅行し、日本人をつぶさに観察した。富士山にも登り、「何百人もの日本人が平たいクッションに寝転がり、歌っている。私もコートを枕代わりに横たわった」と好奇心たっぷりに記した。日本の禅文化を英語で紹介した仏教学者の鈴木大拙と出会った際は、「真理に対する東西文化のアプローチの違いを話した。すばらしい論議だった」と感激した様子だった。
 判事の自宅では日記とともに、東郷茂徳(しげのり)・元外相(禁錮20年の判決を受け、服役中に死亡)の回想録も見つかった。ドイツ人だったエディ夫人が、元外相の無罪を主張した判事に感謝を込めて、56年に送った。表紙の裏に「レーリンク教授へ 永遠の感謝を込めて」という夫人の英語のメッセージが残されており、判事は生涯、手元に残していた。
 ■東京裁判 第二次大戦に勝利した連合国が日本占領下で行った、日本の指導者の戦争責任を裁いた極東国際軍事裁判の通称。ベルト・レーリンク氏を含む11人の判事団は戦勝国から選ばれた。A級戦犯として起訴された28人のうち、裁判中に死亡するなどした3人を除く25人全員に有罪が言い渡され、東条英機元首相ら7人が絞首刑となった。レーリンク氏はインドのパール判事らと共に、この判決に反対し、個別の「意見」を提示した。裁判は日本を「侵略国家」と断罪し、日本人に「自虐史観」を植え付けたとの批判もある。
 
 ◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です *強調(=太字)は来栖
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「東京裁判で果たしたパール判事の役割忘れない」インドのモディ首相、安倍晋三首相との夕食会で 2014.9.1.
ヘンリー・S・ストークス 【目覚めよ日本】慰安婦問題 南京大虐殺 東京裁判 三島由紀夫 安倍首相の実力
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