陛下15歳、原爆投下4年後の広島で語った言葉 側近が日誌に(中日新聞 2018/8/17)

2018-08-17 | 雲上

2018年8月17日 夕刊
陛下15歳、原爆投下4年後の広島で語った言葉 側近が日誌に 
 写真;終戦直後、当時皇太子だった天皇陛下。右は東宮侍従を務めていた栄木忠常さん=1947年
 皇太子時代の天皇陛下の側近だった人物が、太平洋戦争終結前後の混乱期、陛下の教育について周囲が検討する様子を日誌に書き残していたことが分かった。本紙が入手した日誌には、陛下が原爆投下から四年後の広島で語った、平和希求の原点と言える言葉も記されている。
 日誌を書いたのは、栄木(さかき)忠常さん(一九〇九~九五年)。東京帝国大卒業後、宮内省や学習院の事務官などで皇室に関わり、終戦直前の四五(昭和二十)年八月十日、皇太子を支える東宮職の発足と同時に東宮侍従に就任し、五〇年三月まで務めた。
 本紙は栄木さんの長男で学習院初等科から高等科まで陛下の学友だった栄木和男さん(84)から、終戦前後の日誌の一部の提供を受けた。日々の業務や陛下の動静、側近たちの発言などが書き残されていた。
 陛下は学習院高等科一年で当時十五歳だった四九年四月六日、広島市を訪問。日誌には「人類が再びこの惨劇を繰り返さないよう、固い信念と覚悟を養いたい」「私の責任をよく自覚して勉強と修養に努力していく」などと、地元青少年の前で述べたあいさつの要旨が書き残されている。公式の場で話すのは初めてだった。
 終戦前後の様子もある。四五年八月十五日の昭和天皇の「玉音放送」は、疎開先の栃木県・奥日光で陛下と同じ部屋で聞いたといい、側近らが涙ながらに放送を聞く様子を書いた。
 二十四日には、今後の陛下の住まいと教育の地に長野県・松代(現・長野市)が候補に挙がる。松代は戦中、政府中枢の移転を想定した松代大本営が建設されていた。忠常さんは「将来日本を興すべき青少年の教育場所としては健全なる田舎の剛健なる還境(原文のまま)に限る」「殿下の御教育地として適当」などと賛同意見を記した。
 実際には陛下は十一月、奥日光から帰京し、四六年四月、現在の東京都小金井市に移転していた学習院中等科へ進学した。
 四六年一月十七日には、四、五年後に英国と米国へ留学する構想が記された。実現しなかったが、陛下は五三年に英国女王エリザベス二世の戴冠式へ出席、その機会に欧米十四カ国を訪問し、見聞を広めた。
*人物像知る手掛かり
 <瀬畑源(はじめ)長野県短大准教授(日本現代史)の話>
 今の天皇は側近の日記などが複数残る昭和天皇と異なり、文書となった一次史料が少ない。歴史的に重要な新事実は見当たらないが、当時皇太子だった天皇の周辺がどのような思いで教育に携わったのかや、天皇の人物像を知る手掛かりとなる。混乱期に前例がない中、自分たちが何とかしなければという職務に対する重みも感じる。
 (小松田健一)

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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〈来栖の独白 2018.8.17 Fri〉
 敗戦により、米国の支配下に置かれた日本。皇太子殿下(現天皇陛下)も「ジミー」という名を宛がわれ、米国の洗脳下に置かれた。皇太子(現天皇)は、洗脳教育の成果を遺憾なく発揮された。
 私は能楽が好きでしばしば観能するが、謡曲から感じ取った日本とは、森喜朗元総理ではないが「天皇を中心とする神の国」という伝統であった。謡曲の物語の多くが、天皇に繋がっている。その文化伝統を、賢い戦勝国アメリカは、天皇を象徴人間とすることで完璧に崩壊させて見せた。
 長く長くこの企みに私は気付かず、天皇さんの言動を「なんと福音(聖書)的で慈愛深く、ご立派なこと」と感嘆していた。が、そうではなかったのだ。天皇を中心とする日本の文化とイエスを神とする西欧の文化が、相容れるはずはない。今在られるのは、反日天皇さんだ。
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2018年8月16日 朝刊
不戦、時代超え誓う 平成最後の終戦の日
 終戦から七十三年となり、平成最後の「終戦の日」を迎えた十五日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京の日本武道館で開かれ、参列者は不戦の誓いを新たにした。戦争体験者の高齢化で記憶の伝承が課題となる中、各地で語り継ぐ試みも始まっている。退位を控える天皇陛下は、お言葉に「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」との一節を加え、四年連続となる「深い反省」という言葉とともに強い思いを示された。安倍晋三首相は「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と述べたが、アジア諸国への加害責任には触れなかった。
 厚生労働省によると、式典には全国の戦没者遺族約五千二百人が参列したが、配偶者は数えるほど。兄弟姉妹も多くが八十代を超えている。
 二〇一五年の時点で戦争を知らない七十歳未満が日本人の人口の八割を占めている。体験者の生の声を聞く機会が減っていることを受け、被爆地の広島市は一二年から、長崎市では一四年から、被爆者から聞いた話を語り継ぐ「被爆体験伝承者」「家族・交流証言者」制度を始めた。厚労省も一六年度から戦没者遺族らの話を伝える語り部育成に乗り出すなど、語り継ぐ取り組みが始まっている。
 即位以来、皇后さまと参列を続けてきた天皇陛下にとっては最後の追悼式。来年からは、一九三三年生まれの天皇陛下に代わり、戦後の六〇年生まれで来年五月に即位する皇太子さまが参列する。
 安倍首相は式辞で、戦争の惨禍は繰り返さないとした上で「歴史と謙虚に向き合い、どのような世にあっても、この決然たる誓いを貫いてまいります」と述べた。加害責任に言及しなかったのは、第二次政権発足後の一三年の式典から六年連続となる。
 式典では、正午の時報に合わせ参列者が黙とう。父親を南方戦線で失った宮城県石巻市の鈴木喜美男さん(75)が遺族を代表し、追悼の辞で「世界の平和、命の大切さを後世に受け継ぐため努力を続ける」と誓った。
 追悼の対象となるのは、戦死した軍人・軍属ら約二百三十万人と、空襲や広島、長崎の原爆投下、沖縄戦などで亡くなった民間人約八十万人の計約三百十万人。参列した遺族の最高齢は、夫が四五年に沖縄県で戦死した東京都の芹ケ野春海(はるみ)さん(百二歳)で最年少は二歳だった。
*天皇陛下お言葉全文
 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来既に七十三年、国民のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります。

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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【両陛下 屋久島・奄美群島訪問へ 今年(2017年)11月で調整】---〈来栖の独白〉福音的行為と観ていたが・・・ 
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昭和23年12月23日零時1分30秒、死刑執行開始 天皇明仁の誕生日になぜA級戦犯が処刑されたのか?

      

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