「喋らない林泰男 死にたいと漏らした端本悟」被害者、脱洗脳カウンセラーらが語る真実 オウム死刑囚6人も執行2018/7/26

2018-07-27 | オウム真理教事件

オウム死刑囚6人も執行 「喋らない林、死にたいと漏らした端本」被害者、脱洗脳カウンセラーらが語る真実〈週刊朝日〉
2018/7/26(木) 11:39配信 
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 松本・地下鉄両サリン事件などで29人の死者を出した一連のオウム真理教事件で死刑判決を受けた林(現姓・小池)泰男死刑囚(60)ら6人の刑が26日、執行された。林死刑囚のほか、岡崎(現姓・宮前)一明(57)、横山真人(55)、豊田亨(50)、広瀬健一(54)、端本悟(51)ら5人。オウム事件での死刑囚は13人で、教祖の麻原元死刑囚(本名・松本智津夫)ら7人は7月6日にすでに執行されていた。1カ月の間で2回の執行は初めてで、残された死刑囚の精神状態を考慮し、早まったとみられる。死刑囚全員の刑が執行されたことで、一連のオウム事件に終止符がうたれたが、事件にはまだ多くの謎が残されている。阿鼻叫喚の地獄絵のような現場で被害者、医師、捜査員、脱洗脳カウンセラーらは何を思ったのか?
■「接見で林、端本ら死刑囚が見せた素顔」 オウム真理教家族の会会長
 《死刑囚6人と接見した「オウム真理教家族の会」の永岡弘行会長がその長い道のりを振り返る。》
  東京拘置所で土谷正実、新実智光、井上嘉浩、中川智正、林泰男、端本悟と会いました。
  拘置所の土谷は最初は何も話さなかったが、やがて「後悔している。両親に会いたい」ということを言いだした。それで、うちの家内が土谷の母親に会いに行ったんですが、「あの子には会いたくない」とおっしゃった。その後、土谷には彼女ができて、獄中結婚しました。戸籍上結婚していないと、会うこともできないんですね。彼女とも私は長時間話をしたことがあります。結婚生活は3~4年は続いたが、彼女からある日、「アメリカへ行きます」と電話がかかってきた。数年前に離婚したようです。
  新実とは何度も会っています。麻原をまだ、尊師と呼んでいた。高橋克也被告の公判に証人として出廷したときも、オウムのころから着ていたサマナ服でした。接見したときも、「親はお前を心配してるんだぞ」と言っても、黙して語らず、そういう感じになってしまいましたね。井上は拘置所で自殺を図ったことがある。彼は房内で眠れなくなって、睡眠薬をもらっていて、それを一生懸命ためて、一気に飲んで自殺を図った。私は驚いて、飛んでいきましたよ。「卑怯なことをするな。生きて償うほうがもっとつらいんだぞ」と叱ったら、唇を噛みしめて「わかりました」と答えた。何が好きか聞いたら「オートバイが好き」と言うので、バイクの雑誌を差し入れました。彼は2年くらい前まで、短歌を作って、私に送ってきていました。2015年に証人として井上が裁判に出廷したとき、彼のお父さんが会いたいと言うので、会ったことがあります。お父さんはただただ「申し訳ない」と言うばっかりでしたね。
 中川も獄中で短歌を作っている。彼とも何度か会い、同年3月4日にも接見してきました。彼のお母さんとはよく連絡をとりあうんですが、彼のお父さんは病気らしく、お母さんはちょっと面会に来れないんだよということを伝えてあげました。彼はうなずいていました。
  林泰男は私が接見したときは何もしゃべらなかったんですが、公判ではよくしゃべります。彼は古参の信者だったから、母親もいい年なんですよ。私どもの会合など、いろんな会合に顔を出しておられたのですが、健康状態がすぐれないようで、最近はあまりお見かけしなくなりました。
  端本君と接見したときには、拘置所の中でうちひしがれている感じでしたね。死にたいみたいなことを言うので、「そういうことはまかりならん」と、言っておきました。
  私は95年1月、自宅の近くの郵便ポストに行く途中、オウム信者にVXをジャンパーの襟にかけられ、意識不明になって、病院のICUに運ばれました。今も体にしびれが残ります。けれども、私は彼らの死刑には反対しています。彼らは麻原の操り人形だった。償うことのできない大罪を犯したが、宗教法人としての認証を与えるべきではなかったんです。私はそれに反対する行動を起こしていました。先日、久しぶりにオウムのサティアンがあった旧上九一色村へ行きました。サティアンがあった場所は野っ原で牧歌的な場所になって、慰霊碑が立ち、そこでお祈りしてきました。涙が流れました。宗教法人としての認証を与えないように、あのときちょっとでも行政が聞く耳を持ってくれたならば、という気持ちも込み上げてきました。
■「教祖を法廷で罵っても悪の教義は今も信じている信者」 脱洗脳カウンセラー
 尊師の「ポア(殺せ)」という指示で凶悪なテロをためらいもなく実行した実行犯たち。事件直後から、オウム信者の脱洗脳を手掛けてきた脳機能学者・苫米地英人氏がその動機を語る。
 「サリン事件は、オウムにとって“ヴァジラヤーナ”という教義に基づき、教えを実践したまでのこと。麻原は最終解脱者で、他人の魂を解脱させて転生することができ、人々はカルマ(悪業)を積んでいるから、苦しめば苦しむほど、より良い転生ができる。つまり、サリンをまいて苦しめて殺すことが、人のためという危険な教義だったのです」
 苫米地氏は、重罪を免れ、社会復帰した一部の幹部らは今も確信犯とみている。
 「元幹部らオウム信者の多くは麻原を否定しても、ヴァジラヤーナを全く否定していない。やはり、オウムに対し、破壊活動防止法で組織を壊滅させるべきだったと思います」(苫米地氏)
  実行犯・高橋克也被告の裁判で、林泰男死刑囚や林郁夫受刑者はかつての尊師を罵った。
 「本当に洗脳が解けているかは極めて怪しい。薬物を使った洗脳は簡単に解けるものではない。ずっと刑務所にいて自然に解けたなんてあり得ません」(同)
  苫米地氏は、十数人の元信者の脱洗脳に成功したが、当時の苦労をこう話す。
 「隔離して専門的な技術を使って脱洗脳を行い、やっと解けたのです。その中の一人の正悟師のMは、現在刑期を全うし、OLとして社会復帰をしています」
  麻原死刑囚がいた東京拘置所(葛飾区)の周辺は、「麻原のエネルギーが強い」という理由から、信者の間では“聖地”とされている。ぶつぶつと何かを唱えながら巡礼する信者が近所の人の間で、たびたび見かけられている。
 「麻原の死刑が執行され、神になるだけ。オウムの闇は今も解明されていないことが多いのです」(同)
  だが、未解決事件を掘り起こしてほしくない人がいるようだと、苫米地氏は指摘する。
 「國松(孝次元警察庁)長官狙撃事件も、K(元巡査長)が証言をしても、証拠が次々と消されて隠滅されてしまった。サティアンがあった旧上九一色村に、核廃棄物がいまだに埋められているという話も、当局は調査しようとさえしなかった。麻原ら13人の死刑が執行されて、問題がなかったことのように、闇に葬られようとしています」(同)
■「車内にシンナーのようなにおいが漂い、『毒ガスだ、逃げろ』と」 被害者が語った忘れられない記憶
 《地下鉄日比谷線北千住発中目黒行きの午前7時46分発の電車に、実行役の林泰男死刑囚は、杉本繁郎受刑者の運転する車で上野駅から乗り込み、秋葉原駅でサリン液の入った三つのポリ袋を傘の先でついた。その結果、電車は築地駅で緊急停止。死者8人、重軽傷者約2500人を出し、日比谷線のこの電車はサリンがばらまかれた丸ノ内線、千代田線などの5本の電車の中で最大の被害が出た。当時、会社員だった石橋毅さんは、埼玉県越谷市で暮らし、朝の出勤途中、電車に乗り合わせることになった。》
  1995年3月20日は普段と何ら変わらない、晴れ渡った朝でした。日比谷線神谷町駅の近くにある会社のビルのメンテナンスに出勤するため、午前7時くらいに自宅を出て、越谷駅から東武伊勢崎線に乗り、日比谷線の北千住駅で席に座り、車内ではスポーツ紙で好きなプロ野球の記事を読みながらウトウトしていました。
 日比谷線の人形町駅か八丁堀駅を過ぎたころ、何か2回くらいドスンというような音がして、目が覚め、車内を見回したら、左斜め前に立っていた初老の男性がいきなり、のど元に手を当て、体を硬直させながら後ろ向きに倒れた。
  2メートルくらい離れたドアの近くには水たまりのようなものがあった記憶があります。車内にはシンナーのようなにおいが漂っていて、クラクラした気分になった。キャーという女性の悲鳴も聞こえた。
  スーツ姿のサラリーマンが、ハンカチを口に当てながら、ドアの近くにあった非常通報ボタンを押して、電車は築地駅で緊急停止した。「毒ガスだ、逃げろ」という声が聞こえ、乗っていた人たちは、ドアをこじ開け、一斉に走りだした。私も駅の外へ逃げようと全力で走ったが、階段を上っている途中で、足が動かなくなった。四つん這いになって地上を目指した。
  階段を上り切って、外に出ると築地本願寺のそばに出た。青い空、澄みきった空気でした。
  何が地下鉄で起きたのかはわからなかったが、とにかく会社へ行くことだけを考えていた。築地本願寺の前あたりから市場のほうへ交差点を目指して歩き、交差点でタクシーを拾い、後部座席に座り込んだ。運転手さんと話をしているうちに、息苦しくなり、大きく口を開けてハアハア言うようになって、そのうち気を失ってしまった。
  気づいたら、タクシーの運転手さんにかつがれて、虎の門病院の受け付けへ到着していた。病院ではソファに倒れ込んでいる人、ハンカチで口を覆ってうずくまっている人、駆け回る看護師さん。パニック状態でした。
  私は集中治療室(ICU)に運ばれ、点滴を受け、しばらく気を失っていた。スタッフが電話で「えー、サリンだってよ」と話している声が聞こえてきた。それで、サリンがまかれたのを知りました。病室がとても暗く感じました。後で知ったのですが、目の前が暗く感じるのはサリンの中毒症状だそうです。
  4日間入院しました。その後、通院しているときに、病院で警察の方からも事情を聴かせてほしいと言われ、話をしました。警察官から、地下鉄の電車の車内に、私が通勤の緑のバッグを忘れたと教えられました。中には弁当が入っていました。
 事件後、疲れやすく、膝に力が入らないなどの症状があり、誰かにつけられているという妄想にとりつかれた。精神科に入院したりもしました。
  3~4年勤めていたメンテナンス会社は、事件の半年後に辞め、地元の新潟県に戻ってきました。サリン事件後、5回転職し、結婚もしたけれど、5年で離婚。離婚してからプライベートでは何一つ楽しいことがない日々が続いた。
  2008年12月、政府はオウム真理教による八つの事件の被害者に対し、給付金を支払いました。
  そのとき、私は特に申請もしなかったのですが、一時金100万円を給付されました。
  その際に、警察の方が尋ねてこられ、新潟にもそういう被害者が十数人いるということを聞きました。
  今は新潟県長岡市の地元の会社に勤めて14年ほどになります。心の病や引きこもりの人たちがタレントとして活動する地元のグループ「K-BOX」に参加し、地下鉄サリン事件を題材にした詩を作って朗読したり、ピアノの弾き語りをするようになり、心の安定が得られるようになりました。
■医師が明かす「手探りだったサリンの解毒」
  地下鉄サリン事件では、約700人の患者さんが東京・築地の聖路加国際病院に殺到しました。それ以外の患者さんが都内の大病院にそれぞれ30~40人くらい搬送されました。私は34人の患者さんを診ました。今度は公的機関から「爆発ではなくて、どうやら青酸ガスによるシアン中毒のようだ」という情報が入り、やがてそれが誤りで、サリン中毒だったという情報に変わりました。
  救急車で患者さんが運ばれてきて、一番の症状は目の異常でした。サリンの影響で瞳孔が小さくなってしまい、光が入らなくて、まわりを暗いと感じる患者さんが多かったんです。息苦しいと呼吸の異常を訴える人や言語障害などの症状が出た人もいました。地下鉄サリン事件で、オウムが教団内部で実行犯たちの解毒剤として使っていた硫酸アトロピンやパムは、うちの病院に大量に保管してありました。特にパムは特殊な薬で、普通の病院にはあまりなかったので、東京都の他の病院にお分けしました。病院に搬送された方には、シャワーを浴びて浴室で着替えをしていただいてから入院していただきました。うちでは除染をやったおかげで、病院スタッフに誰も被害を出さずに診療ができました。体や衣服についたサリンが洗い流されたんですよね。
 重症化した人には衣類についたサリンを継続的に吸い続けて悪くなった人もいます。救急車で運ばれてくるとき、4~5人を詰め込んで連れてきたため、軽症の人や救急隊員も二次汚染した例がありました。他の医療機関で、患者さんの除染をせずにたくさん診察室に入れてしまって、医療スタッフが二次被害を受けたということもあったようです。サリンの診療にかかわった医師たちは諸外国の国々に呼ばれて講演に行っています。世界のテロ災害医療では、アメリカの9.11テロと日本の地下鉄サリン事件が、大きな教訓になっています。
■「サリン、VX液攻撃されても、平田被告らを弁護したワケ」 滝本太郎弁護士
 《1994年5月9日、オウムからサリンの襲撃を受けた滝本太郎弁護士がこう事件を語る。》
  当時、私は甲府地裁にいて、山梨県旧上九一色村のオウム真理教の教団施設を巡って、教団の弁護士と法廷で争っていました。開廷中、裁判所の駐車場に止めてあった、私の車のボンネットの空気口からサリンを流されました。空気口は閉じてあったのですが、帰りの車を運転していたら、突然、視界が暗くなった。親がクモ膜下出血の病気を患いましたから、私にもクモ膜下出血の前兆が出たのかと思い、脳ドックをしてもらいに病院へ行ったのを覚えています。
  サリンという言葉は麻原説法で知ってはいましたが、まさか自分がやられるとは思ってもいなかった。その後、教団による一連の事件で次々に信者が逮捕され、何人かが「滝本さんの車にサリンをまいた」と自白して、事態を知ったのです。93年7月からはオウム信者の脱会カウンセリング活動を始め、95年に一連のオウム事件がはじけるまで、三十数人が脱会したことから、麻原に狙われたんでしょう。私はサリン1回、VX液2回、ボツリヌス菌1回の合計4回襲撃されました。VXは一滴かければゾウも死亡してしまうほどの猛毒。
  94年10月、オウムの信者がデパートで買ってきたポマードにVX液を混ぜて、私の車のドアのノブに2回塗ったんです。私はノブを触りましたが、手袋をしていたのと、VX液も未完成だったので何とか無事でした。この事件の後の94年11月4日、今度はボツリヌス菌で殺害されそうになりました。この日、オウムから脱走した両親の2歳にもならない子供を教団施設から取り戻す交渉をしていたのです。私が静岡県富士宮市の旅館で、教団の弁護士と林郁夫受刑者と交渉していると、「これは健康的な飲み物です」とジュースを出されました。薄汚れたガラスコップだなぁとは思ったんだけど、のどが渇いていたし、飲んじゃった。そのコップにボツリヌス菌が塗られていましたが、飲んでも何ともなかった。警察は周りを見張っていたんですけどね。17年逃亡し、特別手配されていたオウム元幹部の平田信が突然、警視庁丸の内署に出頭しました(2011年12月31日)。平田が「滝本さんに会いたい、呼んでくれ」と言っていると警視庁から連絡があり、会いに行きました。
 重要なのは、彼をかくまっていた元女性信者を自首させないと2人とも刑が重くなるということだった。平田は彼女の自首に同意して、私にだけ、彼女の電話番号と居場所を話してくれた。彼女は一旦、犯人蔵匿罪で指名手配されたんですが、そのあと、指名手配が解かれたんですよ。彼女はもう罪になることはないんじゃないかと誤解していてね。私が電話で「犯人蔵匿罪は、住まわせたりして逃亡を助けていれば継続しているから、まだ時効なんて完成してないよ」と教えてあげたら、彼女は「じゃあ自首します」と了解したから、私が大阪へ車で迎えに行って、その車に段ボール6箱を積んで、付き添って自首させたんです。
  平田と彼女との利益対立を避けるために、私は10日間で平田の弁護人からは降りました。オウム元逃亡犯の菊地直子が逮捕されたとき(12年6月3日)は、親から弁護人になってくださいと依頼されて、面会に行った。菊地とは一度会っただけです。菊地本人が「親にいろんな迷惑をかけたくないから国選弁護人にしてください」と希望したので、私は辞退しました。
■「オウムに先手を打たれた」残党信者が今も増加する教団の実態 元警視庁捜査一課幹部
  地下鉄サリン事件の裁判では、教祖、麻原元死刑囚と信者9人の死刑、信者4人の無期懲役が確定した。
  未曽有のテロの“引き金”となったのは、迫り来る強制捜査だった。当時、サリンの製造責任者だった土谷正実死刑囚など教団幹部の取り調べを行った元警視庁捜査一課理事官の大峯泰廣氏がこう語る。
 「サリン事件の1週間前の日曜日、捜査一課捜査員200人全員が陸上自衛隊朝霞駐屯地に集められ、ガスマスクの装着訓練を極秘で行いました。これは強制捜査に備えたサリン対策の訓練でしたが、オウム側へ情報が事前に漏れてしまい、先手を打たれてしまった」
  公判記録などによると、麻原は1995年3月18日、故・村井秀夫幹部を呼び、社会をかく乱して強制捜査を防ぐために、「ポア」(殺人を意味するオウムの概念)を指示。大峯氏がサリン製造責任者だった土谷死刑囚らを取り調べた当時をこう振り返る。
「村井は3月18日、『大至急、作らないとダメだ』と土谷に指示し、前夜に約700グラムのサリンができあがりました。それを20日朝、霞ケ関駅などでバラまいたのです。麻原は『ハルマゲドン(人類最終戦争)が起こるから教団は武装しなければならない』と言い、VX、ソマン、イペリットガスなど多くの化学兵器を土谷に作らせていました。当時、土谷は後悔した様子は微塵もありませんでした」
  オウムは最盛期、在家信者1万4千人、出家信者1400人を抱える組織にまで拡大したが、公安調査庁によると、サリン事件後は信者数を千人まで減らした。
  だが、組織の再興に取り組み、99年に1500人まで回復。その後も微増の傾向を示している。2007年、オウムは現在「アレフ」を名乗る主流派と上祐史浩氏(52)が率いる「ひかりの輪」の両派に分裂。昨年の信者数は両派を合計して1650人。いずれも依然、麻原の影響下にあるとされる。
  昨年の資産額は両派を合計して6億9千万円。00年と比べて17倍以上の増加となった。アレフではお布施を集め、ひかりの輪では寺院を巡るツアーを企画するなどして、積極的に資金源を確保しているという。
  東京都足立区でオウム対策の住民運動を行う男性はこう語る。
 「施設に出入りしている信者数名が、駅で若いころの麻原彰晃の写真を眺めていました。近所の女子大生が、『ヨガに興味はないか?』と誘われたこともありました。信者は何をやっているかわからず、恐ろしい。早く解散してほしいです」
  なぜ、あれだけの凶悪事件を起こした団体が、求心力を持ち続けているのか。
 「新しく入信する人たちの動機は、『悪の組織だと思っていたけど、教義を聞いてみたら、すごいことを言っているじゃないか』というもの。単純に、『頭のおかしな集団がいて、危険だから監視しろ』と責め立てるだけでは、問題は永遠に解決しない。客観的な視点を踏まえた分析が必要です」(元信者)
 (本誌取材班)
 ※週刊朝日 2015年3月27日号より抜粋、加筆

 ◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
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超有能な彼らはなぜ麻原彰晃の元に集まったのか? <教団エリートの「罪と罰」(1)>遠藤誠一 井上嘉浩
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