横浜事件、無罪の判断 元被告に刑事補償認める---「無罪」決定が確定2010年2月13日

2010-02-04 | 社会

横浜事件、無罪の判断 地裁、元被告に刑事補償認める
asahi.com 2010年2月4日12時23分
 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」の再審で、有罪か無罪かを判断せずに裁判を打ち切る「免訴」判決を受けた元被告5人について、横浜地裁は4日、刑事補償を認める決定をした。5人の補償総額は遺族が請求した通りの約4700万円。大島隆明裁判長は「治安維持法の廃止など免訴にあたる理由がなければ、無罪判決を受けたことは明らか」と述べ、実質的な「無罪」と判断した。
 再審で無罪判決が言い渡された場合と同様に、今回の補償決定は官報や新聞に公示される。1986年に初めて再審請求して以来、初めて司法により元被告の名誉回復が図られる。最高裁によると、免訴判決後に刑事補償が認められたこれまでのケースは「把握していない」という。検察側は抗告しないとみられ、決定は確定する見通し。
 認められたのは、いずれも故人で、元中央公論社出版部の木村亨さん▽元改造社編集部の小林英三郎さん▽旧満鉄調査部員の平舘利雄さん▽元古河電工社員の由田浩さん▽元改造社編集部の小野康人さん。5人は治安維持法違反で45年に有罪判決を受けた。
 刑事補償法は、法の廃止や大赦などの免訴となる理由がなければ無罪判決を受けたと認められる場合には、補償金を支払うと定めている。
 決定は、神奈川県警特別高等課(特高)の当時の捜査について「極めて弱い証拠に基づき、暴行や脅迫を用いて捜査を進めたことは、重大な過失」と認定。検察官も「拷問を見過ごして起訴した」、裁判官も「拙速、粗雑と言われてもやむを得ない事件処理をした」としたうえで、「思い込みの捜査から始まり、司法関係者による追認により完結した」と事件を総括した。
 事件の発端のひとつは、特高警察が42年の富山県泊町(現・朝日町)での会合を、「日本共産党の再建準備会」とみなしたことだった。決定はこの会合について「遊興の会合だった可能性が高く、再建のための会議という事実は認定できない」とした。
 昨年3月に横浜地裁であった4次の再審判決を担当したのは、今回の決定と同じ大島裁判長だった。その判決の中で、刑事補償の請求があれば実質的な無罪判断を出す可能性を示唆していた。(波戸健一、二階堂友紀)
    ◇
 〈横浜事件〉 1942~45年、中央公論や改造社、朝日新聞などの言論・出版関係者の約60人が「共産主義を宣伝した」などとして神奈川県警特別高等課(特高)に治安維持法違反容疑で逮捕された事件の総称。約30人が有罪判決を受け、4人が獄死した。その後、取り調べに拷問があったとして、元警察官3人が特別公務員暴行傷害罪で有罪となった。元被告の無罪判決を求めた再審請求は86年から4次にわたって行われた。3次で初めて再審が認められたが、4次とともに「治安維持法の廃止」などを理由にいずれも有罪、無罪を示さない免訴判決が言い渡された。
........................................
横浜事件・元被告の遺族へ補償交付…地裁決定
2010年2月4日(木)12:08(読売新聞)
 戦時中最大の言論弾圧事件「横浜事件」で、再審で裁判を打ち切る免訴判決が確定した木村亨さんら元被告5人(全員死亡)の遺族が申し立てた刑事補償請求について、横浜地裁(大島隆明裁判長)は4日、「拷問による虚偽の自白で有罪とされたもので、現存する資料を基に当時の証拠を検討しても、5人が無罪だったことは明らかだ」として、遺族側の請求通り計約4700万円の補償を認める決定をした。
 決定は、 冤罪 ( えんざい ) を生んだ、当時の司法の責任も明確に認めた。
 最高裁によると、免訴判決が確定した元被告の刑事補償が認められるのは初めて。刑事補償法は、無罪判決だけでなく、免訴とされた人も「免訴とする理由がなければ無罪判決を受ける十分な理由がある場合」に補償を認めると規定。5人の有罪確定から65年を経て、事実上、無罪と認定された。
 元被告は第3次再審請求の木村さん、平館利雄さん、由田浩さん、小林英三郎さんと、第4次請求の小野康人さん。5人は終戦直後の1945年8~9月、治安維持法違反でいずれも懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けて確定。元被告らは86年に再審を請求。昨年4月に小野さんの免訴判決が確定、5人の遺族計6人が同4~5月に刑事補償を請求した。
 大島裁判長は決定で、有罪判決の唯一の証拠とされた元被告らの自白調書について「神奈川県警特別高等課(特高)による激しい拷問で生命の危機を感じるなどした結果、やむなくした虚偽の自白」と指摘した。
 特高が「(当時は非合法の)共産党再建の準備集会」と位置付けた会合も、「秘密会合ではなく、遊興目的だった」と認定、「再審公判で実体判断をしていれば無罪判決を受けていたことは明らかだ」と結論付けた。
 取り調べで拷問をした警察や起訴した検察、十分な審理をせずに判決を下した裁判所の過失も認め、「(事件は)特高の思い込み捜査に始まり、司法関係者の追認で完結した。各機関の故意・過失は総じて重大だ」とし、当時の司法の責任を明確に認めた。
 そのうえで、「5人が拷問を受けた肉体的、精神的苦痛は甚大」として、刑事補償法が規定する最高額の1日あたり1万2500円に、5人の逮捕・拘置日数(579~846日)を乗じ、約723万~1057万円の交付を認めた。
 ◆決定の骨子◆
 ▽再審公判で実体判断が可能だったなら、無罪判決を受けたことは明らか
 ・1945年に共産党再建準備会議と認定された会合は宴会だった
 ・自白は拷問で得られたと推認できる
 ▽当時の警察、検察、裁判各機関の故意・過失は重大
====================
戦時下最大の言論弾圧 横浜事件 無罪へ最後の機会
  2008/10/29中日新聞
 戦時下最大の言論弾圧とされる横浜事件で、事実上最後の請求となる第4次再審開始の可否が31日、横浜地裁で決まる。同事件では、特高警察のでっち上げを検察と裁判所が追認し、4人が拷問死した。関係者が「司法の戦争責任を追及する最後のチャンス」と訴える再審請求。共謀罪新設の動きやビラ配りなど微罪逮捕が繰り返される中、言論弾圧の危機感は現在に通じる。(横浜支局・中沢穣)
 「横浜事件は60年以上前のカビの生えた話ではない。過去の過ちを今、どう考えるのか。1986年の第1次再審請求以来、司法がその責任を全く認めなかったことに問題の本質がある」 再審請求人の斉藤信子さん(59)は横浜事件の意義をこう強調する。父親の改造社元編集部員、故小野康人さんは敗戦直後の1945年9月、懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けた。第1次再審請求に加わった母貞さんが95年に死亡した後、長女の信子さんがその遺志を引き継いだ。
■遺族の怒り■
 「母は、第1次請求で簡単に再審が認められ無罪になると思っていた。片付いているべき問題が片付いていないという思いだったと思う」
 第1次請求棄却の理由は「裁判記録が焼却され審理できない」。横浜地裁が敗戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)の追及を免れるため、裁判所中庭で書類を燃やし隠ぺい工作を図ったからだ。
 「目から火が出るかと思った」。貞さんは棄却を知った時の怒りと驚がくをこう表現したという。「裁判所は自分たちの隠ぺい工作を恥ずかしげもなくさらけ出した。この良識の欠如。母には『後には引けない』という強い決意があり、私はその姿に打たれました」
 康人さんは斉藤さんが9歳の時、51歳で亡くなった。事件を知ったのは3年後、中学に入ったばかりだった。貞さんが「もう言ってもいいころかな」と話し始め、父の口述書を手渡された。
 口述書は、有罪判決を受けた元被告が戦後に特別公務員暴行傷害罪で特高警察を告訴した際に提出したもの。苛烈(かれつ)を極めた拷問を詳述している。
 〈「髪の毛を一本一本引き抜いてやる」と言い、私の髪の毛を握ってぐいぐいと引っ張り、額を床に打ち付け、靴で腰を蹴(け)るのです。一方、杉田(拷問した警察官)は木刀でがんがん腰を打ち、「お前の1人や2人を殺すのは朝飯前だ。お前は、小林多喜二がどうして死んだか知っているか」と絶叫しながら、約1時間にわたって袋だたきにし、私はとうとう気絶してしまいました〉
 「私の記憶に残る父はお酒とお風呂が好きでのんきな人。その父がこんな経験をしていたと知り、本当にショックだった」と振り返る。貞さんは斉藤さんに「戦争とはこういう時代。渦中にある人は何もできない」と話したという。
■新しい証拠■
 逮捕者が60人以上に及び、全体像をつかみくい横浜事件だが、特高が最初に描いた構図はシンプルだった。雑誌「改造」に掲載された社会評論家細川嘉六氏の論文「世界史の動向と日本」が「共産主義を宣伝した」として、その前段階として富山県朝日町泊の旅館で開かれた宴会(いわゆる「泊会議」)が「共産党再建準備会」であり、「論文の検閲対策などを謀議した」とした。
 第4次再審請求では、新証拠で「拷問による自白」に加えて、論文は共産主義とは関係なく、「泊会議」も単なる宴会にすぎなかったと主張する。事件の虚構性を明確にし、特高がでっち上げた構図を正面から否定するもので、歴史的な評価に沿った内容といえる。
 「当時の法律に照らしても、論文の中身や会合の性格についてきちんと証拠を評価すれば、有罪判決はあり得なかった。背景には裁判官の怠慢があった」
 第4次再審請求の大川隆司弁護団長はこう説明し、「横浜事件は特高が拷問で自白させ、架空の構図を作り上げたという側面が強調され、その構図を丸のみした裁判所の責任はほとんど追及されなかった」と指摘する。
 しかし、第4次請求は仮に再審が始まっても、無罪判決は極めて難しい状況だ。
■免訴の壁■
 1、2次は請求が棄却され、3次は再審が開始されたものの、治安維持法がすでに廃止されていることなどを理由に有罪・無罪の判断を下さずに裁判を打ち切る「免訴」判決が今年3月、最高裁で確定した。第4次請求も、3次と同様に免訴となる可能性が大きい。
 このため、第4次請求では、再審開始の決定時に、裁判所が「無罪とするべき理由がある」と踏み込んだ理由を示すかが焦点とされる。弁護団では、「実質無罪」の再審開始決定を刑事補償請求につなげたい考えだ。
 同事件の再審請求は4次までで、次の再審請求の動きはない。元被告も全員が他界した。大川弁護士は「ドイツではナチス時代の司法を見直す運動が60年代にあった。日本でも司法がいかに戦争に加担したかを見直すべきだ」とし、「31日は実質的な『無罪』を勝ち取る最後の機会になる可能性もある」と話す。
 長年、横浜事件にかかわってきた元日本ジャーナリスト会議代表委員の橋本進さん(81)は「当時の治安維持法と変わらない」と指摘した上で、こう強調した。
 「日本での言論の自由は極めて危ない状況にあり、言論統制を再現させないためには、過去の言論統制をあいまいなまま終わらせてはいけない。横浜事件は、言論の自由確立のための運動だ」
【横浜事件】神奈川県警察部特高課(当時)による戦争中の大規模な言論弾圧事件の総称。
「共産主義を宣伝した」などとして、雑誌編集者や新聞記者など60人以上が治安維持法違反容疑で逮捕され、拷問によって4人が獄死、1人が保釈直後に死亡。雑誌「改造」「中央公論」は廃刊になった。30人以上が起訴され、ほとんどが終戦直後に執行猶予付き有罪判決を受けた。
主な経過
1942年7月 細川嘉六氏が「改造」に論文を掲載
    9月 警視庁が細川氏を逮捕
 43-45年 神奈川県警特高課が出版社員ら60人を逮捕
 45年8月 終戦。9月末までに多くの被告が横浜地裁で有罪判決
    10月 治安維持法廃止。審理中の被告は免訴に
 49年2月 元特高警官3人が特別公務員暴行傷害罪で実刑判決(52年4月に3人の有罪確定、直後に特赦)
 86年7月 第1次再審請求(最高裁で91年に棄却)
 94年7月 第2次再審請求(最高裁で2000年に棄却)
 98年8月 第3次再審請求
2002年3月 第4次再審請求
 03年4月 横浜地裁が第3次請求の再審開始を決定
 05年3月 東京高裁が検察側の即時抗告を棄却。再審開始決定
 06年2月 第3次請求で横浜地裁が免訴判決
 08年3月 第3次請求の免訴判決が最高裁で確定

小林多喜二(蟹工船)=特高による拷問で体を「墨とべにがら」色に変えられ、なぶり殺された
..................................................
横浜事件、元被告5人の「無罪」決定が確定
asahi.com2010年2月13日(土)10:10
 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」で、治安維持法違反の罪に問われて有罪となり、再審で免訴とされた元被告5人について、横浜地裁(大島隆明裁判長)が実質無罪の判断をして計約4700万円の刑事補償を認めた決定が13日午前0時、確定した。
 補償請求していたのは元中央公論社出版部の木村亨さん▽元改造社編集部の小林英三郎さん▽旧満鉄調査部員の平舘利雄さん▽元古河電工社員の由田浩さん▽元改造社編集部の小野康人さんの遺族。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。