事実認定には法律の知識が必要。事実認定ができなくて公正な判決は下せない=裁判は法律の素人にはできない  井上馨『中央公論』08年10月号

2008-11-02 | 裁判員裁判/被害者参加/強制起訴

裁判員制度導入で最高裁は報道規制を企んでいる
 
 裁判員制度は、平成21年5月の実施を前にして準備が進められている。私は、これまで裁判員制度の問題点について多角的に研究を続け、その成果を、拙著『つぶせ! 裁判員制度』(新潮新書、平成20年)にまとめた。その中核は、裁判員制度は、法律の素人が裁判機関の構成員となるため、法律に基づく裁判の原則が守られなくなり、憲法に反することにある。しかし、この点を除いても、裁判員制度の問題点は、なお数多く、その代表格が、本稿で扱う報道規制なのである。この問題の深刻さをクローズアップする試みは、ほとんど本稿が初めてである。
*条文化は見送られたが・・・・
 裁判員法の制定の過程で、提案されながら最終的に条文化が見送られたものがある。それが、本稿で扱う報道規制なのである。
  具体的には、司法制度改革推進本部事務局が「報道機関は事件に関する偏見を生ぜしめないように配慮しなければならない」とのいわゆる偏見条項を法案のたたき台に入れた。日本新聞協会と日本民間放送連盟は、偏見条項の削除を求める一方で、裁判員制度導入を想定した取材・報道指針の策定を表明した。自民党の司法制度調査会は、「自主的な取り組みをしていることを考慮して、当面、取材・報道に関する法律上の手当ては行わない」とし、これを踏まえて、政府は偏見条項を削除して法案を提出した。
*最高裁参事官による報道規制要請
 平成19年9月に開かれたマスコミ倫理懇談会全国協議会の大会で、平木正洋最高裁参事官が講演し、実質的な偏見条項の効果を持ったマスコミの自主規制を示唆したことがあった。これは、個人的見解と断ってのうえであったが、講演者の肩書と内容から事実上最高裁の見解と皆に受け取られた。この平木講演は、報道規制を求める側の考え方が実によくわかる詳細なものであるので、ここにやや詳しくご紹介しようと思う。
  平木講演はいう。これまで、裁判と事件報道の関係については、深い議論はなかった。というのは、職業裁判官は、報道された事実と、証拠によって認定された事実を明確に区別できるので、どのような報道をしても裁判には影響しないことが当然の前提とされてきたからである。
  ところが、裁判員は、刑事裁判に初めて参加するため、報道された事実と証拠によって認定された事実を区別することに慣れていない。これまでの事件報道の状況のままで裁判員が参加してきたとすると、公正かつ中立な判断をしてもらえるかどうかについて、大きな不安がある。
  報道機関の報道は、国民の知る権利に奉仕するものであり、憲法21条1項(表現の自由)の保障下にあるとはいえ、無制限というわけにはいかず、憲法37条1項が保障する公平な裁判所であるためには、裁判所が予断や偏見を有していないことが要求される。この「公正な裁判の保障」という重要な価値とのバランスを適切に図るためには、事件報道にあたり報道機関が一定の配慮をする必要がある。裁判員制度の実施までに、報道機関がこの点を検討して、ガイドラインを策定することが重要である。
  以上の総論を前提に、留意点を具体的に検討する。
① 捜査機関が取得した情報をあたかも事実であるかのように報道すること。松本サリン事件の当初の報道が、警察の発表した「現場の住宅地に住む男性が庭の雑草を取るための除草剤を作ろうとして薬品を調合していて有毒ガスが発生したらしい」という点に集中したため、この男性が犯人であるとのイメージが国民の間に定着した例を引き合いに出している。この事件は、オウム真理教が引き起こしたことが後にわかった。
② 自白していることやその内容を報道すること。この報道により、一般人に対し、容疑者=犯人であるとの強い意識をすり込んでしまう危険が高い。しかし、容疑者が捜査段階で一旦自白しても後にこれを覆すこともありうるし、法廷で、その自白は捜査機関から暴行を受け、あるいは利益誘導されてむりやりさせられたものであることが判明し、証拠として使えなくなる場合もありうる。それなのに、自白の報道によって一般人に容疑者=犯人であるとの強い予断を生じさせることにつながって、結局、容疑者に保障された無罪推定の原則を実質的に無意味なものとするおそれがある。
③ 容疑者の弁解の不自然さを指摘する報道。報道機関が、捜査機関の発表に依拠して裁判前に容疑者が犯人であることを前提として、容疑者の弁解内容はうそである、あるいは不自然、不合理であると一方的に指摘する報道によって、国民は、容疑者が犯人であるにもかかわらず、苦し紛れに不自然な弁解をしているのだという強い意識をすり込まれ、容疑者に保障された無罪推定の原則を実質的に無意味なものとするおそれがある。
④ 容疑者が犯人であることを示す証拠を断定的に伝える報道。国民一般に信用性が高いと認識されているDNA鑑定の結果について、容疑者が犯人あることを示す内容であったことが報道されると、裁判員は、科学的な捜査にも誤りが生じうるということについて経験則を有しないので、予断が生じる危険性が高いことが危惧される。
⑤ 容疑者の前科前歴に関する報道。同じような手口の前科前歴があれば、今回もやっているのではないかとの意識を、一般人は持ってしまいがちである。これまた、国民に対し、容疑者=犯人であるとの強い予断を生じさせ、容疑者に保障された無罪推定の原則を実質的に無意味なものとするおそれがある。
⑥ 容疑者の生い立ちや人間関係を伝える報道。この報道によって、国民は、容疑者が否認したとしても、こういう生い立ちや対人関係であれば、事件の背景や動機として十分理解でき、おそらくやっているであろうという印象を持ってしまう。これまた、容疑者に保障された無罪推定の原則を実質的に無意味なものとするおそれがある。
⑦ 有罪を前提とした有識者のコメントの報道。犯罪心理学者の「専門家の精神鑑定が望まれる」というコメントや、刑事訴訟法や少年法に詳しい大学教授が、「加害少年の厳罰化という時代の流れや行為の残虐性から考えると、動機の内容にかかわらず、刑事処分は免れないであろう」とコメントすると、国民は、有識者や専門家がこのようなコメントをしているのであれば、容疑者が事件を起こしたことは間違いないであろうという予断を与えかねない。(以上は、筆者の要約である)
*報道規制の生み出す恐怖
  平木講演によれば、「公正な裁判の保障」という重要な価値を守るために禁止すべき報道は、次のようにまとめることができる。
  これにより禁止される報道とは、①捜査機関が取得した情報をあたかも事実であるかのように報道すること②自白していることやその内容を報道すること③容疑者の弁解の不自然さを指摘する報道④容疑者が犯人であることを示す証拠を断定的に伝える報道⑤容疑者の前科前歴に関する報道⑥容疑者の生い立ちや人間関係を伝える報道⑦有罪を前提とした有識者のコメントの報道----である。
  仮にこの禁止が実施されれば、国民は、これらの報道に接することなく、何も知らない状態に置かれる。報道は、何も裁判員のためにのみなされるわけではない。この種の報道により、国民は社会的リスクを知り将来の防衛策を考えることもありうるが、報道の禁止により、このような防衛策を考えることすらできなくなる。
  仮にこの実施により禁止される報道は、現在、重大な犯罪の報道では、ごく普通になされているものばかりである。容疑者が自白していることや生い立ち・人間関係(事件の背景を含めた社会的評価には欠かせない)が書けなくて、一体何を報道しようというのだろうか?
  それに、1件の事件の裁判員は6人である。その6人に予断を与えないために、全国民約1億2000万人に情報を与えず、何も知らない状態に置こうというのである。常識的に考えて、いささかやりすぎではないか?
* 例えば秋葉原殺戮事件ならば
 平成20年6月8日、東京・秋葉原で、男が通行人をトラックではねた後、ナイフで次々と斬りつけた事件で、結局7人が死亡した。最初の新聞報道は、翌日夕刊であった。
  まず、読売新聞を見ると、「調べに対し『人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった』などと供述している」点は、②自白していることやその内容を報道することに該当するから、禁止対象である。「勤務態度まじめ」の見出しの後に、「加藤容疑者は青森市出身。東北一円に支店を持つ労働金庫に勤務する父親を持ち、家族4人で暮らしていた。中学校までは成績はトップクラスでテニス部に所属。当時の同級生らによると、『将来を有望視される存在』である一方、『影が薄い』とも見られていた。高校は県内トップの県立高校に進学したが、目立つ存在ではなかったが、周囲から『人を寄せ付けない雰囲気があった』『ナイフを持ち歩いているとのうわさがあった』(いずれも元同級生)とみられていた」とあったり、加藤容疑者が書いた中学校卒業文集のイラストまで載せているのは、⑥容疑者の生い立ちや人間関係を伝える報道そのものであり、ご法度だ。
  次に、朝日新聞を見ると、「殺人未遂容疑で現行犯逮捕された男は警視庁に『秋葉原は数回来たことがある。人がたくさんいることを知っていた。2,3日前に決意した』と供述」、「『人を殺すために秋葉原に来た。世の中が嫌になった。生活に疲れてやった。誰でもよかった』と述べているという」という報道は、②自白していることやその内容を報道することに該当するから、禁止対象である。また、「東京工業大の影山任佐(じんすけ)教授(犯罪精神病理学)は『池田小事件などにみられるように、死刑願望に加え、挫折感や自己愛から自分の存在を誇示するために、大規模な事件を起こす傾向が目立つ』と話す」という報道は、⑦有罪を前提とした有識者のコメントの報道であるからご法度だ。
  これは、禁止対象に該当するほんの1例に過ぎない。子細に検討すれば、禁止に触れる点は、多数に上る。
  ということは、裁判員制度実施により前記禁止がなされた後の報道は、これらの点がことごとく墨で塗られた状態になるということを意味する。本稿で取り上げる裁判員制度に伴う報道規制の問題が、いかに深刻で、国民全体の利害に直結するかが、イメージされたであろうか。
*確かに報道は判決に影響するが
 平木講演に見る最高裁の見解によると、裁判員制度に伴う報道規制の実質的根拠は、Aこれまでの事件報道では、前記①から⑦までの内容が含まれていた。Bすると、職業裁判官は報道された事実と証拠によって認定された事実を明確に区別できるものの、裁判員は区別できないので、どうしても報道された事実によって影響を受けてしまう。Cそうすると、裁判の公正さが失われてしまうため、この事態を防ぐためには報道を規制せざるをえない。D報道機関の有する表現の自由(この中に報道の自由も含まれる)は、無制限ではないから、裁判の公正を保つためにする報道規制は、表現の自由を侵害するとはいえない----という論理関係に分析することができる。
  一見すると、もっともらしく、ともすると、説得されそうに思える。しかし、私は何かおかしいと感じる。考えてもみてほしい。裁判員制度の対象事件は、殺人、強盗殺人、放火といった重罪ばかりである。当然、社会的関心は高い。新聞の一面トップニュースになる場合も少なくないであろう。このような報道すべき要請が特に高い事件報道が、大部分墨塗り状態を強いられてよいのであろうか?何だか、戦時中の報道管制そのままの気がする。戦時中でもないのに、このようなことが許されてよいのであろうか?
  そこで、最高裁の論理AからDまでをじっと思案の対象とする。すると、裁判官は報道された事実と証拠によって認定された事実を明確に区別できるのに、裁判員はできないのはなぜかという問いにたどり着く。裁判官は、どうしてこの区別をするのであろうか?私は、20年間裁判官を務めていたから、そのわけはよくわかる。それは刑事訴訟法三一七条に「事実の認定は、証拠による」という規定があるからである。ここで証拠というのは、法廷で取り調べた証拠を指す。だから、判決で使う事実とは、法廷で取り調べた証拠によって認定された事実に限られることになる。報道された事実は、もちろん、この中に含まれないから、判決で使うことは許されない。だから裁判官は、報道された事実と、証拠によって認定された事実を明確に区別して、前者を捨て後者のみに基づき判決を出すのである。これは、裁判官の個人的な考え方によるものではなく、法律(刑事訴訟法三一七条)が裁判所の構成員に命じたことなのである。
  これに対し、裁判員は法律の素人であるから、当然、刑事訴訟法三一七条も知らない。当然、報道された事実と証拠によって認定された事実の区別など知るよしもないから、前者によって認定した事実を判決に使うのも、ごく普通のことと考えるも無理はない。だから、事件報道により予断を抱くのもごく普通のことになるに違いない。特に、自分が裁判員に選ばれたと知ったときの心理を考えるとよくわかる。「大事な判決を出すのだから、予習をしなければいけない」。そんな軽い考えから、その事件を扱うテレビのワイドショーを梯子して、「十分なる予習」を重ねると、もうそれだけで立派な予断の塊が彼の頭の中にできあがってしまう。
  つまり、裁判員は、法律(刑事訴訟法三一七条)を知らないから、これに従った行動(法廷で取り調べた証拠のみによって事実を認定すること)をとることができず、事件報道による予断を抱いてしまう危険があるのである。
*最高裁参事官も思っている「裁判は素人ではムリ」
 平木参事官が懸念するように、裁判員が事件報道により予断を抱いてしまい公正な裁判が危うくなるのは、裁判員が法律を知らず、これに従った行動をすることができない点に根本的な原因がある。このように、裁判の手続きの中で事実認定をするには、法律の知識がどうしても必要になるのである。事実認定が満足にできなくて、公正な判決が下せるわけがない。これは、すなわち、「裁判は法律の素人にはできないということ」を示していると理解しなければならない。
  ところが、この点について、最高裁は、全く逆の見解を公表し続けている。最高裁のホームページ(平成20年8月3日現在)を見ると、「法律を知らなくても判断することはできるのですか」という質問に対し、「裁判員は、事実があったかなかったかを判断します。裁判員の仕事に必要な『法律に関する知識』や『刑事裁判の手続き』については、裁判官が丁寧にご説明します。皆さんも日常生活の中で、何らかの根拠から事実があったかどうかを判断することがあると思います。例えば、壁にらくがきを見つけたお母さんが、このいたずらは兄と弟のどちらがやったのかと考える場合、『こんなに高いところには弟は背が届かないな』とか、『このらくがきの字は弟の字だな』とか、らくがきを見てどちらがやったのかを考えると思います。刑事裁判でも証言を聞いたり、書類を読んだりしながら、事実があったかなかったかの判断をしていくので、日常の生活で行っていることと同じことをしていると言えます」という回答を載せている。
  最高裁は、裁判での事実認定は、日常の生活で行っている事実認定と同じだというのである。しかし、日常の生活で行っている事実認定ならば、認定の根拠に制約はないので、うわさやマスコミの報道を含めて、どのようなものから認定しようと個人の自由である。しかし、裁判での事実認定は、先に述べたように、法廷で取り調べた証拠のみによってしなければならず、日常の生活で行っている事実認定とはまるで違うのである。この大きな違いが厳然としてあるにもかかわらず、「違いはない」と言い切る最高裁の説明は、正当とは思われない。最高裁も、法律の素人には裁判に必要な事実認定はできないこと、さらには、「裁判は法律の素人にはできないということ」を認めるべきである。誤りを認めるのに遅すぎることはない。
*基本的人権すら危うくする
 そればかりではない。日本国憲法は国民に基本的人権を保障し、詳細な人権規定を有している。とはいえ、これらも、所詮は紙の上でのことに過ぎない。これらの人権規定が、社会の中で意味を持つとしたら、最終的には裁判所の場で、人権規定が正しく適用され、これにより国民の権利が守られることが絶対に必要である。特に刑事裁判手続きについては、拷問の禁止、黙秘権の保障、遡及処罰の禁止、一事不再理等の基本原則が、憲法自体に明記してある。裁判員裁判の なかでも、これらの規定は、正しく適用されなければならない。
  ところが、裁判員は法律の素人ゆえに、当然のこととして、これらの人権規定を知っていることは保障されない。ということは、これら人権規定が裁判員裁判の現場で正しく適用されず、国民の権利が守られない事態が防げない危険がある。つまり、裁判員制度の導入によって、憲法が国民に保障した基本的人権が画餅に帰するおそれがあるのである。
  元来、憲法は国の最高法規であるから、法律制度は、この憲法に適合するように設計されなければならないのに、裁判員制度については、この点がまったく守られていないのである。まじめに考えると、全く信じられない制度が、忽然として日本に出現したのである。
  私はこのように、法律の素人である裁判員を構成員に含む裁判所は、法律に基づく裁判ができなくなるから、憲法に違反するとし、反対しているのである。読者も、裁判員制度の根本的問題点について、今一度、予断を抜きにして考えなおしてみてはいかがであろうか。
*報道は規制に立ち向かえ!
  最高裁参事官が、裁判員に予断を与えないためと称して、報道機関に要請した報道規制は、制度上の人選の間違い(裁判機関の構成員の中に法律の素人を入れた)により必然的に発生する矛盾を回避するためのしわ寄せが報道機関に集中した結果と理解することができる。報道機関は、裁判員制度の設計ミスによるとばっちりをすべて引き受けさせられようとしているのである。報道関係者は、どのように対応したらよいのであろうか?
  ここで、報道機関の社会的地位について小考してみよう。すると、憲法の保障した表現の自由を十全に行使し、それ以上に、取材源の秘匿や訴訟上の証言拒絶権までも保障されるという、まこ
 とに優遇された地位を保っている。一民間企業に過ぎない報道機関をここまで優遇する理由はなんであろうか?それは、国民の知る権利に奉仕するからである。国民が国の内外の様々な情報を取得する手段を考えるとき、報道機関の存在は巨大である。裁判員裁判の対象となるような重大事件が発生したことやその内容を知るには、報道による場合がほとんどであろう。
  こう考えてくると、報道機関は、常日頃から前記優遇された地位を享受している以上、その地位に伴う当然の義務として、本気で国民の知る権利に奉仕しなければならない。そうでなければ、報道機関は、前記優遇された地位を返上しなければならない道理である。
  具体的には、制度上の人選の間違い(裁判機関の構成員の中に法律の素人を入れた)により必然的に発生する矛盾を回避するためのしわ寄せなどを拒否して、従来どおりの事件報道を維持すべきである。もし、最高裁をはじめ、裁判員制度実施に躍起となっている国家機関から、陰に陽に圧力を掛けられたら、裁判員制度自体の誤りを理由に、その圧力をはね返していただきたい。大義名分は、「国民の知る権利の擁護」である。
  ところが、日本新聞協会や日本民間放送連盟は、平成20年1月、最高裁の要請に応えるがごとく、裁判員制度に伴う報道の自主規制を早々と決めている。これまで、本稿のように、裁判員制度に伴う報道規制の誤りを鋭く指摘する研究に接することはなかったため、「公正な裁判のため」という建前に抗しきれなかったことは想像に難くない。しかし、今、本稿が指摘した通り、事態は新しい段階に突入した。もはや、最高裁の要請する報道規制や、裁判員制度の根本的誤りは明らかである。報道機関は、これまでの行きがかりを捨て、報道機関の前記使命によくよく思いを致し、拒否すべきものは拒否するよう行動を転換すべきである。全国民が注目している。報道関係者の良心が試されているのである。

 井上馨/弁護士・元判事(いのうえ かおる)
  1954年東京都生まれ。東京大学外学院理学系研究科 化学専門課程修士課程修了。司法試験合格後、判事を経て2006年退官した。『司法のしゃべりすぎ』『狂った裁判官』 『司法は腐り人権滅ぶ』『はじめての裁判傍聴』など著書多数。

  『中央公論』08年10月号
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