「だから死刑は必要だ」無期懲役囚から廃止論者へのメッセージ 美達大和

2018-08-10 | 死刑/重刑/生命犯

「だから死刑は必要だ」 無期懲役囚から廃止論者へのメッセージ
社会 2018年8月10日掲載
「犯行の態様」を熟視せよ
 オウム真理教の死刑囚の刑の執行が一斉に行われたことをきっかけに、死刑制度の是非もまた論じられることとなっている。
「海外では死刑廃止が主流」という主張もある一方で、国民の多くはいまだに死刑の存続を求めているというデータもある。重要なテーマだけに政治家、専門家はもちろん国民的な議論が沸き起こること自体は決して悪いことではない。
 ただ、こうした場合に抜け落ちがちな視点がある、と独自の立場から指摘をしているのが美達大和氏。
 美達氏は、実は2件の殺人により無期懲役となった現役の受刑者だ。その一方で、旺盛な執筆欲を持ち、刑務所から様々な論考を発表し続けている。
 その美達氏は、かねてより死刑の必要性を訴えており、『死刑絶対肯定論』という著書まで発表している。
 なぜ彼は死刑の必要性を強く訴えているのか。同書からその主張を抜粋・引用して紹介してみよう。
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 死刑の存廃・必要性について考察する際に、常に欠けていると感じることがあります。それは、死刑と死刑囚については語られますが、肝腎のどのような罪質・犯行態様の為に死刑を科されたのかという検証がないことです。
 この先を読まれる際には、不快になるかもしれませんが、できましたら辛抱してお付き合い下さい。特に、死刑廃止を支持する人には、読んで欲しいと思います。これは、私が新聞と書籍からピックアップしたものです。全て、加害者は男であり、死刑を科された事犯ですが、皆さんも何となく聞いたことがあるかもしれません。
(1)強盗強姦殺人・強盗殺人・死体遺棄、損壊。加害者50代。被害者30代女性1人、50代女性1人。
 好意を持っていた女性に交際を申し込み、断られたことに怒り、顔面・頭部を乱打し、剥ぎ取った衣服を首に巻き付け数分間絞め、死亡確認後、死体を屍姦陵辱して性欲を満たし、死体から金品を奪い、死体を湮滅(いんめつ)する為に焼却し、遺骨を埋める。
 その後、行き付けの飲食店(住居も兼ねる)に侵入し、金品を盗もうとして物色中、就寝中の女性を認め、強姦しようとしたが大声を出された為、両手で首を数分間絞め続けて殺害。念の為に電気コードで首を絞め、殺害後の陰部を弄んだうえ、屍姦しようとしたが、排泄物を見たので未遂。その後、時計、指輪等を奪った。
 前科・前歴なし。勤勉であり、正業に就き、普通に社会生活を営んでいた。
(2)殺人・詐欺。加害者40代。被害者20代女性1人、10代男性1人。
 保険金を騙し取ろうと計画し、以前、同居したことのある女性に精神安定剤を服用させ、熟睡している女性を浴室に運び、浴槽の湯に顔をつけて殺害し、保険金約150万円を騙取(へんしゅ。騙し取ったの意)。同じく保険金を取る目的で、幼少の頃から養育してきた男性を、用水路の中に入れ、顔面を押さえて水死させ、約1千万円の保険金を騙取。
 服役歴10回、計24年間服役。
(3)強盗殺人・死体遺棄。加害者30代・20代(2人)。被害者60代男性1人。
 遊興費目的の為、犯行を計画し、資産家である男性を刃物で刺して重傷を負わせ、現金約100万円を脅し取り、医者を求める必死の哀願を無視し、苦しむ男性を約15時間放置。その間に2千万円の金を家族に用意させ奪おうとしたが失敗。その後、男性を計画通り殺害。死体から首、両脚を切断し、船に乗って海中に投棄し、奪った金は飲食代とした。加害者らは、飲食店を経営し、生活に不自由はなかったが、働くことを厭うようになり、一攫千金を狙って犯行に及ぶ。
 両名共、前科なし。
(4)殺人未遂・殺人・死体遺棄・詐欺。加害者40代(暴力団員)。被害者30代男性1人(未遂)、40代男性1人。
 生命保険騙取を目的として、男性を車で轢き殺そうとして重傷を負わせるが、未遂。4カ月後、別の男性を車内で絞殺し、死体を近くの草地に放置し、保険金1千万円を騙取。
 服役歴1回。
(5)強盗殺人・現住建造物等放火。加害者20代。被害者10代女性2人。
 覚醒剤の購入資金を得る為、空き巣に入ったが、予期したほど金がなかった腹いせに、犯行を隠蔽する為、灯油を撒き放火。その後、まとまった金を得ようと泥棒に入り、10代前半の娘しかいないことを確認し、無抵抗の少女2名の胸部を包丁で滅多突きにして殺害後、金品を盗み、灯油を振りかけ放火。
 服役歴は少年院1回。暴力団事務所に出入りし、正業に就いたことはなし。
 他にも、生きたまま被害者をドラム缶に入れ、灯油をかけて焼き殺した等、残虐以外の形容が見付からない事件は枚挙にいとまがありません。死刑を科される犯罪態様とは、このようなことを指します。もし、この中の被害者が自分の家族だとしたら、皆さんはどのように感じるでしょうか。こうした加害者が生きていることが「公正」と言えるでしょうか。
*遺族の苦しみは一生続く
 刑罰の役割には、国が被害者・遺族に代わって、加害者に報復するという性質もありますが、これは被害者・遺族の被害感情の為だけにあるのではありません。社会秩序・正義の実現と回復の役割も担っているのです。
 犯罪の被害者となり、大切な家族を喪った遺族は、悲痛な叫びをあげています。
「どうして、あの子(あの人)が死ななければならないの」
「家族を返して」
「うちの子は、父親の顔を知りません。お父さんは、どこへ行ったの、と淋しそうに言います」
 遺族の叫びは一生続きます。理不尽な犯罪で殺された被害者に思いを馳せる時、「死刑は不要」とは考えられません。何の過失もない人を2人、3人、4人と冷酷に殺す加害者に、死刑以外の刑罰が考えられるでしょうか。
 刑罰の大原則である行為と量刑の均衡を考量しても、世の中には死刑を科すことでしか処断できない犯罪があるのです。現在の判例主義が反映された量刑では、軽過ぎると思います。軽過ぎる刑、一見すると人道的に思える刑は、そのまま社会防衛上の危険となり、皆さんがその危険性を負担しなければなりません。
「命を奪い、或は奪おうとする程安全を侵した場合、それは死に値する」
『法の精神』を著し、三権分立を提唱したモンテスキューはこう言いました。殺人という理不尽な被害に遭った被害者と遺族に対して、救済しよう、いくらかでも応報感情を満たしてやろうという刑罰がなければ、法の下での正義とは何なのか、ということになるでしょう。
 死刑を求刑され、免れた者達が、己の罪を省みることもなく日夜、明るい雰囲気となった刑務所で笑って過ごしていることが、正しいことなのでしょうか。死刑を科されたからこそ自らの死に目を向け、殺された被害者の立場に共感し、悪の汚辱に満ちた心を救う者がいるのです。
 死刑廃止派の人は、亡くなった被害者は加害者の死を望んでいないと言いますが、本当にそうだと言い切れるでしょうか。私は、唐突に、そして凄惨に人生を断たれた被害者の多くは、加害者の死を望むと信じています。加害者の死によって被害者が生き返ることはありませんが、大半の遺族は、「心に一区切りがついた」と語ります。これで墓前に報告できて、ホッとしたとも言います。
 死刑廃止派の人が使うレトリックには、いつも、被害者・遺族の視点が抜けている気がしてなりません。全体から比べれば僅かしかいない、加害者を赦している遺族のケースを普遍的であるかのように挙げています。
 被害者が、加害者の死を望むかどうかについては、いずれも推測でしかありません。ブラック・ジョークではなく、仮に自分が利得や性の欲望の為に殺害されたなら、加害者に対して死を望むかどうか、生前に希望を申告しておいたらどうでしょうか。裁判では、当然、それを被害者の意見として参考にするのです。殺害方法・動機によっては、法の正義を満たす為に、遺族の意志にかかわらず、見合った刑罰を科さなくてはなりません。その為にも死刑という刑罰は不可欠です。
*粛々と執行せよ
 死刑囚が罪を悔い、改心し、被害者の冥福を祈るのは当然のことです。そのことが罪を減じる理由にはなりません。犯罪への深い悔悟の念と、被害者・遺族への謝罪により、死刑囚が人間性を回復し、そのことを第三者が評価したとしても、過ちの責任をとって刑に服することは当然の報いとして残ります。厳密に言えば、仮に遺族が赦そうとも、被害者の命を奪った事実は消えず、罪自体の重さは不変です。
 加害者として、その責任を取り、罰を受けなくてはなりません。
「相手は誰でもよかった」
「人を殺してみたかった」
「悪いと思っていない。寧ろ、ざまあみろと言いたい」
「自分も死にたかったが自殺できなくて、人を殺せば死刑になると思った」
 このような加害者達には死刑という刑罰が絶対に必要です。
 事件後の遺族達は、日常生活で笑えるようになるまで、相当の長い期間が必要だったと語っています。
「人の死を望むことは間違ったことだと思いますが、まだ小さな子を残して、突然、殺されたことを思うと、どうしても犯人には生きていて欲しくないのです。私も、こんなことを言うのは辛いですが」
 ある遺族が、法廷で述べた言葉ですが、第三者は、言葉の奥に秘められた思いを知ることはできません。残された遺族にとって、死刑と無期懲役刑では天と地ほどの差があり、その後の人生にも強く影響するようです。
「執行されても赦さないが、納得する。新しい人生を歩いていく区切りになる」
 事件の時から時間が止まったままの遺族にとって、死刑という刑は、たった一つの精神の支えなのかもしれません。
 多くの加害者は、理論的には更生できる可能性を持っています。しかし、その可能性があったとしても、行った行為を鑑みた場合、更生とは一切関係なく断罪されなければならない時もあります。
 (略)
 死刑制度がある以上、その執行は粛々と行うべきです。法律では確定後、6カ月以内に執行することとなっています。しかし、現実には執行まで何年、何十年とかかり、10人以上を殺害したにもかかわらず十数年も執行されない者もいます。
 行政は法律を尊重して、執行を恣意的に遅らせたり、停止することも避けるべきです。刑事訴訟法第475条では、死刑の執行は法務大臣の命令によるとありますが、死刑判決という司法が決定したことを、行政が個人の恣意判断によって無視するのは許されないことです。仮に、死刑制度に反対の意向を持っていたとしても、その職に在るならば、法律を遵守して職務を遂行すべきであり、それができないのなら職に就くことを辞退しなければならない筈です。
 被害者の遺族には、加害者の執行がある日まで自身が生きていられるか、不安と焦燥の中で暮らしている人が沢山います。高齢の身で、積年の悲しみと疲弊しきった精神を抱え、被害者の墓前に一つの区切りを報告する日が訪れることを、残された自らの寿命と対峙しながら、一日千秋の思いで生きている人のことを知って欲しいと思います。
   ***
 引用中で、美達氏が紹介している受刑者たちの無反省な言葉に対して、疑いの目を持つ人もいるかもしれない。さすがに、少しは反省しているのではないか、オウム真理教の死刑囚たちも反省の弁を述べていたではないか――と。しかし、実際に美達氏が接してきた受刑者の多数派は、こういう調子なのだという。たとえば、自分が窃盗に侵入したにもかかわらず、被害者に非があるかのように罵倒する受刑者は珍しくない。
「あんな所にいるからだ」
「向かってくるからだ」
「騒ぐなって言ったのに大声出しやがって」
「盗られたってどうせ会社の物なのに邪魔するからだ」
 一方で、自分の死刑が確定して、ようやく殺した相手のことを考えるようになった、という死刑囚もいたという。
 実際に刑務所で数多くの受刑者と接してきた美達氏の経験と言葉はきわめて重い。少なくとも「海外からどう思われるか」といった理由で、この制度の存否を決めるべきではないのではないか。
 デイリー新潮編集部

 ◎上記事は[デイリー新潮]からの転載・引用です
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なぜ無期懲役囚が小説を書いたのか・・・美達大和著『死刑絶対肯定論―無期懲役囚の主張』
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