「焼き場に立つ少年」死んだ弟を背中におぶって… 昭和21年、原爆投下後の長崎で…

2021-03-11 | 文化 思索

「87歳には87歳の言い分ってものがあります」――草笛光子「きれいに生きましょうね」第1回「歯に衣着せずに」
 草笛 光子   
source : 週刊文春 2021年3月11日号
genre : ライフ, 社会, ライフスタイル
 ドラマ『その女、ジルバ』(東海テレビ・フジテレビ系)での熱演が話題の俳優・草笛光子さん。「週刊文春」3月11日号から新連載「きれいに生きましょうね」が始まりました。第1回を特別公開します。
       ◆ ◆ ◆
 私はいま、憤っています。そして、可哀想で可哀想で涙が止まりません。この写真は、何度見てもダメ。「焼き場に立つ少年」という写真です。小学校中学年くらいの坊主頭の男の子が、死んだ弟を背中におぶって、火葬場で順番を待っている写真。昭和二十年、原爆が投下されたあとの長崎で、アメリカの従軍カメラマンが撮影したそうです。
 その写真が、一昨日またテレビに映っていました。見るのは辛い。けれども、目を背けてはいけない。
 汚れた裸足で、不動の姿勢でまっすぐ前を向いて、歯を食いしばって口をへの字に結んでいます。いっそ、涙を流してくれていたほうがいい。我慢している顔が、なおさら辛いです。
 こんなに心を揺さぶられる写真があるでしょうか。戦争は絶対にダメだと、如実に語っています。誰がこの子に、こんな思いをさせたのよ。なぜこんな年の子が、火葬場に並んでいるのか。お父さんは、お母さんはどうしたのだろう。戦争のあと、どうやって生きたのか。
 この男の子が誰なのか、多くの人が探しました。撮られたのが長崎のどこで、足元に写っている電線は何の電線か。探したけれど、見つからないそうです。終戦の年に十歳だったとすれば、いま八十五歳。どこかで生きていらっしゃるなら、私もお会いしてみたい。でも名乗り出ると、心の傷が開いてしまうのかもしれませんね。
 私も昭和八年生まれですから、戦争を体験しています。家のあった横浜に父だけ残して、祖母と母、長女の私、弟、二人の妹とで、縁故疎開しました。群馬県の高崎、そこからさらに富岡へ。
 その富岡で、下の妹が死にました。食べる物がなくて、どこかでご馳走になった牡丹杏(スモモの一種)か何かに当たってしまったんです。まだ五歳でした。キューピーさんみたいに髪の毛がクルッとしていて、きょうだいで一番可愛い顔をしている子でした。
 私は死んだ妹を背負いはしなかったけれど、空襲警報のたびに骨壺を持ち出す係でした。家の電気を消して、製糸工場の横を通って近くの川辺へ降りて、しゃがんでいるんです。そのときに「アキちゃん」って妹の名を呼ぶと、骨壺の中のお骨がカタコトカタコトいうのよ。敵機が来てビューッと飛んで行くまで、そうやって隠れていました。
 戦争が終わって横浜へ帰り、幸い父も家も無事だったので、焼け出された近所の方々を招き入れ、とにかく一所懸命にただ生きてるだけでした。その頃はわからなかったけれど、いまになってみると、なんて大変な時代を潜り抜けてきたのか。でもあの頃の経験を思い出さなきゃいけないし、通ってきた道を語らなきゃいけない。あんな辛い思いを、日本人に二度とさせてはいけませんからね。
「焼き場に立つ少年」に注目したのは、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇です。令和元年十一月に長崎を訪れてスピーチしたときも、大きく印刷したパネルが横に置かれていました。ローマ教皇がこの写真で、戦争や原爆の怖さを世界へ知らしめようとしているのに、日本は何をやっているんでしょう。それが恥ずかしくて、私は憤っているんです。
 日本を守っているつもりになっている方々は、あの少年の写真を見て、絶対に戦争をしないと念じて欲しいと思います。私たちが涙を流すだけでは、どうにもなりませんもの。もしも日本が戦争のほうへ向かいそうになったら、あの写真を持って行って見せればいい。それで気付かないようなら、国を守る立場をやめていただきたい。

87歳、タガが外れた
 私は、旅行ジャーナリストの兼高かおるさんとお友達でした。昭和三十四年から三十一年間も放送された『兼高かおる世界の旅』は、まだ海外旅行が自由にできなかった頃の日本人に、世界を教えてくれるテレビ番組でした。五歳年上の彼女とは、夜中によく長電話をしたものです。
  彼女は外国をよく知っているから、私は質問ばかりします。「どうして日本は自立できないの?」「外国に頼らないと食べていけないのよ」最後は政治の話や世界の問題を語って、「あら、もう2時間しゃべっちゃったね」。けれども一昨年、彼女は亡くなってしまいました。
 だからいま、言いたいことを言える友達がいなくて寂しいの。週刊文春の編集部から連絡があったとき、「えッ、私、何か悪いことしたかしら?」と身構えましたよ。よくお聞きしたら連載だというのですが、どういう態度で何をお話しすればいいのか。兼高かおるさんと夜中の電話で話してたようなことを、言いたいように言っちゃえばいいのかなと考えて、お引き受けしました。
 この年になって私、自分を規制するタガが外れました。いい顔をしたいとか、カッコよく見せなきゃとか、「世間のことを何も勉強してないな」と言われたら恥ずかしいとか、そういうタガが外れたの。もう、誰に何と思われてもかまいません。偉そうなことは言えないけれど、八十七歳には八十七歳の言い分や言い方ってものがあります。ボケてますがそれを書いてみます。
 もともと私は、後ろを振り向くのが嫌いです。首が痛くなりますから。でも最近は、語り部としてインタビューを頼まれる機会も増えました。去年で芸能生活七十周年を迎えましたから、ご縁のあった映画監督や役者さんの思い出や、身の回りのことなども、お話ししていきたいと思います。
 飾らないこと。それがいまの私にとって、きれいに生きること。女優人生も私の人生も、あともう少しで終わりだろうから、歯に衣着せないで、言うだけのことを言って消えて行こうと思っています。世間知らずの私ですがどうか笑ってお付き合いください。
(構成 石井謙一郎)

 ◎上記事は[文春オンライン]からの転載・引用です


「焼き場に立つ少年」はあの子?謎追う被爆者 ローマ法王注目の写真
 2019/8/5 6:00 (2019/8/5 14:32 更新)   

 亡くなった弟を背負った少年が、真っすぐ前を見つめる。原爆投下後の長崎で撮影したとされる写真「焼き場に立つ少年」は、11月に来日予定のローマ法王フランシスコが世界中に広めるよう呼び掛けたことで注目された。法王は言う。<このような写真は千の言葉よりも伝える力がある>。だが少年の身元も撮影場所も分かっていない。長崎市のある被爆者は今も、写真の謎を追っている。
 写真は、米軍の従軍カメラマンだった故ジョー・オダネルさんが1945年に長崎で撮影。少年が焼き場で弟を火葬する順番を待っている場面だとされる。
 「あの子じゃなかろうか」。長崎市の元小学校長、村岡正則さん(85)は10年ほど前、写真が長崎で公開されることを伝えるニュースを見て驚いた。同じ銭座国民学校(現銭座小)に通っていた少年にそっくり。学級は違ったが、何度か校庭で遊んだことがある。丸顔でおとなしい性格。転校生だったと記憶するが、名前は思い出せなかった。
 45年8月9日、村岡さんは爆心地から1・6キロ離れた自宅で被爆。外出しようとした瞬間、閃光(せんこう)が走り吹き飛ばされた。がれきの下からはい出し、両脚と左腕のやけどの痛みをこらえながら母たちと裏山に逃げ込んだ。あの少年も幼子を背負って裏山にいた。「どうしよっとね」と尋ねると、少年は「母ちゃんを捜しよると」と言い、立ち去ったという。それっきり会っていない。
   ◇    ◇
 2017年末、法王は写真をカードに印刷し、<戦争がもたらすもの>というメッセージを添えて各国に配るよう指示。日本ではカトリック中央協議会(東京)などを通じて配布された。「私はあの子に会うたとさ、話したとさ」。カトリック信者でもある村岡さんは法王の行動に背中を押され、少年を捜し始めた。
 銭座小は児童約850人のうち約500人が犠牲となり、学籍簿も焼失した。写真のことが書かれた本に出てくる人に会い、自分の記憶と照らし合わせて手掛かりを探った。調査範囲は市外にも広げたが、有力な情報は得られていない。
 法王はかつて<核兵器は人類の平和的共存の基礎にはなれない>と語り、その教訓となる被爆者の証言を<予言的な声>と表現した。「焼き場に立つ少年」は核廃絶が進まない世界の未来を示唆する、と伝えたいのだろうか。
 法王は11月、長崎と広島を訪れる予定だ。「この写真は末永く戦争の惨禍と平和の尊さを力強く、訴え続けていくに違いない」と村岡さん。少年に光を当てた法王の来日を機に、新たな証言が出てくることを待ちわびる。

      西日本新聞  社会面

 ◎上記事は[西日本新聞]からの転載・引用です
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〈来栖の独白 2021.03.11 Thurs〉
 このような「焼き場に立つ少年」は、数多、居ただろう。罪のない無辜の少年(少女)が、原爆の犠牲となった。


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