名張毒ぶどう酒事件 扉は開くか 中日新聞 2010/04/07~

2010-04-15 | 死刑/重刑/生命犯

名張毒ぶどう酒事件 扉は開くか

中日新聞2010/04/07~
【1】 84歳「早く再審を」

   「ちょっとした気持ちで・・・」逮捕後、記者会見で犯行を認めた
 奥西死刑囚(左)=1961年4月、三重県名張市で

 女性5人が死亡した名張毒ぶどう酒事件から半世紀-。奥西勝死刑囚(84)の第7次再審請求
特別抗告について最高裁は名古屋高裁に審理を差し戻す決定をした。奥西死刑囚は、いつ死刑が
執行されるか分からない緊張から解かれ、表情を緩めた。事件の舞台となった地元の住民は「いつ
まで裁判が続くのか」と困惑の表情を浮かべる。奥西死刑囚の弁護団や識者からは、再審決定の
判断を避けた最高裁の姿勢に「役割の放棄だ」と疑問の声が上がった。
 6日午後2時半、名古屋拘置所2階の面会室。「再審開始決定を取り消した決定を取り消し、差し
戻したんです。死刑の執行停止も生き返った」。青いセーター姿の奥西勝に、弁護団の小林修(57)
と鬼頭治雄(38)が経過を図に示して説いた。差し戻しの意味がのみ込めず、キョトンとする奥西。
小林が「要するに勝ったんだよ」と続けると、84歳の死刑囚はようやく顔をほころばせた。「よかった、
よかった」
 ただ、弁護団は素直に喜べなかった。その2時間前、便りは突然やってきた。愛知県一宮市の法律
事務所。昼食のため外出しようとした弁護団長の鈴木泉(63)が、ポストの郵便物に紛れた茶封筒を
見つけた。差出人は最高裁判所。分厚い感触に「開始決定か」と心が躍った。きびすを返し、はやる
気持ちで封をちぎる。24ページに及ぶ決定書。目に飛び込んだ表紙の主文に言葉を失った。
「なぜっ」
 最高裁決定を受けた記者会見で鈴木は茶封筒を掲げた。ギザギザに破かれたその口と、「人の
命にかかわる決定」がそっけない形で送られてきた不満。それが期待と落胆の落差を浮き立たせ
ていた。
 死刑囚の再審請求で最高裁が審理を差し戻したのは、後に再審無罪が確定した財田川事件以来
33年ぶり。弁護団や支援者にとって「差し戻し」は意外だった。
 「疑わしきは被告の利益に」という刑事裁判の鉄則が再審請求審の判断にも適用されると判示した
のは、最高裁の白鳥決定(1975年)。これを引き合いに、鈴木は複雑な思いを打ち明けた。「異議審
決定が取り消された点に喜びを感じるのは否定しない。だが、異議審決定に疑問を感じたのならば、
今回の最高裁決定は再審開始であるべきだった」
 「差し戻し審は『詰めの闘い』。もう少し頑張りましょう」。そう励ます小林と鬼頭に、奥西は前向きな
言葉で応えた。「私はやっていません。冤罪(えんざい)です。差し戻し審で調べてもらい、1日も早く
再審をしていただき冤罪を晴らしたい」。引き続き面会に来た特別面会人の稲生昌三(71)にも「頑
張ります」を繰り返した。
 最高裁決定を「後にも先にもないヤマ場」と待ち焦がれてきた奥西。鈴木は「(最高裁が再審理を
求めた)毒物鑑定を確固たるものにすることが私たちに突きつけられた課題だ」と前を見すえる。だが
次の「ヤマ場」がいつになるのか、今は誰にも分からない。(敬称略)
【2】 再鑑定に半世紀の壁 「科学的証拠」重い課題


事件が起きた公民館にあった、ぶどう
酒の瓶=1961年3月、三重県名張市で
     

 40年以上前に生産中止となった農薬が今、脚光を浴びている。名張毒ぶどう酒事件をめぐる再審
開始を認めるか否かの重要なカギとなる有機リン系農薬の「ニッカリンT」。未開封のものを含めて
数本が、弁護側が依頼した第3者の下で厳重に保管されている。「今後使う場面を想定。
直射日光が当たらない状態で保管している」と弁護側は明かす。差し戻し後の審理に大きな影響を
与えるとみられる農薬は、半世紀近くをへて再鑑定の時を待っている。
 奥西勝(84)は「妻と愛人の三角関係を解消するため、ぶどう酒に農薬(ニッカリンT)を入れて殺し
てしまおうと思った」と自白。この自白が決め手となり、1972年に死刑判決が確定。しかし、その後
38年近くがたっても司法は、迷走を続けた。
 5日付最高裁決定は、ぶどう酒に入れられた毒物が、本当に奥西が自供した農薬だったのかを
判断するには、これまでに提出された証拠だけでは不十分だと判断した。
 判断の分かれ目になったのは、事件当時に三重県衛生研究所が実施した鑑定結果をどう評価す
るかだった。鑑定では飲み残しのぶどう酒からニッカリンTの3つの成分のうち、不純物のトリエチル
ピロホスフェートだけが検出されなかった。
 この鑑定結果に注目した弁護側は、第7次再審請求審の段階でインターネットで情報を集め、古い
農薬を処分する産業廃棄物業者が保管していることを突き止め、数本を確保し独自に検証。
ぶどう酒とほぼ同じアルコール濃度の溶液にニッカリンTを入れて分析した結果、トリエチルピロホス
フェートも残り2つの成分と同程度に検出される可能性が裏付けられた。
 「ニッカリンTを混入したならトリエチルピロホスフェートが検出されないはずがない。犯行で使われ
た毒物は、ニッカリンTとは別の可能性がある」との弁護側の主張が認められ、05年に名古屋高裁
で再審開始はいったんは決まった。
 06年に再審開始決定は取り消されたが、検察側は実際のニッカリンTを使った再鑑定は行って
いなかった。
 今後、名古屋高裁で始まる差し戻し後の審理では、再度鑑定を実施するなどの証拠調べが求め
られている。
 しかし、事件当時の状況で鑑定を行うことは容易ではない。半世紀近くたっており、変質している
可能性もある。さらに、当時のものと同じぶどう酒が1本も見つかっていないという壁もある。
 弁護団長の鈴木泉(63)は再鑑定について「いまから検討する」と意欲を見せるが、分析化学に
詳しい公共研究機関の研究員は「現時点で再鑑定は極めて難しい」と断言する。
 最高検の幹部は「検察としてはニッカリンTを使った分析をしていないわけだから、科学的な論証を
きちんとしろということだろう」と淡々と言った。
 「論争よりも科学的な根拠に基づいた証拠を」という最高裁が突きつけた重い課題。だが、その課
題に応えるため、差し戻し後の審理でどのように再鑑定をするのか。道筋はまだ見えていない。
(敬称略)
【3】 「足利と違う」楽観戒め 再審の道は再鑑定頼み

   奥西勝死刑囚が支援者にあてた手紙。
 足利事件をめぐる再審開始決定を受け、「私も同じ再審を」とつづられている

 足利事件で菅家利和(63)に「犯人でないことは明白」と無罪を告げた再審判決から一夜明けた
3月27日。名張毒ぶどう酒事件が起きた三重県名張市で、毎年恒例となった死刑囚奥西勝(84)の
支援集会が開かれていた。「次は名張だ」。第7次再審請求をめぐる最高裁決定が近いとされ、過去
最多の参加者で熱を帯びる会場。その中で、砂野道男(59)は冷静だった。「DNAの再鑑定で有罪
の物証がはっきり崩れた足利とは違う」。30年以上も奥西の支援に携わり、再審への壁の高さを
痛感していた。
 差し戻し決定はその9日後だった。奥西側は、最高裁がみずから再審開始決定を出す「自判」を
期待した。だが刑事事件の再審請求で、最高裁が自判した前例はない。
 再審は、有罪判決が確定しても「無罪や刑の減軽を認めるべき明らかな証拠」があれば請求でき
る。
 最高裁は1975年、白鳥事件をめぐる再審請求の特別抗告審決定で「『疑わしいときは被告人の
利益に』という刑事裁判の鉄則は再審請求の判断にも適用される」と判示。財田川など4事件で死刑
囚の再審が認められ、いずれも無罪が確定した。だがその後、死刑囚の再審は途絶えた。再審開始
は「開かずの扉」とも呼ばれた。
 再審に詳しい名城大法学部教授の加藤克佳(刑事訴訟法)が分析する。「裁判官は、確定判決を
『いったん片づいた事件』として、覆すことへの抵抗感が強い。足利のように無実が明らかで世間に
合理的な説明がつく事件以外、基本的に再審を認めない」。白鳥決定が有名無実化しているとみる。
 差し戻し理由を「事実が解明されていない」と示した最高裁決定。加藤は「ならば非公開の差し戻し
審でなく、開始決定をして公開の再審公判で決着をつけるべきだ。結論の先延ばしでしかない」と
批判する。
 前進か後退か-。最高裁決定をどう読み解くべきか、評価は割れる。弁護団事務局長の平松清志
(57)は「再審開始に向けた決定ではない」と楽観論を戒めた。再審への扉が、時間的に遠のいた
だけでなく、狭まったとみる向きさえある。
 とりわけ注目されるのは、弁護団が出した5つの新証拠に対する評価。最高裁は「毒物がニッカリン
Tでない可能性」について再鑑定を求める一方、ぶどう酒の開栓方法の矛盾など残る4つを「『無罪を
言い渡すべき明らかな証拠』に当たらない」と断定した。上級審の判断は下級審を拘束する。この裁
判所法の規定を踏まえ、ある専門家は「弁護団が一点突破を迫られた」と決定書を読んだ。
 第1次請求から37年間、独房で再審を求め続けてきた奥西。扉の向こうに、どんな景色を思い描い
ているのだろう。(敬称略)
【4】 自白の信用性触れず 最高裁は毒物に焦点
 ほほ笑みながら出迎えた死刑囚奥西勝(84)の表情が曇った。花冷えの7日。名古屋拘置所で、
面会人の田中哲夫(47)が「一夜明けて、どうですか」と問い掛けた時のことだった。
 その前日、名張毒ぶどう酒事件をめぐり、最高裁が再審請求の判断を名古屋高裁に差し戻した決
定が、奥西にもたらされていた。
 「一晩かけて考えました。どうして再審開始にならなかったのかと…」。最高裁は凶器である毒物の
鑑定に疑いを挟んだ。それなのに-。答えを見いだせていないようだった。
 5年前、奥西に福音をもたらした同高裁の再審開始決定は、明快だった。毒物は農薬「ニッカリンT」
ではないとの疑いから自白の信用性を再検討し「奥西の自白が客観的な事実と相反する疑いが
ある」と判断した。
 検察の申し立てを受け、この決定を取り消した異議審は、逆に自白を有罪の大きな支えとした。
「犯人だからできる供述。記者会見での発言も迫真性に富む」
 結果は正反対。だが、どちらの決定も自白への評価から結論を導いていた。
 対照的に、今回の最高裁決定は自白の信用性に触れなかった。毒物に疑問を示しつつ、疑問解消
の機会を検察にもう一度与えた形。
 「ここが分かれ道だった」と話すのは、弁護団の小林修(57)。最高裁が「再審開始すべきだ」と考
えたなら、一気に自白の信用性を否定するはずだった。
 名張事件は、弁護団が物証を崩しても、裁判所が自白を頼りに有罪を維持してきた。対抗する弁護
団は「自白偏重裁判との闘い」と称し、あらゆる手を尽くしてきた。
 その一つに、米ノースウエスタン大教授の法廷意見書がある。教授は、犯罪を自白した被告が、
後からDNA鑑定などで無実だったことが判明した125の事件を分析。「うその自白は長時間の取り
調べから生まれる。8割が、重罰が予想される事件だった」と報告していた。
 しかし最高裁は虚偽自白の問題は封印、焦点を毒物に絞った。
 刑事裁判での自白をめぐっては、元東京大学長で刑事法の権威だった故平野龍一が1985年の
時点ですでに、調書を重視する裁判官の姿勢を「日本の刑事司法は絶望的」と厳しく批判していた。
奥西が5回目の再審請求をしていた時だ。
 それから四半世紀。刑事司法は市民が参加する裁判員裁判の時代に。最高裁決定は、それに合
わせ「自白より証拠」の姿勢を示したともいえる。
 元裁判官で法政大法科大学院教授の木谷明は「自白をめぐる水掛け論に終止符を打つには取り
調べを全面録画するしかない」と訴える。名張事件は、刑事司法のさまざまな課題を投げかけてい
る。(敬称略)
【5】難事件に揺れる裁判員 市民感覚、もろ刃の剣

   (上)逆転死刑判決を言い渡した名古屋高裁での
     奥西勝死刑囚(手前中央)=1969年

 (下)津地裁で判決後に会見する裁判員経験者ら=2009年

 名張毒ぶどう酒事件が新聞やテレビで報じられるたびに、愛知県内の女性会社員(33)は漠然とし
た印象を抱いてきた。死刑囚奥西勝(84)は犯人に違いない、と。しかし、その考えは大きく変わっ
た。2月に名古屋地裁で強姦(ごうかん)致傷事件の裁判員を務めたからだ。
 「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則を知った。「有罪を立証するのは検察の責任
なのに、できていない。自分が(名張毒ぶどう酒事件の)裁判員だったら有罪にはできない」
 同事件で死刑が確定した奥西は捜査段階で「ぶどう酒に農薬(ニッカリンT)を入れた」と自白した
が、その後、無罪主張へ転じた。女性会社員は「供述調書より法廷でのやりとりが大事。でも、言っ
た言わないの議論や自白の強要を避けるためには、取り調べを全面可視化した方がすっきりする」
と考える。
 1審は無罪、2審で逆転死刑判決、その後、第7次まで続く再審請求…。発生から半世紀近くたっ
てもプロの裁判官が結論を出せない。裁判員経験者たちは、最高裁が再審請求の判断を名古屋高
裁に差し戻したことを受け、あらためて人を裁く重みをかみしめている。
 岐阜地裁で殺人未遂事件を担当した岐阜県大垣市の60代の男性会社員も、その一人。名張事件
をめぐる最近のニュースに接し、こう思う。「もし冤罪(えんざい)なら、捜査段階で自白したことが理解
できない。しかし、本当はやったのに半世紀近くも否認し続けることができるのか」
 専門家でも難しいのに、素人の裁判員に判断が可能だろうか。難しい事件になればなるほど裁判
官の誘導が働きそうで不安だ。
 甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)の渡辺修は、こう言い切る。「奥西に死刑を言い渡し続けて
きた裁判所は、密室で得られた自白を重視する姿勢を変えていない。市民の良識がなければ冤罪を
防げない」
 一方、その市民感覚を危ぶむ声も。刑事裁判に詳しい弁護士は「裁判員が『疑わしきは被告人の
利益に』に従って無罪にするという期待もあるが、捜査段階の自白を重視し、有罪方向に振れるかも
しれない。裁判員裁判は、もろ刃の剣だ」。
 名張事件が今もし起きたら、裁判員裁判の対象となる。そうでなくとも今後、この事件のような複雑
な証拠関係の審理を市民が担う可能性は十分ある。
 「最低でも1カ月以上はかけて、納得できるまで審理するべきだ」。名古屋地裁で裁判員を務めた
名古屋市内の主婦(62)は体験を踏まえ、強調する。名張事件は、市民参加の刑事裁判のあり方も
問いかけている。(敬称略)=終わり
(この連載は、加藤文、北島忠輔、赤川肇が担当しました)

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