新聞案内人 鷲田清一 大阪大学総長、哲学者 2009年05月19日
イメージにイメージを重ねる
わたしは「世論調査」というものを信用していない。より正確にいえば、「世論調査」という名の「世情調査」を、世の中の空気の振れ方を読むデータとしては興味深く見ている。
たとえば「層化無作為二段抽出」という方法がどのような統計学的論理で構成されているのかよく知らないけれども、メディアによる「世論調査」に回答するひとがその回答の前提としている「事実」もまた、メディアをつうじて知られたことにすぎない。
テレビ報道を見て、「ああこういうことが起きているのか」と知ったひとが、こんどはそれをどう感じますかと問われる。そう、「世論調査」というのは、メディアが構成したイメージについてメディアがさらに問う “イメージについてのイメージ” の調査でしかない。
それは、ウィトゲンシュタインという哲学者がかつて用いた卓抜な比喩をもじって言えば、ある新聞記事の内容の正しさを別の新聞記事を見ることで確認するようなものである。
○世論調査はメディアの仕事の起点
そのような「世論調査」の結果が、このところ週に何回も掲載される。それによって、イメージに重ねられたイメージがさらに増幅されてゆく。
新聞の使命は「私情」をまとめることにあるのではない。その仕事は「公論」形成の<媒体(メディア)>となることにある。「世論調査」をして仕事を終えたなどと考えてもらってはこまる。「世論調査」は、メディアの仕事のせいぜい起点ではありえても、けっしてその終点なのではない。
「世論」は一つの不安定なデータでしかない。それじたいは「論」でもなんでもなく、「こんなふうに感じています」という「私情」の集積でしかない。この「私情」、この不安定な「空気」を、どのような「公論」(パブリック・オピニオン)へと鍛え上げてゆくのか、そこにこそメディアが果たすべき仕事があるはずなのに、多くのメディアは「世論調査」をすることで、ある時点での仕事を果たしたかのように思い込んでいるようにみえる。
その“イメージについてのイメージ”の調査が、次の選挙の動向をすくなからず左右する。それは、高速道路の料金が安くなったと報道されるだけで、その道路を走らなければならないととっさに思ってしまう、そうした世間の五月雨式の動向とさして異なるところはない。メディアがそんなことに棹さしてどうなるのか。
メディアは、「私情調査」のみならず、「私刑」にかかわってしまうこともある。
4月下旬のことである。TBS系報道番組のTHE・NEWSは、その日の特集の一つとして、以前茨城県で起こった通り魔事件を取り上げ、容疑者の青年が、現代日本を代表する一哲学者の著作を愛読していると報じていた。
○何のために「容疑者の愛読書」を報じたのか
その報じ方に寒気がした。どのような内容、どのような趣旨の本なのかの説明はまったくない。ただそのなかのある一行を、前後の脈絡にもふれずに、思わせぶりにハイライトで撮すだけ。その本を手にしながら語るアナウンサーだけでなく、報道内容の責任者であるはずのニュース・キャスターからも、そのあと論評や検証の言葉が口にされることはなかった。
困惑する著者へのインタビューもあったが、それも20秒くらい。「怖い」というイメージだけが多くのひとに残ったのではないかとおもう。「風評を流す」とはまさにこのことではないかとおもった。
「ブログ炎上」のようなことが起こるかと危惧したが、その後、新型インフルエンザ、民主党代表選挙と、メディアが別のニュースで盛り上がったのは幸いであった。もし、この犯人が浄土真宗の檀家に属していたら、メディアによるこの「私刑」は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親鸞の言葉にも向かったかもしれない。
メディアは、「イメージ」という名のもっとも感染力の高いウィルスの保有者である、あるいはありうる。この事実をメディアはもっと怖れるべきだ。
以来わたしは、宵の口、受像機をこのチャンネルに合わせていない。新S(あらたにす)