光市事件差戻し判決 核心の「なぜ」に答えず 残された課題 2008-05-09 | 光市母子殺害事件 光市事件menu に、鑑定人加藤幸雄氏の【光市事件差戻し判決 核心の「なぜ」に答えず 学問的な背景解明を 残された課題】をUPした。 関連;http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/d5b44ffcf427bcc3a88189e4f21283cb « 終身刑創設を検討 裁判員... | トップ | <国連人権理事会>死刑執行... »
6 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 受け取りました (akira) 2008-05-16 00:25:25 >わたしは、あなたを捨てて孤児とはしないはい。わたしは、見捨てられていない。自分で自分を見捨てても・・・。ありがとうございました。 返信する 虐待の連鎖 (和) 2008-05-14 19:53:18 加害者のボクは、お母さんが好きだったのでしょうね、父の激しい虐待から逃げない母に苛立つ気持ちもあったかもしれません、でも結婚したいくらい好きだった、何故ならお母さんには、何ものにも代えがたい安らげるものがあったから、そのお母さんが突然亡くなってしまった、ある日、お母さんと同じように子供を可愛がる優しいお母さんがいた、やっと出会えた母と同じな筈のその人に、夢中で求めたのに拒絶され、その人は亡くなってしまった、あとで考えたらボクがやったことは父と同じような暴力だった。来栖さん、こんばんわ、「DVにさらされる子どもたち」という本にその影響が書かれてます。 返信する 見落とされた最重要課題 (ゆうこ) 2008-05-13 09:32:36 akira様。 ご訪問とコメント、心より感謝します。友人から、虐待というものについては幾らか聞かされていましたが、更に深刻な側面を教えていただきました。有難うございます。 昨夜、その友人に尋ねたのでした。「虐待があると、身体も小さいですか」と。友人は「勿論影響あります」と答え、「虫歯とか内臓も、どうかと心配」と返事をくれました。 弁護人の安田さんが初めて広島拘置所で被告人に会ったときの印象を「彼はたいへん幼かったというか、大人ずれしていないというか、25歳になろうという年齢でしたが、見た目では中学生あるいは高校生といっていいくらいの印象をうけました。容貌、相貌もそうでした。」と言っています。http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/hikari2.htm 安田さんは「18歳1ヵ月で逮捕され、そのまま独居房に隔離されて身柄拘束されているわけですから、成長の機会が完全に奪われたままであることも確かです。」と、逮捕後の暮らしに幼さの根拠を置いていますが、私は、それまで(18歳以前)にも、彼は育っていなかったのではないかと思ったのです。 拙宅の近所に、そういう少年が居ました。毎日、親からの恐ろしい声が浴びせられ、夫婦(彼からは両親)の喧嘩する声もしばしば聞こえました。少年は、中学生なのに小さい体でした。児童相談所の人に訪問してもらいましたが、「しつけです」と親は答えたそうです。もう、10年以上も前のことです。生育環境が良くないと、身も心も育たないのですね。>私も虐待の中で育ちましたが、それに気づいたのは30歳過ぎでした。 友人から、その話(「気付かない」ということ)を聞いたとき、とても奇異に感じました。実際に肉体的にも虐待を受けながら(苦しかったり痛かったりするのに)気付かないって、どういうことかと。・・・今は少し理解できますが。>性的虐待と捉える視点が欠落しているのが気になります。これは鑑定人の言う「性愛的な母子一体感」などという、生やさしい物ではなく、この事件の背景にある一番の大きな要素であったと思うからです。性虐待被害者が、その後どういった不適応を起こすかなどの知見が必要とされますが。 そうですか。彼にとって絶対とも思える母親ですが、・・・そうですか。私などにはせいぜい「母子一体感」という解釈が限界です。弁護人にも、鑑定人にも、でしょう。こんなにも病巣深く、複雑で、痛ましいのですね。言葉を失うばかりです。一番大きな要素、事件の根本であると思います。>専門外というのはありますので、虐待について高度な知識のある鑑定人であれば、もう少し違う鑑定結果が出たのだろうとも思いますし、それに伴って弁護のやり方も変わったのではないでしょうか。>最高裁の判決、検察の弁論要旨等を読んでいると、DVや虐待の影響について、殆ど理解していないと思えてなりません。 死刑にするとか、反省している反省していないとかではないですね。被告人の最も痛んだところに誰も気付いていない。裁判所も検察も弁護人も、です。如何にも乱暴で、彼は壊れてしまいます。 手前味噌になりまして恐縮ですが、20年以上も前から、いろんな聖書の言葉が私に示唆を与えてくれました。いま、思い出したのが「わたしは、あなたを捨てて孤児とはしない」という言葉です。親から、兄弟から、社会から、友人から、つまり「この世のすべてがあなたを捨てても、わたし(神)は、あなたを捨てないよ」と言うのです。この「事件」というより、悲惨な魂を顧みる者が、この世に一人としていない。「殺せ」と叫ぶばかりです。 返信する なぜ・・・ (akira) 2008-05-12 16:38:23 (たぶん)はじめまして昨年の夏ぐらいから読ませて頂いています。差し戻し審が始まってからずっと、この事件について考え続けています。>虐待の問題は、経験の無い人には、理解が極めて困難であると思います。私もそう思います。最高裁の判決、検察の弁論要旨等を読んでいると、DVや虐待の影響について、殆ど理解していないだと思えてなりません。検察の弁論要旨で「地裁の被告人質問では、父親からして貰ったことを述べていたのに、心理・精神鑑定ではそれらをことさら無視して虐待のことしか言われていない。差し戻し審では被告人もそれに沿った供述を行っている(要約)」と言うのがありました。私も虐待の中で育ちましたが、それに気づいたのは30歳過ぎでした。被告人がその事実の気づくには、相応のタイミングと支援が必要だったのだと思います。私は一審での発言と今回の発言が違っていることに矛盾は感じていません。ただ、心理・精神鑑定では虐待とDVの目撃、母親の自殺の影響は語られていますが、母親から「結婚しよう。お前の子どもが欲しい」などといわれたことを、性的虐待と捉える視点が欠落しているのが気になります。これは鑑定人の言う「性愛的な母子一体感」などという、生やさしい物ではなく、この事件の背景にある一番の大きな要素であったと思うからです。性虐待被害者が、その後どういった不適応を起こすかなどの知見が必要とされますが。心理や精神の専門家であっても、専門外というのはありますので、虐待について高度な知識のある鑑定人であれば、もう少し違う鑑定結果が出たのだろうとも思いますし、それに伴って弁護のやり方も変わったのではないでしょうか。長文失礼しました。また訪問させて頂きます。 返信する 難しい (ゆうこ) 2008-05-12 09:35:51 円さま。コメント、有難うございます。 拙ブログに、時々コメントをくれたり、直接会ってカフェに行ったりする私の友人ですが、次のようなメールをくれました。彼女も親からの虐待の中で育ちました。↓加藤幸雄さんの分析は正しいです。虐待を経験しても、本人はその虐待の影響に気づけないです。加藤氏の分析に加害者本人も気づくのには、生きてきた年数と経験とか親の強い愛情がいります。何故かというと、家庭環境に『洗脳』されてしまって何だかよく解らないでいるからです。本を読んで具体的に考え、まず父親を憎んでみること、自分の子供を産み子育てを経験すること、母親(亡くなってますが・・)が自立した精神で子供を愛すること、世の中の大人と子供を多く観察すること。この事件の被告人は、自分が悪いと思っている、実は悪くない、悪いのは父親や逃げなかった母親だった。ひいては、家庭内で親の暴力を認めてきた国の責任です。罪は逃れられないのですが、他人のせいにするな、は嘘です。私はそう思います。--------------- 虐待の問題は、経験の無い人には、理解が極めて困難であると思います。専門家の話にもっと聴かなければ、事件の本質は分からないのかも知れません。上記の友人は「このような親とも関わらなければならなかったのだから、弁護人は苦労だ」とも言いました。>許しがたい凶悪犯罪である」というのは、ちょっとなと思います。 そうですね。ただ、加藤氏は先ず、絶対多数の国民感情を引き寄せねばならなかったのではないでしょうか。ともかく、読んでもらわなくてはなりませんから。「凶悪犯罪とは何か」http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/kyouaku.htm などでは、はっきりものを言っています。↓どうしても世間はマスコミの第一報道で影響を受けますから、行為がセンセーショナルに報道されればされるほど、凶悪さがクローズアップされる。それは、社会防衛上ある役割を果たすかもしれないけれども、それが独り歩きしちゃってるんですね。ですから凶悪な行為イコール凶悪な人格。凶悪な人格というのはないんですけれども、そういう図式がスポーンと入っちゃうんです。 ところが、たとえば学生を法廷へ連れていくとか、あるいは鑑定書を少し読ませると凶悪イメージがコロッと変わるんです。単純な話ですね。要するに凶悪な人格なんてない。その人の長い長い、あえていえばソーシャルリスクを負ったすごく苦しい苦難の人生があって、特に未成年の犯罪の場合には未完成の人格像がそこにあって、しかも、変な言い方しますけど、凶悪犯罪ができるほどしっかりした人格形成ができていない(笑)。あるいは凶悪犯罪をコーディネイトできるほど計画性や準備性を持てない人たちの集まりがそこにいるということに気づくわけです。 そうすると奇妙なことが起こるんですね。凶悪というセンセーションは、あれは何だったんだろうと。要するに虚構がそこに存在するだけであって、実像を見た途端に、それは全く市井の人物で、それこそもっと卑近な言い方をすると、法廷で犯罪者の顔を見ただけで、ぜんぜんイメージが違う。凶悪な人格なんていう全く存在しない人格を頭の中に描いているわけですよ。ところが、生の姿に触れて、成育史に触れて、その重たさに触れて、それからその犯罪者が未熟な顔(人格)であると、凶暴とは程遠い犯罪プロセスを見て、これは全く違うと。自分たちが見ていた凶悪というのは全部すっ飛ぶ構造になるわけですね。------------ 凶悪ではない、と一番分かっているのは、鑑定人であった加藤さん御自身でしょう。それが、あえて、冒頭のような書き出しをしなければならなかった・・・。 もう一つ、別のことですが。 この事件は性暴力の事件とも言われますが、被害者との最初の対面は、玄関で、被害児を抱いていました。強姦が目的なら、赤ちゃんのいるような家には入らないのではないでしょうか。>④なぜ、乳幼児がいる家を選んだのか、といった疑問 加藤氏が言っているのは、このあたりのことではないかと思います。 返信する TBありがとうございます (円) 2008-05-10 20:38:26 トラックバックありがとうございました。加藤幸雄さんの「感情的なバッシングではなく、被告人が事件を引き起こした背景理解を深め、社会が犯罪予防のために何を行うべきか、被告人がどのように贖罪すべきか教訓や指針を明確にする必要がある」ということ、その通りだと思います。死刑になりたいから人を殺した、という事件が増えているように感じます。その先駆けとも言える宅間守死刑囚は確定から1年で処刑されました。どうしてああいった事件を起こしてしまったのか、そのことを探るよりも社会の処罰感情を優先したわけです。同じような事件が起こるのを防ごうという気持ちがないのでしょうか。ただ、冒頭の「山口県光市での母子殺害事件は、許しがたい凶悪犯罪である」というのは、ちょっとなと思います。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
はい。
わたしは、見捨てられていない。
自分で自分を見捨てても・・・。
ありがとうございました。
父の激しい虐待から逃げない母に苛立つ気持ちもあったかもしれません、
でも結婚したいくらい好きだった、
何故ならお母さんには、何ものにも代えがたい安らげるものがあったから、
そのお母さんが突然亡くなってしまった、
ある日、お母さんと同じように子供を可愛がる優しいお母さんがいた、
やっと出会えた母と同じな筈のその人に、夢中で求めたのに拒絶され、
その人は亡くなってしまった、
あとで考えたらボクがやったことは父と同じような暴力だった。
来栖さん、こんばんわ、
「DVにさらされる子どもたち」という本にその影響が書かれてます。
ご訪問とコメント、心より感謝します。友人から、虐待というものについては幾らか聞かされていましたが、更に深刻な側面を教えていただきました。有難うございます。
昨夜、その友人に尋ねたのでした。「虐待があると、身体も小さいですか」と。友人は「勿論影響あります」と答え、「虫歯とか内臓も、どうかと心配」と返事をくれました。
弁護人の安田さんが初めて広島拘置所で被告人に会ったときの印象を「彼はたいへん幼かったというか、大人ずれしていないというか、25歳になろうという年齢でしたが、見た目では中学生あるいは高校生といっていいくらいの印象をうけました。容貌、相貌もそうでした。」と言っています。
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/hikari2.htm
安田さんは「18歳1ヵ月で逮捕され、そのまま独居房に隔離されて身柄拘束されているわけですから、成長の機会が完全に奪われたままであることも確かです。」と、逮捕後の暮らしに幼さの根拠を置いていますが、私は、それまで(18歳以前)にも、彼は育っていなかったのではないかと思ったのです。
拙宅の近所に、そういう少年が居ました。毎日、親からの恐ろしい声が浴びせられ、夫婦(彼からは両親)の喧嘩する声もしばしば聞こえました。少年は、中学生なのに小さい体でした。児童相談所の人に訪問してもらいましたが、「しつけです」と親は答えたそうです。もう、10年以上も前のことです。生育環境が良くないと、身も心も育たないのですね。
>私も虐待の中で育ちましたが、それに気づいたのは30歳過ぎでした。
友人から、その話(「気付かない」ということ)を聞いたとき、とても奇異に感じました。実際に肉体的にも虐待を受けながら(苦しかったり痛かったりするのに)気付かないって、どういうことかと。・・・今は少し理解できますが。
>性的虐待と捉える視点が欠落しているのが気になります。これは鑑定人の言う「性愛的な母子一体感」などという、生やさしい物ではなく、この事件の背景にある一番の大きな要素であったと思うからです。性虐待被害者が、その後どういった不適応を起こすかなどの知見が必要とされますが。
そうですか。彼にとって絶対とも思える母親ですが、・・・そうですか。私などにはせいぜい「母子一体感」という解釈が限界です。弁護人にも、鑑定人にも、でしょう。こんなにも病巣深く、複雑で、痛ましいのですね。言葉を失うばかりです。一番大きな要素、事件の根本であると思います。
>専門外というのはありますので、虐待について高度な知識のある鑑定人であれば、もう少し違う鑑定結果が出たのだろうとも思いますし、それに伴って弁護のやり方も変わったのではないでしょうか。
>最高裁の判決、検察の弁論要旨等を読んでいると、DVや虐待の影響について、殆ど理解していないと思えてなりません。
死刑にするとか、反省している反省していないとかではないですね。被告人の最も痛んだところに誰も気付いていない。裁判所も検察も弁護人も、です。如何にも乱暴で、彼は壊れてしまいます。
手前味噌になりまして恐縮ですが、20年以上も前から、いろんな聖書の言葉が私に示唆を与えてくれました。いま、思い出したのが「わたしは、あなたを捨てて孤児とはしない」という言葉です。親から、兄弟から、社会から、友人から、つまり「この世のすべてがあなたを捨てても、わたし(神)は、あなたを捨てないよ」と言うのです。この「事件」というより、悲惨な魂を顧みる者が、この世に一人としていない。「殺せ」と叫ぶばかりです。
昨年の夏ぐらいから読ませて頂いています。
差し戻し審が始まってからずっと、この事件について考え続けています。
>虐待の問題は、経験の無い人には、理解が極めて困難であると思います。
私もそう思います。
最高裁の判決、検察の弁論要旨等を読んでいると、DVや虐待の影響について、殆ど理解していないだと思えてなりません。
検察の弁論要旨で「地裁の被告人質問では、父親からして貰ったことを述べていたのに、心理・精神鑑定ではそれらをことさら無視して虐待のことしか言われていない。差し戻し審では被告人もそれに沿った供述を行っている(要約)」と言うのがありました。
私も虐待の中で育ちましたが、それに気づいたのは30歳過ぎでした。被告人がその事実の気づくには、相応のタイミングと支援が必要だったのだと思います。私は一審での発言と今回の発言が違っていることに矛盾は感じていません。
ただ、心理・精神鑑定では虐待とDVの目撃、母親の自殺の影響は語られていますが、母親から「結婚しよう。お前の子どもが欲しい」などといわれたことを、性的虐待と捉える視点が欠落しているのが気になります。
これは鑑定人の言う「性愛的な母子一体感」などという、生やさしい物ではなく、この事件の背景にある一番の大きな要素であったと思うからです。性虐待被害者が、その後どういった不適応を起こすかなどの知見が必要とされますが。
心理や精神の専門家であっても、専門外というのはありますので、虐待について高度な知識のある鑑定人であれば、もう少し違う鑑定結果が出たのだろうとも思いますし、それに伴って弁護のやり方も変わったのではないでしょうか。
長文失礼しました。また訪問させて頂きます。
拙ブログに、時々コメントをくれたり、直接会ってカフェに行ったりする私の友人ですが、次のようなメールをくれました。彼女も親からの虐待の中で育ちました。↓
加藤幸雄さんの分析は正しいです。虐待を経験しても、本人はその虐待の影響に気づけないです。加藤氏の分析に加害者本人も気づくのには、生きてきた年数と経験とか親の強い愛情がいります。何故かというと、家庭環境に『洗脳』されてしまって何だかよく解らないでいるからです。本を読んで具体的に考え、まず父親を憎んでみること、自分の子供を産み子育てを経験すること、母親(亡くなってますが・・)が自立した精神で子供を愛すること、世の中の大人と子供を多く観察すること。この事件の被告人は、自分が悪いと思っている、実は悪くない、悪いのは父親や逃げなかった母親だった。ひいては、家庭内で親の暴力を認めてきた国の責任です。罪は逃れられないのですが、他人のせいにするな、は嘘です。私はそう思います。
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虐待の問題は、経験の無い人には、理解が極めて困難であると思います。専門家の話にもっと聴かなければ、事件の本質は分からないのかも知れません。上記の友人は「このような親とも関わらなければならなかったのだから、弁護人は苦労だ」とも言いました。
>許しがたい凶悪犯罪である」というのは、ちょっとなと思います。
そうですね。ただ、加藤氏は先ず、絶対多数の国民感情を引き寄せねばならなかったのではないでしょうか。ともかく、読んでもらわなくてはなりませんから。
「凶悪犯罪とは何か」
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/kyouaku.htm
などでは、はっきりものを言っています。↓
どうしても世間はマスコミの第一報道で影響を受けますから、行為がセンセーショナルに報道されればされるほど、凶悪さがクローズアップされる。それは、社会防衛上ある役割を果たすかもしれないけれども、それが独り歩きしちゃってるんですね。ですから凶悪な行為イコール凶悪な人格。凶悪な人格というのはないんですけれども、そういう図式がスポーンと入っちゃうんです。
ところが、たとえば学生を法廷へ連れていくとか、あるいは鑑定書を少し読ませると凶悪イメージがコロッと変わるんです。単純な話ですね。要するに凶悪な人格なんてない。その人の長い長い、あえていえばソーシャルリスクを負ったすごく苦しい苦難の人生があって、特に未成年の犯罪の場合には未完成の人格像がそこにあって、しかも、変な言い方しますけど、凶悪犯罪ができるほどしっかりした人格形成ができていない(笑)。あるいは凶悪犯罪をコーディネイトできるほど計画性や準備性を持てない人たちの集まりがそこにいるということに気づくわけです。
そうすると奇妙なことが起こるんですね。凶悪というセンセーションは、あれは何だったんだろうと。要するに虚構がそこに存在するだけであって、実像を見た途端に、それは全く市井の人物で、それこそもっと卑近な言い方をすると、法廷で犯罪者の顔を見ただけで、ぜんぜんイメージが違う。凶悪な人格なんていう全く存在しない人格を頭の中に描いているわけですよ。ところが、生の姿に触れて、成育史に触れて、その重たさに触れて、それからその犯罪者が未熟な顔(人格)であると、凶暴とは程遠い犯罪プロセスを見て、これは全く違うと。自分たちが見ていた凶悪というのは全部すっ飛ぶ構造になるわけですね。
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凶悪ではない、と一番分かっているのは、鑑定人であった加藤さん御自身でしょう。それが、あえて、冒頭のような書き出しをしなければならなかった・・・。
もう一つ、別のことですが。
この事件は性暴力の事件とも言われますが、被害者との最初の対面は、玄関で、被害児を抱いていました。強姦が目的なら、赤ちゃんのいるような家には入らないのではないでしょうか。
>④なぜ、乳幼児がいる家を選んだのか、といった疑問
加藤氏が言っているのは、このあたりのことではないかと思います。
加藤幸雄さんの「感情的なバッシングではなく、被告人が事件を引き起こした背景理解を深め、社会が犯罪予防のために何を行うべきか、被告人がどのように贖罪すべきか教訓や指針を明確にする必要がある」ということ、その通りだと思います。
死刑になりたいから人を殺した、という事件が増えているように感じます。
その先駆けとも言える宅間守死刑囚は確定から1年で処刑されました。
どうしてああいった事件を起こしてしまったのか、そのことを探るよりも社会の処罰感情を優先したわけです。
同じような事件が起こるのを防ごうという気持ちがないのでしょうか。
ただ、冒頭の「山口県光市での母子殺害事件は、許しがたい凶悪犯罪である」というのは、ちょっとなと思います。