牛は死ぬまでそれをくり返させられます

2010-05-10 | 仏教・・・
宮崎の口蹄疫、更に7農場で疑い例 殺処分6万4千頭に
asahi.com2010年5月9日23時11分
 宮崎県は9日、同県川南町の7農場で、口蹄疫(こうていえき)に感染した疑いのある豚と牛が見つかった、と発表した。感染確定・疑い例は、これで計56例、殺処分対象の豚や牛は計約6万4千頭となった。このうち防疫処理が完了したのは18例の約9300頭にとどまっている。
 同県によると、7農場のうち6農場で、8日に農場主や獣医師から宮崎家畜保健衛生所に口蹄疫の症状がある豚や牛がいるとの連絡があった。1農場は、県が行っている電話での聞き取り調査で発症の疑いが発覚した。
 これまでに確認された56例のうち51例が川南町に集中。同町で飼われている乳用牛の28%、肉用牛の34%、養豚の41%が殺処分の対象となる事態になっている。
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〈来栖の独白〉
 報道に接し、項垂れてしまう。五木寛之さんの著書を読み返す。罪深い人類であることだ。罪深い存在であることだ・・・。

五木寛之著『人間の運命』(東京書籍)
p171~
『蟹工船』と金子みすゞの視点
 人間、という言葉に、希望や、偉大さや、尊厳を感じる一方で、反対の愚かしさや、無恥や残酷さを感じないでいられないのも私たち人間のあり方だろう。
 どんなに心やさしく、どんなに愛とヒューマンな感情をそなえていても、私たちは地上の生物の一員である。
 『蟹工船』が話題になったとき、地獄のような労働の描写に慄然とした読者もいただろう。
 しかし、私は酷使される労働者よりも、大量に捕獲され、その場で加工され、母船でカンヅメにされる無数の蟹の悲惨な存在のほうに慄然とせざるをえなかった。
 最近、仏教関係の本には、金子みすゞの詩が引用されることが多い。
 なかでも、「港ではイワシの大漁を祝っているのに、海中ではイワシの仲間が仲間を弔っているだろう」という意味をうたった作品が、よく取り上げられる。
 金子みすゞのイマジネーションは、たしかにルネッサンス以来のヒューマニズムの歪みを鋭くついている。
 それにならっていえば、恐るべき労働者の地獄、資本による人間の非人間的な搾取にも目を奪われつつ、私たちは同時にそれが蟹工船という蟹大虐殺の人間悪に戦慄せざるをえないのだ。
 先日、新聞にフカヒレ漁業の話が紹介されていた。中華料理で珍重されるフカヒレだが、それを専門にとる漁船は、他の多くの魚が網にかかるとフカヒレだけを選んでほかの獲物を廃棄する。
 じつに捕獲した魚の90%がフカ(サメ)以外の魚で、それらはすべて遺棄されるというのだ。しかもフカのなかでも利用されるのはヒレだけであり、その他の部分は捨てられるのだそうだ。
 私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
 狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
 私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
 人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
 私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
 私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
 狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
 これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
 大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
 生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
 それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
 しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
 砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
 しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
 以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
 コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
 よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
 しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
 命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。
 金子みすゞなら、海中では殺された蟹の家族が、とむらいをやっているとうたっただけだろう。
 現に私自身も、焼肉大好き人間である。人間に対しての悪も、数えきれないほどおかしてきた。
 しかし、人間の存在そのもの、われらのすべてが悪人なのだ、という反ヒューマニズムの自覚こそが、親鸞の求めたものではなかったか。

五木寛之著『いまを生きるちから』(角川文庫〉
p191~
 仏教では、「山川草木悉有仏性〉という言葉があります。山にも川にも、草にも木にも、虫にも動物にも、すべて「いのち」があり、生命の輝きがある、という教えです。
こういう感覚は、近代の欧米の人間中心主義とは、どこか相いれないところがあります。
 ヒューマニズムは偉大な思想ですが、それは人間の世界だけに及ぶ光だと言っていいでしょう。
 人間中心主義からはじまる環境保護運動には、なんとなく私たちの気持ちにそぐわないところがあります。それは、人間という存在が、この地球上で至上の価値を持っており、人間の生活が何よりもいちばん大切なものだという傲慢な考え方が土台にあるからです。(略)
 そうではなく、これからの環境問題というのは、人間の生命と同じように、他のすべての自然に命がある。それぞれが尊い存在である。だから、同じ生命を持つ存在として「共生」しなければならないと考えるべきでしょう。畏敬の念や、思いやりや、愛情や、そういうものがそこに必要なのです。だから自然を破壊しつくしてはいけない、と。
 人間の勝手気ままな経済や商業のために自然を犠牲にすることなど、あまりにも人間中心の極みではないでしょうか。
 むかしは、「蚊取り線香」と言わずに、「蚊やり」という優しい言葉もありました。「無益な殺生はしない」というのは日本人のこころの底にあった自然と共生する感受性です。山を「お山」といい、「六根清浄」ととなえながら山にもうでる。
 畑を耕すときに、ミミズやその他のたくさんの虫のいのちや雑草のいのちを奪う。そのことに対して「供養する」という習慣も農村にはありました。
p194~
 いま、牛や鳥や魚や、色んな形で食品に問題が起っています。それは私たち人間が、あまりにも他の生物に対して傲慢でありすぎたからだ、という意見もようやく出てきました。
 私たちは決して地球のただひとりの主人公ではない。他のすべての生物と共にこの地上に生きる存在である。その「共生」という感覚をこそ「アニミズム」という言葉で呼びなおしてみたらどうでしょうか。

五木寛之著『天命』幻冬舎文庫
p64~
 ある東北の大きな農場でのことです。
 かつてある少女の父親から聞いた話です。そこに行くまで、その牧場については牧歌的でロマンティックなイメージを持っていました。
 ところが実際に見てみると、牛たちは電流の通った柵で囲まれ、排泄場所も狭い区域に限られていました。水を流すためにそうしているのでしょう。決まった時刻になると、牛たちは狭い中庭にある運動場へ連れて行かれ、遊動円木のような、唐傘の骨を巨大にしたような機械の下につながれる。機械から延びた枝のようなものの先に鉄の金輪があり、それを牛の鼻に結びつける。機械のスウィッチをいれると、その唐傘が回転を始めます。牛はそれに引っ張られてぐるぐると歩き回る。機械が動いている間じゅう歩くわけです。牛の運動のためでしょうね。周りには広大な草原があるのですから自由に歩かせればいいと思うのですが、おそらく経済効率のためにそうしているのでしょう。牛は死ぬまでそれをくり返させられます。
 その父親が言うには、それを見て以来、少女はいっさい牛肉を口にしなくなってしまったそうです。牛をそうして人間が無残に扱っているという罪悪感からでしょうか。少女は、人間が生きていくために、こんなふうに生き物を虐待し、その肉を食べておいしいなどと喜んでいる。自分の抱えている罪深さにおびえたのではないかと私は思います。
 そうしたことはどこにいても体験できることでしょう。養鶏にしても、工場のように無理やり飼料を食べさせ卵をとり、使い捨てのように扱っていることはよく知られたことです。牛に骨肉粉を食べさせるのは、共食いをさせているようなものです。大量生産、経済効率のためにそこまでやるということを知ったとき、人間の欲の深さを思わずにはいられません。
 これは動物を虐げた場合だけではありません。どんなに家畜を慈しんで育てたとしても、結局はそれを人間は食べてしまう。生産者の問題ではなく、人間は誰でも本来そうして他の生きものの生命を摂取することでしか生きられないという自明の理です。
 ただ自分の罪の深さを感じるのは個性のひとつであり、それをまったく感じない人ももちろん多いのです。(中略)
 生きるために、われわれは「悪人」であらざるをえない。しかし親鸞は、たとえそうであっても、救われ、浄土へ往けると言ったのです。
 親鸞のいう「悪人」とはなんでしょうか。悪人とは、誠実な人間を踏み台にして生きてきた人間そのもです。「悪」というより、その自分の姿を恥じ、内心で「悲しんでいる人」と私はとらえています。(中略)
 我々は、いずれにしろ、どんなかたちであれ、生き延びるということは、他人を犠牲にし、その上で生きていることに変わりはありません。先ほども書いたように、単純な話、他の生命を食べることでしか、生きられないのですから。考えてみれば恐ろしいことです。
 そうした悲しさという感情がない人にとっては意味はないかもしれません。「善人」というのは「悲しい」と思ってない人です。お布施をし、立派なおこないをしていると言って胸を張っている人たちです。自信に満ちた人。自分の生きている価値になんの疑いも持たない人。自分はこれだけいいことをしているのだから、死後はかならず浄土へ往けると確信し、安心している人。
 親鸞が言っている悪人というのは、悪人であることの悲しみをこころのなかにたたえた人のことなのです。悪人として威張っている人ではありません。
 私も弟と妹を抱えて生き残っていくためには、悪人にならざるをえなかった。その人間の抱えている悲しみをわかってくれるのは、この「悪人正機」の思想しかないんじゃないかという気がしました。(中略)
 攻撃するでもなく、怒るでもなく、歎くということ。現実に対しての、深いため息が、行間にはあります。『歎異抄』を読むということは、親鸞の大きな悲しみにふれることではないでしょうか。

読書〈親鸞/五木寛之・・・〉

3 コメント

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読み方 (さち)
2010-05-11 17:56:24
ゆうこさん。
コメントはお久しぶりです。
口蹄疫、殺処分6万4千頭の記事。胸を衝かれました。
一方、五木さんの著作から、日々のニュースをこのように読むのだと教えられた思いです。
ゆうこさん、有難う。
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Re:読み方 (ゆうこ)
2010-05-11 22:49:39
さちさん。コメント、ありがとうございます。
 本日のニュースでは、「処分の対象となった牛や豚はおよそ7万6000頭に上っています」とあります。
 五木寛之さんが以前、「報『道』、『情』報になっているでしょうか」と言っていたのを思い出します。果たして「道」や「情」が報じられているでしょうか。
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Unknown (rice_shower)
2010-05-13 10:24:41
経済的動物を、純粋に経済的な理由で殺処分にしていて、人間には無害なのですから、何とか食べられるように出来ないものか、経済的動物としての価値を全うさせられないものか、と思います。
“彼ら”を食し、それをエネルギーとし、この星全体の寿命を少しでも延ばすべく、智力を働かせる、それが我々の義務であり、“業”ではないでしょうかねぇ。
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