2018.5.19 09:00更新
【平成の証言】「あの弱々しい若者が犯人だなんて…」(平成元年8月~2年2月)
犯行の実況見分に立ち会う宮崎勤元死刑囚=平成元年8月20日
31年4月30日の終わりに向けてカウントダウンが始まった平成時代。私たちが受け止め、発した言葉は時代の証言となって「あのとき」をよみがえらせます。「平成の証言」を、元年からひと月刻みで振り返ります。
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平成元年8月
「私が捕まえたあの弱々しい若者が犯人だなんて…」(宮崎勤元死刑囚を取り押さえた男性)
7月23日、東京・八王子で女児にいたずらをしようとした26歳の男を女児の父親が取り押さえた。8月10日、この男、宮崎元死刑囚が、前年から東京と埼玉で4人が犠牲となった幼女連続誘拐殺人事件の容疑者であることが判明。メディアはこの事件の報道一色となった。
遺族に遺骨を送りつけ、「今田勇子」の偽名で報道機関に犯行声明を送っていた宮崎元死刑囚。ビデオが山積みになった自宅の様子も注目を浴びた。
元年9月
「私が涙を流したことがございますのは、(秋篠宮さまが)英国にいらっしゃった日でございます」(秋篠宮妃紀子さま)
当時の記事は「礼宮さま」と「川嶋紀子さん」。報道陣から「お二人でけんかしたり、涙を流されたりしたことは」と問われて。涙は遠距離恋愛のためだった…。12日、婚約表明会見が行われた。
プロポーズは「横断歩道の信号待ちで長話になって、そのときに」と述べられた秋篠宮さま。「初恋の人ですか」という報道陣の無遠慮な質問に、紀子さまは「そうでございます」とお答えになった。
元年10月
「顧みて我が政治生活にいささかの悔いもなし」(田中角栄元首相)
14日、娘婿の田中直紀衆院議員が記者会見し、「今期限りを以て衆議院議員としての政治生活に終止符を打つ決意をした」とする声明文を発表した。これは声明文の最後の言葉。昭和60年2月に脳梗塞で倒れて以来、政治活動は行っていなかった。
「今太閤」「ブルドーザー宰相」「ドン」「キングメーカー」…。人々の記憶に残る政治家は、日中国交回復の功績の一方で、ロッキード事件に連座した。平成5年12月、75歳で死去。
元年11月
「一家が自ら失踪することはあり得ず、何者かに拉致されたとしか考えられない」(坂本堤弁護士の同僚、横山国男弁護士)
オウム真理教被害者の会の代理人を務めていた坂本氏(33)と妻(29)、長男(1)=いずれも当時=一家が3日から消息を絶ち、神奈川県警は15日、公開捜査に踏み切った。室内には教団のバッジが残されていたが、教団は関与を否定した。
一連のオウム真理教事件の発端。未解明のまま7年3月、地下鉄サリン事件が発生。同年9月、富山県などの山中で3人の遺体が見つかった。
元年12月
「この勢い(史上最高値)を、来年につなげたい」(東京株式市場の大納会で、市場関係者)
この勢いが、まだ続くと思っていた。29日、平均株価が3万8915円87銭の史上最高値を記録。この年は昭和天皇のご病気による自粛ムードで始まったが、「好景気を背景に企業業績が大幅に伸び、金余り現象にも支えられ、ほぼ一直線に上昇した」(当時の記事)という。
大納会では翌年の午年にちなんで「“天馬空をゆく”に期待感を高めていた」ともある。だが、株価はこの日がピーク。翌年以降、バブルは崩壊する。
2年1月
「たくさんの血が口からあふれ、ああ、これで私は死ぬんだなあと思いました」(本島等長崎市長)
18日、本島氏は市役所前で右翼の男に胸を拳銃で撃たれ、1カ月の重傷を負った。翌朝の本紙の見出しは「『言論の自由』に凶弾の挑戦」。市議会で「(昭和)天皇に戦争責任はあると思う」と発言し、右翼からの脅迫を受けていた。これは22日に公表した事件当時の思いをつづった文章の一部で、全国から寄せられた激励への謝意も示している。
本島氏は26年10月、92歳で死去。「原爆投下は仕方なかった」という持論には批判も巻き起こった。
2年2月
「国民の審判に合格したのだから、みそぎは済んだ」(中曽根康弘元首相)
政界を巻き込む贈収賄事件となったリクルート事件の影響が注目された衆院選が18日に投開票され、自民党は前年7月の参院選での惨敗から一転、絶対安定多数に届く大勝を果たした。事件で自民党を離党した中曽根氏は、群馬3区で無所属で立候補。当選確実を受けて「みそぎ」が済んだことを強調し、その後、復党して党内の実力者に返り咲いた。
“みそぎ組”では、受託収賄罪で在宅起訴された藤波孝生元官房長官も当選した。
◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です
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