宮崎で2例目の鳥インフル=養鶏団地の41万羽殺処分-県、自衛隊派遣を要請へ
時事通信 1月24日(月)0時17分配信
宮崎県新富町の養鶏農場で23日、高病原性鳥インフルエンザに感染した疑いのある鶏が見つかった。同県によると、遺伝子検査で高病原性の「H5亜型」ウイルスが確認された。鳥インフルエンザ感染は宮崎市の農場に続き同県では今年2例目。この農場は県内最大規模の養鶏団地の一角に位置し、農林水産省の対策本部は感染拡大を防ぐため、団地の約41万羽すべてを殺処分する方針を決定。県は殺処分に着手した。
政府は23日夜、菅直人首相ほか全閣僚が出席して首相官邸で鳥インフルエンザ対策本部を開催。席上、菅首相は「徹底した体制を敷いて、何としても拡大を止めることが必要だ」と強調し、政府を挙げて拡大防止に取り組むよう指示した。
また、宮崎県の河野俊嗣知事は近く自衛隊の派遣を要請する方針を明らかにした。防疫体制の強化や殺処分した鶏の埋却などの実施に向け支援を求める。防衛省は、陸上自衛隊第43普通科連隊(同県都城市)の隊員約100人を待機させており、県から災害派遣要請があれば出動させる方針。警察庁と国土交通省も消毒で協力する。
宮崎県によると、21日に見つかった今年1例目の宮崎市の農場から北東8.5キロにある新富町の農場(約6万6000羽飼育)で、23日午前に鶏約20羽が死亡していると届け出があった。死亡鶏と生存鶏双方に簡易検査を行い、6羽中5羽で陽性反応となっていた。この農場では22日から県が目視検査などを実施したが、異常はなかった。
2例目の発生を受け、県は発生農場を中心とした半径10キロ圏内の鶏や卵の移動を新たに制限した。制限対象の農場は1例目と合わせて100カ所を超え、鶏は約400万羽以上になる見通し。
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◆「うし/しんでくれた ぼくのために/そいではんばーぐになった/ありがとう うし…」2010-05-18
五木寛之著『人間の運命』(東京書籍)より
私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。
五木寛之著『天命』幻冬舎文庫
p64~
ある東北の大きな農場でのことです。
かつてある少女の父親から聞いた話です。そこに行くまで、その牧場については牧歌的でロマンティックなイメージを持っていました。
ところが実際に見てみると、牛たちは電流の通った柵で囲まれ、排泄場所も狭い区域に限られていました。水を流すためにそうしているのでしょう。決まった時刻になると、牛たちは狭い中庭にある運動場へ連れて行かれ、遊動円木のような、唐傘の骨を巨大にしたような機械の下につながれる。機械から延びた枝のようなものの先に鉄の金輪があり、それを牛の鼻に結びつける。機械のスウィッチをいれると、その唐傘が回転を始めます。牛はそれに引っ張られてぐるぐると歩き回る。機械が動いている間じゅう歩くわけです。牛の運動のためでしょうね。周りには広大な草原があるのですから自由に歩かせればいいと思うのですが、おそらく経済効率のためにそうしているのでしょう。牛は死ぬまでそれをくり返させられます。
その父親が言うには、それを見て以来、少女はいっさい牛肉を口にしなくなってしまったそうです。牛をそうして人間が無残に扱っているという罪悪感からでしょうか。少女は、人間が生きていくために、こんなふうに生き物を虐待し、その肉を食べておいしいなどと喜んでいる。自分の抱えている罪深さにおびえたのではないかと私は思います。
そうしたことはどこにいても体験できることでしょう。養鶏にしても、工場のように無理やり飼料を食べさせ卵をとり、使い捨てのように扱っていることはよく知られたことです。牛に骨肉粉を食べさせるのは、共食いをさせているようなものです。大量生産、経済効率のためにそこまでやるということを知ったとき、人間の欲の深さを思わずにはいられません。
これは動物を虐げた場合だけではありません。どんなに家畜を慈しんで育てたとしても、結局はそれを人間は食べてしまう。生産者の問題ではなく、人間は誰でも本来そうして他の生きものの生命を摂取することでしか生きられないという自明の理です。
ただ自分の罪の深さを感じるのは個性のひとつであり、それをまったく感じない人ももちろん多いのです。(中略)
生きるために、われわれは「悪人」であらざるをえない。しかし親鸞は、たとえそうであっても、救われ、浄土へ往けると言ったのです。
親鸞のいう「悪人」とはなんでしょうか。悪人とは、誠実な人間を踏み台にして生きてきた人間そのもです。「悪」というより、その自分の姿を恥じ、内心で「悲しんでいる人」と私はとらえています。(中略)
我々は、いずれにしろ、どんなかたちであれ、生き延びるということは、他人を犠牲にし、その上で生きていることに変わりはありません。先ほども書いたように、単純な話、他の生命を食べることでしか、生きられないのですから。考えてみれば恐ろしいことです。
そうした悲しさという感情がない人にとっては意味はないかもしれません。「善人」というのは「悲しい」と思ってない人です。お布施をし、立派なおこないをしていると言って胸を張っている人たちです。自信に満ちた人。自分の生きている価値になんの疑いも持たない人。自分はこれだけいいことをしているのだから、死後はかならず浄土へ往けると確信し、安心している人。
親鸞が言っている悪人というのは、悪人であることの悲しみをこころのなかにたたえた人のことなのです。悪人として威張っている人ではありません。
私も弟と妹を抱えて生き残っていくためには、悪人にならざるをえなかった。その人間の抱えている悲しみをわかってくれるのは、この「悪人正機」の思想しかないんじゃないかという気がしました。(中略)
攻撃するでもなく、怒るでもなく、歎くということ。現実に対しての、深いため息が、行間にはあります。『歎異抄』を読むということは、親鸞の大きな悲しみにふれることではないでしょうか。
五木寛之著『いまを生きるちから』(角川文庫〉より
いま、牛や鳥や魚や、色んな形で食品に問題が起っています。それは私たち人間が、あまりにも他の生物に対して傲慢でありすぎたからだ、という意見もようやく出てきました。
私たちは決して地球のただひとりの主人公ではない。他のすべての生物と共にこの地上に生きる存在である。その「共生」という感覚をこそ「アニミズム」という言葉で呼びなおしてみたらどうでしょうか。
夕歩道
中日新聞2010年5月18日
さすがに詩人は物事の本質をずばりと言い当てる。一昨日、本紙のCOP10のシンポジウムに登壇の谷川俊太郎さんは、ややこしい生物多様性をこう述べた。「つまり、いただきます、ですね」 いただきます、は日本語特有の言い方だと谷川さんは言う。試しに和英辞典を引くと、食事を始める前のいただきますは英語では言わない、と書いてあった。神への感謝の祈りはまた別のこと。 壇上で彼は詩を朗読。「うし/しんでくれた ぼくのために/そいではんばーぐになった/ありがとう うし…」。生きものへ、生産者の人たちへ、父母へ、みんなに感謝しつついただきます。
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◆「牛は処分を察してか悲しい顔をする。涙を流した牛もいた」担当者ら、悲痛~心のケアを
◆電気を流した。「豚は一瞬、金縛りのように硬直して、聞いたことのない悲鳴のような鳴き声を上げた」
◆「子牛もいた。何のために生まれてきたんだろう」処分用薬剤を140頭もの牛に注射し続けた獣医師
◆牛は古来人間の友だちだった。人も食べる麦を食べに来て、家畜化されたのは新石器時代のころ
食べもしないのに人間に捨てられた野良という理由で殺される犬猫の話を聴くにつけ心がすごく痛み人間の罪深さを知り、これこそまるで自分自身が手を下したかのような良心の呵責を感じます。
ま、だからといって肉食をする者の罪深さが消えるわけではなく、常に自分を悪いと思って申し訳なく思って日々過ごしていく気持ちがあれば自然と森羅万象にやさしくなれる、そう思います。
余談ですが私はペットは買わない主義で通してきます。野山に住む生物こそが一番自然で本来あるべき姿と考える自分が、自分の下に動物を囲い込んで窮屈な環境に押し込めるなど罪深いと考えているからです。
生きるために真剣に食べる(戴く)のならまだしも、早食い、大食いゲームの類いもありますね。化粧品や薬剤開発等、さまざまです・・・。頭を垂れるばかりです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/dohbutu.htm
>早食い、大食いゲームの類いもありますね。
わたしもかねてよりこの手の企画は大嫌いですし、フードファイターなどという早食い大食い自慢も嫌いですし、ギネスブックに早食い記録が公認される現実にもいささかいらだっております。
>化粧品や薬剤開発等、さまざまです・・・。
動物実験で苦しめられる動物たちのことを見聞きするにつけ胸が痛みます。そもそも近頃とりわけ人間が人間をないがしろに扱う話を大変に多く聞きます。人間同士で尊重しあえなくてなんで人間以外を尊重できるかという気持ちで胸が痛みます。
>回答いただけることは
私のほうこそ、感謝しています。回答というほどのものではないですけれど、お返事するのは難しいです。かなり考えなくては・・・。
これからも宜しくお願いします。