反骨の弁護士が見た戦後
ひまわりと羊 第五部 罪と罰 ■ 4 ■
注目の裁判 突然の依頼
2022年8月29日(月曜日) 中日新聞
「なぜ、自分が」と戸惑った。1995(平成7)年3月、内河恵一(よしかず)は当時の県弁護士会長に呼ばれ、一つの依頼を受けた。
88年に名古屋市緑区の大高緑地で六人の若者がカップルを襲って殺害するなどした「大高緑地アベック殺人事件」。その主犯格とされ、犯行当時19歳の少年だった被告の弁護を引き受けてほしいと言われた。
一審で死刑判決を受けた被告は、量刑見直しを求めた2審の審理中に弁護団を解任していた。公判を空転させるわけにもいかず、弁護士会が後任を探していた。ただ、民事を中心に仕事をしてきた内河は二の足を踏む。
「もちろん事件自体は知っていたが、刑事裁判の経験は少ないし、そんな大事件をやるような人間じゃないと思っていた。無理だ、と断った」
その後、親しい弁護士だった村田武茂からも声をかけられ、「断れなくなった」。村田とともに国選弁護人に就くことになった。
内河に声がかかったのはなぜか。当時、駆け出しの弁護士で、のちに弁護団に加わる雑賀正博浩(60)は「理詰めだけで接するのではなく、心がすさんだ被告を慰めながら裁判を進められるのは誰かを考えたと思う。刑事弁護を中心にやってきた人たちが解任され、刑事弁護の主流派とは違うところで探したのではないか」と推し量る。
内河はすぐに、面会するために名古屋拘置所に足を運んだ。被告と向き合い、まずは事件と関係ない話をするところから始めた。
「この先生は何しにきたのか、と思われていたかも」。そうして少しずつ関係を築いていった。
「死刑判決を受けた人の弁護は初めてで、きんちょうした。でも、しょせんは私たちとそんなに変わりはない。生まれたときから犯罪者というわけではない。それがどこかで狂った。その狂ったところを探し、少しでも被告の良いところを見つけて裁判官に訴えるのが仕事だと思った」
面会を重ねるうちに、被告の口から「生きて償いたい」という言葉を耳にするようになった弁護団は、その意味を問い続ける作業を始めた。
(文中敬称略)
📝大高緑地アベック殺人事件 1988年2月、名古屋市緑区の大高緑地公園で、少年ら6人がデート中だった理容師の少年=当時(19)=と理容師見習いの女性=同(20)=が乗った乗用車を襲撃した。さらに2人を自分たちの車に乗せて連れ回して暴行し、長久手町(現長久手市)で少年を絞殺。三重県内の山林で女性を絞殺し、2人の遺体をその場に埋めた。
◎上記事は[中日新聞]からの書き写し
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* 反骨の弁護士が見た戦後 強盗殺人 記録に違和感