遠藤周作著『死海のほとり』…身内がイエスを「夢ばかり追う責任能力のない者」と思い始めたのも当然だろう…「ねずみの奴、どこの収容所に入れられたんだっけ」「ゲルゼン」…

2020-02-09 | 本/演劇…など

〈来栖の独白2020.2.2〉
 遠藤周作さんの著書、イエスに関するものを読むのも一段落と思っていたのだが、再び手にとった。『死海のほとり』。これも氏の生涯をかけた労作。
 遠藤さんはその著『死について考える 』の中で、≪あの人の百倍も強烈なのが私にとってイエスかもしれないと思うことがあります。≫と述懐しているが、それは私にも云える。遠藤さんに比すれば、私などささやかすぎるものだが、イエスは気になる存在であり続ける。困ったものだが。


『死海のほとり』遠藤周作著 新潮社 昭和48年6月25日発行 

著者の言葉
 長年の間、私が聖書のなかで自分をいつも投影してきたのは、イエスを知りながら彼を見棄てたり裏切ったりした弟子や祭司やその他のあわれな男たちである。この数年、死海のほとりやユダの荒野を歩くたびに私はいつかイエスを書きたいと願ったが、結局、書いたのは彼にその人生を横切られながらも彼を裏切ってしまい、そのくせイエスを忘れることのできぬーーそんな人間たちの眼から見たイエスだったかもしれぬ。

p58~
「まあ、気を落としなさんな」膝をもみながら戸田は、例のうす笑いを頬に浮かべた。「今のエルサレムなんてこういうもんです」
「気など落としていないさ」
「なら、あんたもけりがついたろう。もともと日本人が、この国のイエスという男などに執着しているのが妙な話なんだから」
 二十数年前、寒く暗い寮の扉を押してミサに出て行った戸田の姿と、あの時、遠くから耳にした扉のギイと軋んだ音が、心につらく甦ってくる。
「君もイエスを見棄てたのか」
p59~
「見棄てなどしないさ。見失ったんだよ」戸田は首をふった。
  (略)
「なぜ」私はしつこく訊ねた。「君は長い間、聖書を勉強してきたのに」
「そうさ。だからイエスも見失うさ」戸田は遠いものでも見るような眼つきをした。
「ここに聖書学を勉強している一人の男がいてね、長い間、イエスの生涯も姿も聖書に書かれてあるその儘だと信じてきた。だが勉強が進むにつれ、聖書に描かれたイエスの生涯も言葉も事実というよりは原始キリスト教団が神格化し、創られたものだとわかってくる。それから長い間、彼は後世の信仰が創りだした聖書のイエス像を丹念に横にのけて、本当のイエスの生涯だけを見つけようと考え、この国にやってきた」
「君のことかい」
「俺のことでもいい」
 戸田の唇にこの時うかんだ微笑は、私をからかうためではないようだった。
「その勉強がどうなった」
「聖書だってエルサレムと同じさ」彼は声を落とした。「この町で本当のイエスの足跡が瓦礫のなかに埋もれて何処にも見あたらぬように、聖書のなかでも原始キリスト教団の信仰が創りだした物語や装飾が、本当のイエスの生涯をすっかり覆い隠しているのさ。俺のやった勉強は、聖書考古学者の発掘みたいなものでね」
p60~
「どうして」
「考古学者が瓦礫を掘りさげ、この破片がイエス時代のものか、もっと新しいものか、ひとつひとつ調べるように…こっちも長い間、聖書のなかから後世につくられたものと、本当のイエスが語ったり行ったりしたものを分けてみたんだ。マルコやルカやマタイがどういう材料をどう使って、どういう風に書いたか。その材料はどこまで史実に即しているのか。創作か伝承か…そうした伝承や創作の部分を、忍耐強く取り除き濾過した純粋なものを探す仕事だ。それで得た結果は…」
 顔をあげて戸田は無理矢理に弱々しい笑いを浮かべたが、そんな弱々しい笑い方をする彼を私は、昔あの学生寮では一度も見たことがなかった。
「それで得た結果は…ほんの一握りのイエスの足跡だけでね」
「一握りのイエスの足跡でも」私は彼を慰めるために呟いた。「確実なことなんだろ」
「ああ、一応は確実だと思うよ」
 私には彼の勉強の結果を反駁したり批判する力はない。彼が聖書のなかからどういう方法で事実と創作とを区別したのかもわからず、その方法が正しいのか間違っているのかを識別することもできない。ただ私の記憶には、あの冬の暗いさむい朝ミサに出ていった戸田の姿や、その時ギイと軋んだ寮の扉の音がまだ残っていて、あの彼が今こんな弱気なことを呟くようになったのかと思うと、感慨無量だった。そしてその歳月の長さが、自分のそれにも重なって感じられてきた。我々は二人とも人生のけりをつけねばならぬ年齢になっているのに、戸田も私も手のなかにえたものは結局は何だったのだろう。
p61~
「だから、本当を言えば」戸田は眼をそらせて、「あんたから手紙をもらって案内するのが億劫でね」
「いいさ」私は弱々しく笑った。「この国に来たからと言って、こっちも自分が変わるなんて思っちゃいないんだから。ただ折角、来た以上…せめて事実のイエスの足跡ぐらい連れていけよ」
「それぐらいはするさ。しかしそんなもの、どこにも残っていやしない。俺があんたに見せられるのは、せいぜい彼のたどった漠然とした生涯の道すじぐらいのものだから」
「どこから始めるの。ベトレヘムから?」
「ベトレヘム? ベトレヘムでイエスが生まれたなんて…原始キリスト教団やマタイ福音書やルカ福音書が、彼を神格化するために作った話だよ。イエスがナザレで育ったというほか、我々にはその幼年時代は確実なことは何もわからないんだから…」
「じゃ、何処に連れていってくれる」
「そうだな」自信を取り戻したように戸田は、またあの教師風の口調になった。「ユダの荒野にでも行くか。エルサレムから車で1時間ほどの荒涼とした砂漠で、イエスがヨハネ教団に身を投じて修行した場所であることは確かだ。そこから出発すれば、イエスの本当の姿は少しずつわかるかもしれんし…」
「イエスの本当の姿って、どんなものだ」
 私をじっと見て、戸田は頬にゆっくりと皮肉っぽいうす笑いを洩らした。自分が長い間、聖書学から掴んだものを一言で言えという私の質問に、彼は憐れみを感じたのかもしれない。
「まあ、そう急ぎなさんな」戸田は椅子からたちあがった。「旅行しながら小出しにさせてもらうさ」

p62~
 (略)
「今度は何を見るの」
「ユダヤ人虐殺記念館。戦争中、各地の収容所で死んだユダヤ人を弔って作られた小さな建物だよ。それしか、もうあんたに見物させるものがないからな」
 (略)
p63~
  入口の隣の展示室は、地下室のように暗く漆喰の臭いがこもっている。電気はなく蝋燭の炎が囚人のように壁に並んでゆれていて、私は古い墳墓のなかに入ったような気がする。どこかで、さっきの蜂の羽音がかすかに聞こえ、蝋燭の芯のやける臭いが鼻についた。サングラスをとって壁の碑を読むと、そこにはダハウ、フォセンベルグ、マウトハウゼン、アウシュヴィッツというナチの収容所の名が列記され、六百万人にちかいユダヤ人がそこで死んだという英文が刻まれていた。
 (略)
 収容所の写真は何度も見たから、私はこの時も暗い憂鬱な気分にさせられたものの、日本で初めてこの種の写真に接した時のあの吐気のするような衝撃も感ぜずに、その一つ一つに眼をゆっくり移していた。ただ、この収容所のなかでもユダヤ人たちが生きる支えとして匿していたというユダヤ教の経典(タルムード)が、硝子ケースに入れられて隅におかれてあるのに気づいたとき、私は戸田の説明を聞きながら、背皮も糸も切れた本をしばらく凝視していた。凝視しながら、急に昨夜、ホテルの部屋で我々の思い出話にのぼったねずみという綽名の修道士のことが心に甦ってきた。戸田は(p64~)ねずみが、たしかどこかの収容所で死んだと言っていた筈である。
「ねずみの奴、どこの収容所に入れられたんだっけ」
「ゲルゼン」
 さっきの碑をふりかえり、ゲルゼンの収容所の名を探しだして私は読んでみた。
「ゲルゼン収容所は…ケルンとハンブルグの中間にあり、1944年、アウシュヴィッツよりヨゼフ・クライマーが収容所長となって以来…2万9千人に近いユダヤ人が極端なる飢餓と労働とを強いられ…」
 (略)
 ねずみ。あの泣きはらしたような眼をしたコバルスキという名の修道士。私たちの大学にいた外人司祭や修道士のなかでねずみは珍しいほど貧弱だった。戦時下の食糧事情のためすっかりやせた学生たちと並んでも、首も手足も子供のように小さい。小さいだけでなく、ロイドという昔の喜劇俳優に似たその顔は、学生たちの嘲笑やからかいの的になる。彼がどんなに臆病かというさまざまな話が、学生の間に伝説的に伝わっていたものだ。

p70~
「石鹸がどうした」
「聞いたことはないのか。ナチは収容所の囚人の死体から色々なものを作ったって。髪からは繊維を、皮膚からは紙を…骨は砕いて肥料にしたけどね。この石鹸は死体の脂をしぼりだして…それでできた石鹸だよ」
 うす汚れてはいたが、10個ほどの石鹸は桃色の紙に包まれていて、その紙に蝋燭の炎の影がうつり私の読めぬドイツ語の黒い文字がおどっていた。

p104~
「ナザレの町の人間や彼の家族には、そんな彼がどうもよく理解できなかったらしいな」
 戸田は眼をしばたたいて、ギアを入れかえた。
「家族なんて、どうせ、そんなものだな」
 君の別れた奥さんもそうだったのか、と訊ねたい気持に駆られたが、私はそれを口にしなかった。ただ彼の発言を誘いだすように、わざと、
「そうかね、昔、公教要理の時、神父さんたちはイエスが従順な家族の一員のように教えてくれたがね」
p105~
「そうじゃない、イエスの従兄弟は長い間、イエスを馬鹿にしている。彼が家庭生活で駄目な男だったからだ。親類たちもやがてイエスを責任能力のない者と扱うようになっている」
「そんなこと何処に書いてある」
「マルコ伝やヨハネ伝さ。マルコ伝の3章21節や、ヨハネ伝の7章5節がふと洩らしている。ある学者は彼が家族から責任能力のない者にされたとさえ言っている。聖書のなかのこんなふと書かれた記述が、事実のイエスを知る上に大切な手掛かりになるもんだ」
「なぜ、責任能力のない者と言われたのだろう」
「そりゃそうだろう。家族はイエスがいつまでもナザレの町で、大工仕事をやってくれると考えていたろう。それなのにある日、突然荒野に行ってしまった。まずしい家族にとって男手ひとつが減ることは大変なことだ。彼の身内がこの時から、イエスを夢ばかり追う責任能力のない者と思いはじめたのも当然だろうよ」


遠藤 周作『死について考える』 あの人の百倍も強烈なのが私にとってイエスかもしれないと思うことがあります 

  
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遠藤周作著私にとって神とは---聖書はイエスの生涯をありのまま、忠実に書いているわけではない---原始キリスト教団によって素材を変容させ創作した

   


マルコによる福音書 3章
20
群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。
21 身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。
22 また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

ヨハネによる福音書 7章
4 自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。
5 こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである。
6 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。
7 世はあなたがたを憎み得ないが、わたしを憎んでいる。わたしが世のおこないの悪いことを、あかししているからである。
8 あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。  


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